本当にわかっていただくことと、
わかったような気にさせることは違います。
前者はその人の財産となり血肉となり、
日々の成長の糧となっていきます。
しかし、後者は、勘違いし、
道を誤ることにさえつながってしまいます。
わかったような気にさせる教育をしていないか
常に自戒すべきことです。
本当に糧となる何かを手渡す教育を生み出したいものです。
共に学んだ手応えを実感できる教育をしていきたいものです。
本当にわかっていただくことと、
わかったような気にさせることは違います。
前者はその人の財産となり血肉となり、
日々の成長の糧となっていきます。
しかし、後者は、勘違いし、
道を誤ることにさえつながってしまいます。
わかったような気にさせる教育をしていないか
常に自戒すべきことです。
本当に糧となる何かを手渡す教育を生み出したいものです。
共に学んだ手応えを実感できる教育をしていきたいものです。
という見出しの記事が出ていました。
最近、こうした事件をよく目にするようになった気がします。
大人になるとは何かがわからぬまま、親になった不幸なのかもしれません。
人を大人たらしめる教育を模索し、実践していくしかないと思います。
全力を尽くしても思いが届かないこともあります。
深く反省し、自分を磨くしかありません。
だからこそ、「我、事において後悔せず」という
宮本武蔵の言葉が心に響きます。支えになります。
矢面に立てば、当然、傷つくこともあります。
しかし、戦い続ける限り、それは仕方の無いことです。
だからこそ、共に矢面に立って下さる方に感謝しますし、
更なる高みを目指そうと、日々、決意を新たにします。
シアターやセミナールームなど、人が集まっていた所が、ほとんど稼働していない状況が続きます。
人が集い、音楽や舞台や映画や、様々な芸術・文化を楽しむ場が、新型コロナウイルス感染拡大によって失われています。
しかし、いつかまた復活の日が来ると思います。
その日まで、少し我慢しつつ、映像や書籍などで教養を深め、来たるべき再開の日に備えておきたいと思います。
人間の人間たる所以は、様々な文化・芸術を尊重し、生活に心の潤いを生み出し続けて来たことだと思います。
それを失ってはならないと思います。
過去の偉大な教育者たちが、
教育の神髄については語り尽くしています。
しかし、それを現代に蘇らせるためには、
単にその言葉を語るだけでは駄目なのだと思います。
過去の偉大な教育者たちと同じぐらい、
学び、苦しみ、悩み、実践を続けてはじめて、
その言葉を語って、そこに魂が蘇るようになり、
人に伝わる、力のある言葉になるのだと思います。
遠い道程です。
新型コロナウイルスの感染が、今までになく身辺に迫ってきていることを感じます。
ただ、やるべきこと、やれることは、手指消毒や免疫力アップなど、当たり前のウィルス対策で、風邪やインフルエンザと同じことしかありません。
風邪やインフルエンザを完全に防ぎきれない以上、新型コロナウイルスも完全に防ぎきれるかどうかはわかりません。
しかし、厳格に対策してきたことで、私はもう1年以上風邪すら引いていません。それはそれで良いのですが、無菌室から出た人間が、弱いウイルスに感染して、あっけなく死ぬようなことにならなきゃいいがと思ったりもします。
そんな状況下ではありますが、とにかく教育を止めてはならないと思います。
私がやっていることは、特に即効性のない人間教育かもしれませんが、その学びとの出会いが、後々、大きな花をひらくこともあると信じてやり続けています。
だから、教育を止めてはならない。そう思って走り続けます。
「立身出世」という言葉は、あまり良い意味ではとらえられなくなっています。「身を立て、名を上げ、やよ励めよ」という歌詞が「仰げば尊し」に出てきます。歌が作られた当時(明治17年)は、大切にされていた価値観です。
民主主義や平等の概念から、「立身出世」は否定的に捉えられるようになってしまいましたが、そもそも「立身出世」とは何かを考えてみたいと思います。
まず「立身」とは、「身を立てること」です。自分が何らかの事が出来るようになり、手に職付けて働こうということです。何をして食べていくのかしっかり考え、学び、自分を鍛えて、ちゃんと生活していきましょうね、ということです。何の問題もありません。
