仕事先の担当記者によると、秘密保護法によってドキュメンタリー映画は壊滅する可能性がある。「国家権力の闇を穿つ作品は紹介できない」と、メディア関係者は既に屈服しているという。〝沈黙という狂気〟は密度を増し、世間を覆いつつある。
映画人は抗議の声を上げたが、作家たちは<温い構図>に安住しているのではないか。<石破幹事長はテロ発言を謝る必要はなかった>と「週刊新潮」が主張したように新潮社は秘密保護法賛成で、原発推進派でもある。どうして大江健三郎や高村薫は版権を引き上げないのだろう。イスラエルにおける<卵と壁>のスピーチは格好良かったが、村上春樹は日本で壁を補強する側である文藝春秋と親密で、月刊の最新号で小説を掲載している。
星野智幸はツイッターやブログで秘密保護法への本質的な批判を展開しているが、残念ながら知名度が低い。大物で反対の意思を鮮明にしたひとりが、今回取り上げる村上龍だった。
心身の老化は当ブログでぼやいている通りだが、「ここまできたか」と愕然とする事態に直面する。この1カ月、続けて本を放り出してしまった。フォークナーの「アブサロム・アブサロム!」と平野啓一郎の「葬送」で、精神と気力を総動員しなければ対峙出来ない重厚な壁に、俺は完璧に跳ね返された。
「これも無理かな」と不安を抱きつつ、村上龍の「歌うクジラ」(10年、講談社)を読み始めた。上下で700㌻弱の力作だが、何とか読了できた。80年以降、日本文学を牽引したのは春樹と龍のW村上だが、俺は当時、安部公房、石川淳、開高健ら旧世代、リョサ、マルケス、プイクら南米文学に魅せられていた。以降も、カズオ・イシグロと高村は例外だが、同時代の日本人作家と縁がなかった。
平野の「決壊」に衝撃を受け、5年前に最前線の作品を読むようになった。村上龍の作品はここ20年、一冊しか読んでいないから、語る資格はない。そのことは重々承知の上で、「歌うクジラ」の感想を記したい。
俺は村上について、先入観を抱いていた。迸る感性、壁を破る暴力性、不良性といったイメージだが、本作の印象はまるで異なる。<文学はこうあるべき>という高邁な理想の実現に邁進する誠実な作家像が浮かんできた。
主人公は15歳のアキラで、階層が固定し廃墟と化した100年後の日本が舞台だ。アキラは導かれるように下層階級が住む島を出る。肉体に填め込まれたチップをある者に渡し、社会を改革するという目的があった。父が遺したサーバーで管理されたデータに触れてきたアキラは様々な事象や歴史を、机上の知識として蓄積していた。
生命実験を繰り返すうち、毒性の液体を分泌する変異した人間が生まれた。彼らはクチチュと呼ばれ、そのうちのひとりであるサブロウがアキラの最初の同行者になる。アキラとサブロウは、移民の子孫たちの一団と出会う。中国地方を拠点に勢力を保った移民たちは、反乱を起こして鎮圧された。最初は誤植かと思ったが、彼らは日本語を壊して会話する。社会から排除された敬語を旧世代の日本人のように用いるアキラ、助詞を誤用する反乱移民の子孫という設定に、アイデンティティーの差が表現されていた。
アキラは移民の子孫アンに恋心を抱く。欲望がコントロールされ、愛という概念と切り離された社会で、アキラは両方が一致する対象としてアンを捉えている。ちなみに、未来の日本では下層階級の少年少女は特権階層の性の玩具になる。アキラもサツキという年齢不詳の女性にあてがわれていた。
サブロウ、アンに続き、人間と猿の遺伝子を併せ持つ優秀な女性飛行士ネギダールがアキラの同行者になる。自らを「おれ」と呼ぶネギダールの佇まいを表現しているのは、センテンスが延々と続くその語り口だ。試練を潜り抜けてひとりになったアキラは宇宙へ旅立つ。待ち受けていたのは、ヨシマツと呼ばれる怪異な支配者だった。
