Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

誹謗中傷

2020年05月23日 | Weblog
木村花さんという人が亡くなって、著名人訴え「ネットの誹謗中傷を本気で考えなくちゃいけないとき」という記事が出ていました。

その通りなのですが、では、政治家や著名人に対してなら、何を言っても良いのか。犯罪など過ちを犯した人に対しては、何を言っても良いのかと思います。

私のようなささやかな立場でも、若い頃は、様々なことを言われました。今もおそらくはそういうこともあるでしょうし、発信すれば、様々な反応が起きることは覚悟しなければなりません。
誰が言っているかも分からない、昔の便所の落書きのような言葉でも、やはり、自分に向けられたものだとわかれば心が傷つきます。言葉には良くも悪くも力があるのです。

言われている中に、信念が鍛えられて、強くなっていくこともあります。歳を取れば打たれ強くもなります。しかし、言葉に対する感性を鈍らせてはいけません。
また、人間は完璧な存在ではありませんから、誹謗中傷にも1%程度の正しさがあることもあります。そこで、たかがそれぐらい言っても良いじゃないかという感覚も生まれます。

亡くなった木村花さんは22歳ですから、まだまだ、心ない言葉に耐える力も備わっていなかったのだと思います。まして、小中学生は、もっと耐える力が備わっていないでしょう。
「そんなことで死ななくても」というのは簡単です。しかし、「そんなこと」の重みは人によって違うのです。

かくして、誰に対しても誹謗中傷はしないことが大切なのだと思います。異論反論を言いたいのなら、相手に敬意を持ちつつ、相手の立場も慮って、名乗りを上げて、責任の所在を明確にしてものを言うしかないのだと思います。

誹謗中傷のお手本は、国会の場でも、大手メディアでも、毎日のようにこれでもかと言わんばかりに見せてくれます。だから、子どもたちもしっかりと学習していくことと思います。実に情けないことです。

こういう人に対しては誹謗中傷してもかまわないが、こういう人に対しては駄目という線引きなどできるはずがありません。

とにかく、品位をもって生きていくことが大切なのだと思います。言葉の品性、立ち居振る舞いの品性が、人間には大切です。そうしたものが身についていない人を、「禽獣の如し」と昔の人たちは言って戒めていたのです。(下手すれば、「禽獣の如し」という言葉も、誹謗中傷になり得ますが・・・。)

だから、まずは、教育をする人たちの言葉の品性、生き方の品性が求められるのだろうと思います。子どもの頃の人間教育が大切だと思います。

その第一歩は、とにかく他人の悪口を言わない、他人のせいにしないということだと思います。

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夏の甲子園

2020年05月21日 | Weblog
夏の甲子園が中止になりました。戦後初めてのことです。
球児たちの目的が消えた喪失感は大きなものがあります。
3年間限定の目標である、甲子園の素晴らしさと大きさを、失ってみて一層わかったというコメントもありました。
球児たちの晴れ舞台であり、大きな目標がなくなってしまったことを、とても残念に思います。

しかし。

甲子園も高校三年生にとっては、一度限りの夏ですが、人生も一度限りです。
人生の目的がないことには何の痛みも感じずに生きていることの不思議を思います。

高校球児から、プロ野球選手になり、華々しい活躍をしても、薬に溺れたり、お金を失ったりで、辛い人生になっている人たちの話もよく耳にします。

やはり、大切なことは、人生を貫く目標をどう持つかだと思います。自分にとって何のための甲子園なのか。何のための野球なのか。野球を通じて世の中に何を残していきたいのか。その先を考えることが大切なのだと思います。

「甲子園に行くのが夢? じゃあ、甲子園が終わったら、夢もおしまいですね。」
「医者になるのが夢? じゃあ、医者になったら、夢もおしまいですね。」
「東大に入るのが夢? じゃあ、東大に入ったら、夢もおしまいですね。」

