Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

母国語の大切さ

2024年05月30日 | Weblog

英語の重要性は確かにその通りですが、今、母国語の教育の重要性を痛感しています。相手を理解すること、思いやりの心を持つこと、気遣いをすること、敬意を払うこと、孝行をすること、こうした心の動きも、全て言語によって行われるものだからです。

何を思い、何を行動するのかは、言葉によって自分自身に指令されるものですから、言葉の豊かさ、言葉の細やかさ、言葉の強さ、そうした国語の力が、その人の人間の力となるのだと思います。

異なる意見は大切です。異なる意見の人とぶつかり合うことで、角が取れ、磨かれていくからです。しかし、そこにも人間としての敬意を払うという、最低限の考え方、つまり、言語の働きは必要です。

今のネット社会では、一方的に受信し、自分に心地良い言語空間に逃げ込むことも可能です。それでは偏った視点が肥大化されるだけです。解決の方法としては、複数人と様々な自然体験、社会体験をし、それを言語体験として自分の中に落とし込む、そんな体験活動が必要なのだろうと思います。

 

 

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他人事

2024年05月23日 | Weblog

我が子ができれば、子どもの将来を真剣に考えない人は少ないと思います。

子どもの将来とは、子どもたちの将来であり、日本の将来でもあります。

望んで子どもを作らなかった人も、望んだのに子どもができなかった人も、

やはり、子どもがいる人といない人とでは、危機感は異なると思います。

「血を分けた」という言葉があるように、

子どもは自分自身でもあります。

だから、未来を憂うことは、生物としての生存本能なのかも知れません。

色々な理屈をつけようとも、人が少なくなれば、働き手は減り、

社会インフラも、経済力も、防衛力も失われていくのは当たり前のことです。

そして、国が滅びれば、個人も安らかな暮らしができるはずがありません。

歴史を紐解けば、国を失った民が、

どれほどの辛酸を嘗めなければならないかわかるはずです。

子どもを持つ親は、もっと怒るべきなのかもしれません。

しかし、正しい情報が見えなくなる仕組みによって、

怒りさえも、危機意識さえも、正義感さえも、

そして、肉親の情さえも失われてきているのが、

令和の日本なのかもしれません。

少なくとも自分はそうはならないと

引き締めてかからなければならないと思います。

 

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虚しい言葉

2024年05月21日 | Weblog

官僚と大臣の言葉をはじめとして、

官僚や政治家たちの言葉は、

いつからこんなに実態のない虚しいものになったのだろうか。

責任回避と尻尾を掴まれまいとの魂胆に満ち満ちた、

スカスカで気色の悪いものになったのだろうかと、

国会答弁を聞いていて思いました。

血の通わない、情の通わない、言葉のやりとりは、

もはや「キモい」レベルに成り果てています。

そんな者にはなりたくないと私が思うのは良いのですが、

子どもたちがそう思うのはいかがなものかと思います。

「末は博士か大臣か」と

敬意を表されていた時代は、

まだマシだったのだろうと思います。

教師も、父も、母も、祖父母もそうですが、

本来、敬意を払われ、感謝されるべき存在が、

そうでなくなった社会というのは、

恐ろしくいびつで不幸な社会なのではないかと思います。

しかし、それを糺すのは、

一人一人の心の持ち方でしかないと思います。

その原因を他人のせいにしているようでは、

解決はおぼつかないのです。

一灯照隅。万灯遍照。

 

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己と向き合う

2024年05月21日 | Weblog

己と向き合うことの大切さを思います。

日々、スケジュールをこなすことに追われ、

騒々しく、スマホを駆使し、

SNSで自己顕示をしなければ、

己の存在すらかき消されてしまうような気がする時代です。

しかし、だからこそ、私は一人静かに、書物を読み、

自分と向き合い、虚心に反省し、

自分と日本と世界の、来し方行く末を

静かに考えてみたいと思います。

私も背負っている組織があり、

そのためにフェイスブックなどでの

発信をすべきかと思いましたが、

やはり、自分がこんな素晴らしい所に行ったとか、

こんな美味いものを食べたとか、

そうしたことを発信すること自体が

品性に欠ける行為だという考えが染みついた

古い人間なので、どうにも居心地が悪いのです。

それは、

あくまでも自分がそうすることに対して思うだけで、

他人様がされていることをどうこうは思いません。

私は、全力で学び、学んだことを、

目の前にいてくださって、

価値観を共有できる人に全力で伝える。

それだけで良いと思います。

そうして、ひっそり生きて、

ひっそり死んでいけば良いのだと、私は思います。

いや、そうするしかないのだと思います。

ただ、小さくともキラリと光る価値あるものが、

私がこの世を去った後にも何か一つぐらいは残せるように、

全力で深く学び続けたいと思います。

 

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学問

2024年05月18日 | Weblog

先日、かねてより行っておきたかった、

安岡正篤記念館を訪ねました。

行って良かったと心から思いました。

安岡正篤先生の蔵書や文字や生き様に触れると、

その人の精神は言葉に宿り、

その人の言葉は行動に化するものなのだと思いました。

そして、それは更に多くの人に影響を与え、

一国の未来にも影響を与えるものなのだと感じました。

そこに学問の神髄はあるのだと思いました。

私も及ばずながら、じっくりと精神を鍛えるような

深い学びをしていきたいと思います。

 

 

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教育と信念

2024年05月17日 | Weblog

信念なき人間は侮られるしかありません。

政治家であれ、会社員であれ、教育者であれ、同じ事です。

信念ある仕事をしている人の言葉と行動は、

それがどんな仕事であるのかを問わず、

教育としての価値を持ちます。

人の心に響き、行動に変革を促し、その人に成長の契機をもたらします。

それこそが教育です。

そう考えると、信念なき教育者の存在が、

如何に虚しいものであるかがわかると思います。

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今日もお疲れ様でした

2024年05月15日 | Weblog

今日も全力で働きました。

趣味や余暇を慰めとせず、

仕事に充実感と喜びを感じられる人生で、

本当に良かったと思います。

全身全霊をかけて打ち込める事業を

生業とすることができて、本当に幸せです。

願わくば、未来の子どもたちのために、

何か1つでも役に立つことを手渡せたらと

願うばかりです。

今日もお疲れ様でした。

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挑戦

2024年05月07日 | Weblog

人間が仕事をする以上、そして、一人では大した仕事などできない以上、人間が磨かれるような教育が大切だと考えます。しかし、まずは、自分自身をいかに磨くかということが大切なのだと思います。そうでなければ、他者に対する影響力など生まれては来ないからです。しかし、煩雑な日々の時間の過ごし方の中で、本当にそれが可能なのか、日々、挑戦し続けるしかないのだと思います。そして、その成果は見ぬままに世を去って行く覚悟を持てるほど、自分の実践していることに信念を持たねばならないのだと思います。

 

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