村上は哲学を帯びた言葉の爆弾を降り注ぐ。冗舌さに辟易し、パンチドランカーになって脳が痺れ、細部がぼやけてくる。と同時に、芯の部分が浮き彫りになってくる。それは、広大な伽藍を崩壊させる一本の梁とでもいうべきか。
ラストに近づきながら、ある疑問を覚えていた。小説とは遡行しながら進行するのが常だ。本作ではメモリアックという装置が過去と現在を繋いでいるとはいえ、触感のする登場人物がアキラの周りから消えていき、再び現れない。消化不良を覚えていたが、最後に救いとカタルシス――俺の読み違いかもしれない――が用意されていた。
<大切なことを理解した。ぬくもりも音も匂いもない宇宙の闇の中で、気づいた。生きる上で意味を持つのは、他人との出会いだけだ>
傷ついたアキラが行き当たった真実を、村上はこのように記している。アナログに聞こえるが、人類史を敷衍しつつ旅を終えたアキラの独白が、胸に新鮮に響いた。
70年代後半、「平凡パンチ」(恐らく)で、時代の寵児と並び称せられた村上龍と長谷川和彦が対談していた。村上は還暦を過ぎても良質の小説を世に問い、長谷川は「太陽を盗んだ男」(79年)以来、一本の映画を撮ることなく消えた。2人の天才が辿った道は、天の配剤と片付けるのはあまりに残酷すぎる。
映画人は抗議の声を上げたが、作家たちは<温い構図>に安住しているのではないか。<石破幹事長はテロ発言を謝る必要はなかった>と「週刊新潮」が主張したように新潮社は秘密保護法賛成で、原発推進派でもある。どうして大江健三郎や高村薫は版権を引き上げないのだろう。イスラエルにおける<卵と壁>のスピーチは格好良かったが、村上春樹は日本で壁を補強する側である文藝春秋と親密で、月刊の最新号で小説を掲載している。
星野智幸はツイッターやブログで秘密保護法への本質的な批判を展開しているが、残念ながら知名度が低い。大物で反対の意思を鮮明にしたひとりが、今回取り上げる村上龍だった。
心身の老化は当ブログでぼやいている通りだが、「ここまできたか」と愕然とする事態に直面する。この1カ月、続けて本を放り出してしまった。フォークナーの「アブサロム・アブサロム!」と平野啓一郎の「葬送」で、精神と気力を総動員しなければ対峙出来ない重厚な壁に、俺は完璧に跳ね返された。
「これも無理かな」と不安を抱きつつ、村上龍の「歌うクジラ」(10年、講談社)を読み始めた。上下で700㌻弱の力作だが、何とか読了できた。80年以降、日本文学を牽引したのは春樹と龍のW村上だが、俺は当時、安部公房、石川淳、開高健ら旧世代、リョサ、マルケス、プイクら南米文学に魅せられていた。以降も、カズオ・イシグロと高村は例外だが、同時代の日本人作家と縁がなかった。
平野の「決壊」に衝撃を受け、5年前に最前線の作品を読むようになった。村上龍の作品はここ20年、一冊しか読んでいないから、語る資格はない。そのことは重々承知の上で、「歌うクジラ」の感想を記したい。
俺は村上について、先入観を抱いていた。迸る感性、壁を破る暴力性、不良性といったイメージだが、本作の印象はまるで異なる。<文学はこうあるべき>という高邁な理想の実現に邁進する誠実な作家像が浮かんできた。
主人公は15歳のアキラで、階層が固定し廃墟と化した100年後の日本が舞台だ。アキラは導かれるように下層階級が住む島を出る。肉体に填め込まれたチップをある者に渡し、社会を改革するという目的があった。父が遺したサーバーで管理されたデータに触れてきたアキラは様々な事象や歴史を、机上の知識として蓄積していた。
生命実験を繰り返すうち、毒性の液体を分泌する変異した人間が生まれた。彼らはクチチュと呼ばれ、そのうちのひとりであるサブロウがアキラの最初の同行者になる。アキラとサブロウは、移民の子孫たちの一団と出会う。中国地方を拠点に勢力を保った移民たちは、反乱を起こして鎮圧された。最初は誤植かと思ったが、彼らは日本語を壊して会話する。社会から排除された敬語を旧世代の日本人のように用いるアキラ、助詞を誤用する反乱移民の子孫という設定に、アイデンティティーの差が表現されていた。