「出世」とは「世に出ること」ですが、立身ができて、良い仕事を続け、他人様からの信頼が得られ、少しずつ、その人の存在が知られていくと言うことだと思います。世に出るには大変な努力が必要なのです。
私もこれまでやってきた教育が、少しずつ他人様に知られ、もっと多くの人たちと共に学べるようになったらいいなと思っています。しかし、まだまだ努力が足りず、そうはなっていません。
名を上げることは簡単ではありません。実績をあげ、信頼を長い時間、勝ち得ていって、初めてそうなることだからです。
それは、名前だけを先に売ろうとする売名行為とは対極にあるものです。
また、「身を立て名を上げ」という歌詞は、「『孝経』開宗明義章の「身を立つるには道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終なり」を踏んだ歌詞であり、立身出世ではなく、孝道を実践し、心身の修養を目指す儒教的な道徳を歌ったもの」だという考えもあります。
つまり、「身を立て名を上げること」が、一番の親孝行だという考え方です。
何にせよ、私は「立身出世」をネガティブに考えることには、
賛成できかねます。
必死で頑張って、
何とか成果が出るかもしれないぐらいですから、
身を立てよう、名を上げようと思って頑張らなければ、
もっと成果を出せないことは目に見えているからです。
ただ、「立身出世」という言葉の定義が違うから、
意見がかみ合わないであろう事も
容易に想像がつきます。
また、自分の人生を、他人や会社や国のせいにばかりして、
自分で自分の道を切り拓いていこうとしない人たちにも
理解できない話だと言うこともよくわかります。
東京チェンソーズの若者たちが、
日本の林業の未来を憂えて、
新しい林業の形を作ろうと模索していることを知りました。
頑張って欲しい取り組みです。
私は教育の世界で頑張ります。
林業も教育も似たところがあると思います。
つまり、新しいやり方も必要ですが、
古くから大切にされてきた
先人の叡智が大切なのだということです。
話を伺っていて、
日本の未来を考えることが共通のテーマであり、
その意味では同志なのだと感じました。
ネット記事を見ていると、
見る必要も無い情報、見たくもない情報を
毎日のように見せられていることに気がつきます。
世界には無数の事件が起き、記事が書かれています。
それを取捨選択し、掲載しているのは誰か。
その意図にのらないようにしたいものです。
なぜこの記事は掲載されたのだろう?
なぜこの記事は私の目に触れるように
仕向けられているのだろう?
ついつい考えてしまいます。
イヤなら見なきゃ良いという考え方もあるのですが、
社会を知りたいという知的欲求がある以上、
リスク覚悟で情報の海に飛び込むしかありません。
勿論、溺れないための武装は必要ですが。
知的欲求もそうですが、
達成感への欲求(ゲームでの)、承認の欲求、性的欲求、
金銭的欲求、安全への欲求、その他諸々。
人間の本能に付け入って、時間を浪費させ、
精神を荒ませていくものが、社会には溢れかえっています。
それは、楽しさや、充実感や、達成感や、満足感といった
仮面をかぶっています。
何とかして被害を小さくしたいと思います。
ただ、生み出されたツール自体は善でも悪でもありません。
教育の力で、善なるものを希求する精神を
育めるようにしたいと思いますし、
社会全体にプラスになるようにしていきたいものです。
御皇室でのゴタゴタが、ずっと続いています。
昭和の御代にはなかったことが、色々と起きています。
そうしたことを薄々は感じていましたが、
御皇室への尊崇の念を抱いていればこそ、
口にするのが憚られるという感覚を私は持っていました。
しかし、哀しいことに、もうそんな感覚を
捨てなければならないのかもしれません。
少しずつ、「私を優先する心」が、
「公を優先し、国の弥栄を祈る心」を
蝕んできているように感じます。
哀しいことです。
しかし、それはまさに衰退した日本国民の象徴としての、
あるべきお姿なのかもしれません。
日本の国運の衰退を象徴するような出来事に思えてなりません。
また、日本人の精神の衰退を象徴している出来事のようにも
思えてなりません。
まぁ、お前如きが言うなって話ですから、
これぐらいで口をつぐもうと思います。
でも、残念です。
そして、無念です。