その先にある、自分の志を考えることが、これまでの努力を無駄にしないことではないかと私は思います。

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アビガン効かないの?メディアリテラシー

2020年05月21日 | Weblog
治療薬アビガン、有効性示せず 月内承認への「前のめり」指摘
新型コロナウイルス感染症の治療薬候補アビガンを巡り、国の承認審査にデータを活用できると期待された臨床研究で、明確な有効性が示されていないことが19日、分かった。複数の関係者が共同通信に明らかにした。感染した著名人がアビガンの投与後に回復したと公表し、安倍晋三首相は「5月中の承認を目指す」とするが、現時点で薬として十分な科学的根拠が得られていない状況だ。
 アビガンは催奇形性の問題などがあり、専門家からは「効果や安全性を十分確認せずに進むのは納得できない」「月内の承認方針は前のめりだ」などの声が出ている。
共同通信 最終更新:5/20(水) 12:29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アビガン「有効性示されず」報道は誤解 藤田医科大が見解
新型コロナウイルスの治療薬候補である新型インフルエンザ治療薬「アビガン」の臨床研究を進めている藤田医科大は20日、研究の中間解析に関する一部報道について「安全性を担保するために行われるもので、有効性の判定が主目的ではない」との見解を発表した。
 中間解析で有効性が示されず、現時点で承認に必要な十分な科学的根拠が得られていないとする一部報道を受けたもので、同大関係者は「報道には誤解がある。中間解析で結果を出す方が異例だ」と話した。厚生労働省も「途中経過で判断するのは時期尚早」としている。臨床研究は無症状や軽症の患者計86人を対象に8月まで実施。政府は有効性が確認されれば、今月中の承認を目指すとしている。
 臨床研究は全体を終えた時点で有効性を確認できるように計画するのが一般的という。
産経新聞 最終更新:5/20(水) 19:56
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アビガン「安全性問題なし」 藤田医大、臨床研究を継続
アビガンの新型コロナウイルスへの治療効果を研究している藤田医科大(愛知県)が20日、インターネット上で会見し、学外の専門家による評価委員会による中間解析の結果、安全性に大きな問題はみつからず、研究を続けると発表した。有効性については「中間解析は有効性を評価するものではない」とし、現段階では判断できないと説明した。
 同大は3月から患者計86人を目標に臨床研究を行っている。初日から10日間アビガンを使うグループと、6日目から15日目まで使うグループの二つに分け、体内のウイルス量の減少や安全性を調べる。会見した研究責任医師の土井洋平教授によると、半数の患者の結果に基づく中間解析では、中止の要件となる安全性の問題、極めて高い有効性のいずれにも当たらないと判断された。
 会見は中間解析の結果、有効性を示せなかったとする一部報道に反論するために開かれた。「(中間解析は)薬剤の効果を判定するものではない。違う形で報道されている」と話した。
朝日新聞社最終更新:5/20(水) 23:17
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三本の記事を時系列で並べてみました。最初の誤報はどう責任をとるのだろうかと思います。
「アビガン効かないよ」と大声で言っちゃったわけですから。
でも、当の藤田医科大は、「中間解析で、安全だってわかったよ。有効性はまだ後でね。」と言っただけなのです。

情報は大切なのですが、とにかくメディア情報を鵜呑みにしないことが大切です。こんなことは日常茶飯事なのです。自分が正しいと信じていることの根拠を常に疑ってかかる必要があります。信じられるものがない、面倒な世の中です。

ん?最初の記事で、アビガンが効かないと言っている理由は、安倍首相が推してるからってことかな?


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矛盾の中で

2020年05月20日 | Weblog
緊急事態宣言下で、結構、TVを見る機会が出てきました。(いつもは全くと言って良いほど見ないので。)

まぁ、日頃から見てなくて良かったとつくづく思いました。コメンテーターが生み出す余計な情報に振り回されるだけになりかねないなと思ったからです。(なりませんけど)

結論としての批判ありきだから、辻褄の合わない話になるのだろうなとか、陰謀論まで出てくるのかとか、色々と考えさせられました。
私はTVを見ないから良いようなものの、日頃、見てる人たちは大丈夫かな?と思いました。

メディアも学校も似たところがあります。

一つ目は、様々な情報に、自分たちの価値観のフィルターを通して、世間や子どもたちに伝えていくと言うことです。誰しも自分の価値観のフィルターを持っています。だからこそ、不特定多数に伝える上では、元になるデータなど、できるだけ正確な事実だけを伝えて欲しいと思います。また、それが正確である根拠も伝えて欲しいと思います。
それから自分のフィルターが汚れていないか、いつも気にして欲しいと思います。汚れたフィルターで物事を見れば、真実は汚れていなくても、汚れて見えるからです。

二つ目は、やっていないことを伝えていると言うことです。医者が医療について伝える、パティシエがお菓子について伝える、寿司屋が寿司について伝える、ミュージシャンが音楽について伝える、庭師が庭について伝える、介護士が介護について伝える、経営者が経営について伝える。みんな具体的に日々やっていることを話すのが基本です。