アキラは移民の子孫アンに恋心を抱く。欲望がコントロールされ、愛という概念と切り離された社会で、アキラは両方が一致する対象としてアンを捉えている。ちなみに、未来の日本では下層階級の少年少女は特権階層の性の玩具になる。アキラもサツキという年齢不詳の女性にあてがわれていた。
サブロウ、アンに続き、人間と猿の遺伝子を併せ持つ優秀な女性飛行士ネギダールがアキラの同行者になる。自らを「おれ」と呼ぶネギダールの佇まいを表現しているのは、センテンスが延々と続くその語り口だ。試練を潜り抜けてひとりになったアキラは宇宙へ旅立つ。待ち受けていたのは、ヨシマツと呼ばれる怪異な支配者だった。
村上は哲学を帯びた言葉の爆弾を降り注ぐ。冗舌さに辟易し、パンチドランカーになって脳が痺れ、細部がぼやけてくる。と同時に、芯の部分が浮き彫りになってくる。それは、広大な伽藍を崩壊させる一本の梁とでもいうべきか。
ラストに近づきながら、ある疑問を覚えていた。小説とは遡行しながら進行するのが常だ。本作ではメモリアックという装置が過去と現在を繋いでいるとはいえ、触感のする登場人物がアキラの周りから消えていき、再び現れない。消化不良を覚えていたが、最後に救いとカタルシス――俺の読み違いかもしれない――が用意されていた。
<大切なことを理解した。ぬくもりも音も匂いもない宇宙の闇の中で、気づいた。生きる上で意味を持つのは、他人との出会いだけだ>
傷ついたアキラが行き当たった真実を、村上はこのように記している。アナログに聞こえるが、人類史を敷衍しつつ旅を終えたアキラの独白が、胸に新鮮に響いた。
70年代後半、「平凡パンチ」(恐らく)で、時代の寵児と並び称せられた村上龍と長谷川和彦が対談していた。村上は還暦を過ぎても良質の小説を世に問い、長谷川は「太陽を盗んだ男」(79年)以来、一本の映画を撮ることなく消えた。2人の天才が辿った道は、天の配剤と片付けるのはあまりに残酷すぎる。
ヤングの傲慢さ、その実自らの嵌った井戸も知らず、恥ずかしいばかりでした。
「愛と幻想のファシズム」、初めて読んだせいもあったんですが、実に衝撃的な小説でした。危険な小説です。
「みんしゅしゅぎ」を根底から覆えされ、危険なファシストに惹かれる自分に驚きました。
あの驚きははじめてハーレーのスポーツスターを運転した時の衝撃と並んでぼくの胸にニガく残っています。
それからずっと読み続けていた村上作品でしたが「半島を出よ」以来しばらく読んでませんでした。「歌うクジラ」、読んでみたいと思います。
たまたま先日、久々に「太陽を盗んだ男」を観ました。ローリングストーンズの来日が決定する直前のタイミングで。
ぼくの記憶の中では、文太が「ローリングストーンズは来んっっ!」って絶叫してたんだけど、観なおすと割りとそこはさらりとしていたのでした。
しかし「9番」というクールネスとアイロニー! 美しい池上季実子! ジュリーの倦怠とギラギラする文太!そして映画史に残る奔放で不敵な想像力!! これが100円で見れるってどういうことでしょう? エロビなんて借りている場合じゃないですね。
ぼくらは夫婦は、かなり慎ましいので、1万4千円出すには、お小遣いの不足しています。おそらく最後のストーンズだというのに!
そういえば、村上龍の「コインロッカーベイビーズ」は、長谷川監督による映画化を前提に書いたという話をどっかで聞きました。それは実現して欲しい。ガキに媚を売ったマンガ原作がのさばる映画事情、目の覚めるような想像力の飛躍を見たいものですね。
長谷川和彦が諸般の事情で映画を撮れないのは、大きな損失ですね。自業自得の部分もあるでしょうが。
ストーンズには70年代以降、まるで興味がない。そういえば、ボブ゛・ディランも来るみたいですが……。