Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

ブッダのように私は死んだ

2020年12月25日 | Weblog
「サザンオールスターズの桑田佳祐が作詞作曲し、演歌歌手の坂本冬美が歌う楽曲「ブッダのように私は死んだ」のミュージックビデオ(MV)が、公開から約1か月半で再生回数100万回を突破。演歌歌手の楽曲としては異例の早さを記録した。」

ということで、早速、聴いてみました。

感想は・・・、「ブッダに謝れ!」・・・以上。
という感じです(笑)。

歌の世界観たるや、もう支離滅裂。
桑田佳祐さんだから仕方ないけど(笑)。

ブッダについて、聴く人も誤解せぬよう、手塚治虫さんのマンガ『ブッダ』ぐらいは読んどいた方が良いかと思いました。

どうか仏教界から怒られませんように。・・・て言うか、どうか仏罰が当たりませんように。南無。

でも、全てを仏様は受け入れてくださると思えば、これもまたアリなのかもしれません。人間らしく煩悩に悩み苦しみ死んでいくというということであれば・・・。

「ブッダのように・・・」と言えるかどうかは、???ですが。


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仏教についてコメントできるかわかりませんが (田中絵里緒)
2021-04-27 17:35:09
こんにちは。私が適切なコメントできる立場にあるのかわかりませんが、仏教についてのほかのコメントがないようですので、僭越ながら、この記事を読んでぐるぐるずっと考えていたことを言葉にしてみます。

仏教も現代では色々な系統に分かれていて、もちろん「罰が当たる、呪い、たたり」を言う宗派もあると思います。

私の場合は、父が浄土真宗本願寺派の中で結構有名なお坊さんをしており、仏教の大学の先生もしてましたので、父は教義については間違った理解はしてないかと思います。私自身は僧侶ではないのですが、小さいころから仏様の話を聞いて育ちましたし、高校生の長男も得度に行きました。

浄土真宗本願寺派に関して言えば、仏様や仏教の坊さんたちを怒らせて「罰が当たる、呪われる、たたられる」という事は一切ない、という教義です。ただ、「種を植えてやがて実がなるように、自然の摂理としての因果応報はある。人為的に誰かが罰を与えているでのはない。」という考え方です。

どんな悪いことをした人に関しても「悪人こそが救われる。」「責めるのは違う。その人のために悲しみ、その人が救われるためにどうするか考えてあげられるのか、あなたは仏様の教えをその人に伝えて一緒にお念仏できるのか。」というのが浄土真宗の考え方だと思います。ですので、いろんな説話でも繰り返し、これでもかと分かりやすい悪人の話が出てきます。

「春夏秋冬そして春」という、2004年の韓国映画があり、私の大好きな作品です。

https://filmarks.com/movies/24724

こちらは韓国の禅寺ですので、日本の浄土真宗とはお寺でやることは違いますが、仏教と「ブッダのように私は死んだ」が、この映画でつながるかもしれません。

ネタバレで申し訳ありませんが紹介します。このお話では、山奥のお寺を一人でひっそり続けている老僧が、孤児(男の子)を僧にすべく幼少期から育てていきます(春の風景)。しかし若者は老僧の指導もむなしくやんちゃを通り越して邪悪、青年期に惚れた女性を追いかけて寺から出て行きます(夏の風景)。

結局女性を他の男性に取られ、復讐心から殺人を犯し、おじさんになってから服役後にすべてを失って寺に戻ってきます。その彼に、老僧は「自分が欲しいものは他人も欲しいに決まっとろうが」と静かに言います。そして二人はまた一緒に寺で暮らします。(秋の風景)

老僧が老衰で亡くなり、心から悲しみ弔う若僧はいつしか、かつての春の老僧の姿に近づいており、矢も楯もたまらず冬の山を登っていき老僧に感謝の祈りを捧げます。(冬の風景)

春、孤児がやってきてやんちゃな小坊主になり、老僧になった主人公は目を細めて見つめる・・・。イントロと同じ光景なのですが、観衆の心に深い感動が訪れます。

多分、桑田佳祐さんが描きたかった世界も、あの映像に出てくる男女双方の煩悩や宿業の深さ、そんなものを抱えて多くの人が黄泉に旅立っていく、そして生まれ変わっていく、というような「世の中をありのままに俯瞰、詠嘆」する歌だったのではないでしょうか・・・。

「だから何?」「で?」・・・と言ってしまうと、世の中のすべてが、「だから何?」「で?」だよ!・・・と、浄土真宗の仏様はニヒルに笑っておられるだけの存在。で私たちは「気づきをありがとうございます」と手を合わせて、自分の煩悩や宿業とまた向き合う毎日に戻っていく、というのが多分浄土真宗の理解ですね。

煩悩や宿業を無くしてすっきりクリーンな人間になりたい!なった人がいるんだ!みんな頑張ろう!修行するぞ修行するぞ!・・・とかいうのはむしろオウム真理教とか新興宗教によくある発想ですね。浄土真宗本願寺派に関しては、「煩悩や宿業をなくせる人間は誰もいない。自分の罪深さに気づけ、謙虚になれ。いや、なりましょう。私もそうです。」という世界なのです。私の父もなまぐさ坊主そのものですし、カリスマ的な感じはなくぼそぼそしゃべって、そこがまた静かに受けているようです。

先生の期待外れだったらすみませんが、こんな珍回答で、少し参考になりましたら幸いです。
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