しかし、メディアと学校は、伝えること自体が仕事ですから、自分がやってもいないこと、そこまで深くは理解していないことを伝えていくということにもならざるを得ません。

だから、そこに幾ばくかの本当らしさをもたらすには、自分がよほど謙虚で、様々な人たちに学ぶ姿勢が必要なのだと思います。

私はメディアでも学校でもないので、とにかく、精一杯、一人の人間として、正直でいようと思います。理解されないことや、誤解されることは多いけれど、丁寧に、誠実にやっていこうと思います。







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次第に分かってきたこと

2020年05月19日 | Weblog
米国、死者数8万9874人。感染者数149万6509人。
英国、死者数3万4796人、感染者数24万6406人。
イタリア、死者数3万2007人、感染者数22万5886人。
フランス、死者数2万8239人、感染者数17万9938人。
スペイン、死者数2万7709人、感染者23万1606人。
日本、死者数765人、感染者16.365人。

次第に、新型コロナウイルスに対する各国の状況が明らかになってきました。

やはり、この問題で大切なことは、「人命を守る」ということですから、日本の対応力は、ダントツに素晴らしいとしか言いようがありません。

ちなみに各国の人口は、米国を除けば、日本の半数前後です。つまり、日本は2倍以上の人口を抱えながら、死者は極端に出していないのです。

イギリス6,753万人、
イタリア6.055万人、
フランス6,513万人、
スペイン4,673万人
日本 12,686万人

小林よしのりさんが揶揄したように、「PCR真理教」の如く、マスコミは「海外に較べてPCR検査をやっていない。だから日本は駄目なんだ。政府は無能なのだ。」とヒステリックに叫んでいました。今も記憶に新しいところです。

勿論、検査数が増えるのは大切なことです。どんな病気もそうですが、検査しなければ、最終的には感染は分からないのですから。(検査の精度が低いという問題はありますが。)

しかし、感染防止の観点、医療崩壊を防ぐことの大切さを考えれば、すぐにやれというのは無理があります。それが、混乱のさなかにおいては、常識的な判断だと思います。

今回のことで、災害の最中に、黙々と人の命を守るために、命がけで頑張ってくれている人たちがいることがよく分かりました。

色々な批判に晒されながらも、懸命にやり抜いて下さる、政治家や行政の人たちがいることもよく分かりました。

黙々と困難に耐え、みんなのためを思って行動する人たちがたくさんいることも分かりました。緊急事態宣言を受けて、自粛に協力して下さった人たちです。

安全なところにいて何もしないのに、批判だけする人たちがいることもよく分かりました。

どんな人間を育てるべきか。答えは明白です。
「あんな大人になっちゃいけませんよ。」と言われない人財育成をしたいと思います。



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新型コロナと日本人

2020年05月19日 | Weblog
「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
                  
この歌は、有間皇子が、斉明天皇に対する謀反の罪で捕らえられて、牟婁(むろ)の湯(今の和歌山県白浜)へ護送される途中で詠んだ歌です。

意味は、「 家にいるときは、いつでも食器に盛って食べる飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛って食べることだ。」というような意味です。

何が言いたいかというと、「笥」(け)というのは、食器を意味する言葉で、食事に関わる言葉でもあります。また「ケ」は日常でもあります。農耕民族の日常といえば、米を作ることです。

日本人はハレとケを使い分けて弾力的に生活を送ってきました。「ハレ」は、神々とある特別な日で、祭りの日でもあります。収穫を喜び、神様に感謝する日です。「晴れ着」「晴れ舞台」「晴れがましい」などの色々な言葉もあります。

「ケ」は日常です。日常がマンネリ化すると、疲れて鬱々としてきて、「ケ」が枯れた状態になってしまいます。「ケガレ」の状態です。

農耕民族にとっての日常が失われれば、田畑で作物はできなくなります。食料がなくなれば、最悪の場合、飢え死にしてしまい、死ねば疫病が流行ります。これもまた穢れです。

こうして日本人はケガレを恐れ、常に清潔な状態を保とうと努力してきました。また、ハレの日(非日常)を大切にし、生活にメリハリを持たせ、活力を失わぬようにしてきました。

日本人は、万葉の時代から、旅のさなかでも、食べ物を「椎の葉に盛る」のです。手づかみではなく、箸も使います。神社に行けば、まずは手水で手を清めます。

この時代は、ヨーロッパは、まだ手づかみで食べる時代だったと思います。フォークやナイフやスプーンの原型は農具です。農具を応用して、食に使うようになりました。

日本の箸は、最初から、食べ物などを直に触らないことを目的に使われていたようです。箸が日本の文学に最初に出てくるのは、712年に成立した『古事記』です。

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治しに、なぜ、スサノオが川上へ向かって歩いて行ったのかというと、それは、川上から箸が流れてきて、誰か人がいるということをスサノオが察知したからです。

ケガレを嫌い、清潔を好む、民族の記憶のようなものが、今回の新型コロナウイルスに対しても、力を発揮しているのではないかと思います。

水と緑に恵まれた生活の中から育まれてきた、日本人ならではの感性を忘れないようにしたいものです。


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ふと、江戸時代を思った。

2020年05月16日 | Weblog
今は新型コロナウイルス感染防止のため国境が閉ざされています。しかし、いずれまた、世界の人々は往来を再開していくと思います。

そこで、ふと思ったことは、これまでのグローバル化は、いったい何のためだったのだろうかということです。経済効率の追求ということ以外に、どんな意味をもっていたのか。

異文化を知るとか、友人が増えるとか、教養が豊かになるとか、先端的なことを学べるとか、色々な意味があるとは思います。

しかし、それにどれほどの価値があるのか。よく分からないところもあります。

江戸時代は、海外との付き合いはあまりありませんでした。しかし、人々は幸せでなかったかといえば、そうでもないと思います。太平の時代を謳歌していました。

個人が国境を越えるようになり、会社が国境を越えるようになり、国が国境を越えて付き合っていくようになりました。

それは何のためだったのか。経済的欲望を満たすためだけなのか。そうではないはずです。それを一人ひとりが考え、行動することが求められる時代になっていくことでしょう。

地球規模の解決が求められる問題は、国境を越えて解決して行かざるを得なくなっています。
ということは、個人の安全のためにも、グローバル化は避けられない時代になったということでしょうか。SDGsという概念は、それを物語っています。

人間の幸せとは何か。グローバル化はどのように幸せに関わってくるのか。そうしたことを考えなければならない時代が、目の前に来ているのかもしれません。

しかし、まだ、国家の野望や、個人の欲望が、個人や国家を動かす強烈な動機になっている以上。国家の舵取りも、自分自身の舵取りも困難な時代だと思います。

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未来

2020年05月16日 | Weblog
鬼滅の刃、その音楽の、紅蓮華。その他にも、色々と音楽を聴き、マンガを読んでいると、日本人の魂のようなものは、確実に若者たちに受け継がれていることを感じます。

なぜなら、作品の台詞や、歌の歌詞を、考えられる人たちがいて、その世界観を受け入れ、それを肯定する若者たちが、たくさんいるからです。

きっと未来への心配などなにも要りません。

未来には才能ある素晴らしい若者たちが、たくさん出てくると思います。
私はもう少しだけ悪あがきして、次の世代に残せるものを作っておきたいと思います。

それとても顧みられることなく、うち捨てられたままになるかもしれませんが、できることを、一生懸命にやるだけです。

人生とはそんなものだと思います。


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徒然なるままに

2020年05月16日 | Weblog
昔のことを思い出していました。
私は日本思想史学を大学で専攻しました。
そして、思想を学んでも、現実の社会で役に立たなければ、意味がないと思ったのでした。
右に対しても左に対してもそう思いました。浮世離れした考えで、ビジネスパーソンとして、何ができるの?と。

その思いは、今も変わりません。
現実の社会に対して、何か一つでも商品やサービスを提供した方が良いと思います。
思想的な正しさを振りかざしたところで、現実に生きる人たちの救いにはならないのではないかと思います。その集団の中での言論に酔っていても、実社会でそれは果たして意味を持つのだろうかといつも思います。

だから私は、右に付くこともなく、左に付くこともなく、自分の考えを確立していこうと苦闘しています。組織の中にいれば、色々な支える力が働きます。しかし、反対にその縛りにもまたきついものがあります。直感的に、私にとって、それは個の確立とは違うような匂いがするのです。

個としての確立を自らに求めるのは、孤独な道程なのだろうと思います。しかし、それを一人ひとりがやっていくしか、国の精神が独立する道筋もないような気がしています。
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問われているもの

2020年05月14日 | Weblog
緊急事態宣言がいよいよい解除されます。

経済活動が再開されようとしているわけですが、一気に動き出せば、また、感染が爆発的に広がっていくのかもしれません。

誰にもその答えはわかりません。

ただ、問われているのは「自制心」だということだけは確かだと思います。どこまで「自制心」をもって行動できるのか。あるいはできないのか。

日本人の教育の成果が問われているのだと思います。
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