Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

しょうが焼きの方

2010年11月28日 | Weblog
先日、九州自動車道下りの、
あるSAでレストランに入った。

支払いの時から、嫌な予感はあった。

胸に「いつも笑顔でお客様に応対します」
というプレートをつけた女の子が、
にこりともせずに応対してくれたところから、
私はきっと嫌なことが起きるに違いないと思い始めていたのである。

テーブルについて、しばらくしたら、
私の頼んだ「しょうが焼き定食」が運ばれてきた。

私は、きっとお決まりの、イマドキ日本語を使って
言ってくれるのだろうと期待した。

そう、「こちらしょうが焼き定食になります!」という、
あの「なります用法」である。

この場合の突っ込み方はただ一つである。
「・・・もうなってるよ!(しょうが焼き定食に)」

残念ながら、この程度の言葉の乱れでは、
私にとっては、もはや驚くことでさえも無いのである。(どうだ)


やがて、若い男の子が「しょうが焼き定食」を運んできてくれた。

店員「こちら、・・」
私 「ほら、来たっ!!」

・・・が、次の瞬間、予想は裏切られ、事態はさらに複雑化した。

台詞はこうだったのだ。

店員「こちら、しょうが焼き定食の方になります!」

私「・・・へっ?・・・」

私は不意を突かれて、疑問が頭の中をぐるぐる駆け巡った。

「・・・??? それって、どっちの方向???」

もはや、しょうが焼き定食に
「なっているか」「なっていないか」などという問題は、
些細な問題に過ぎなかった。

問題は、
「しょうが焼き定食の方向とは、あるいは、しょうが焼き定食の方角とは、
 一体どっちなのか?という問題であった。」

かくして私は、しょうが焼き定食を食べている間じゅう、
この難問を考え続けるハメに陥ってしまったのである。


食べ終わる頃、他のテーブルに運ばれていく「しょうが焼き定食」を
何気なく眺めていた私は、更なる発見をすることになった。

「あっ!!」

私の「しょうが焼き定食」には、
本来有るべきはずの味噌汁が乗っていなかったのである。

つまり、「しょうが焼き定食の方」がどっちの方かを考えているうちに、
私は大切なことをすっかり見失っていたのである。

みなさんも正しい日本語を使いましょうね。
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死生観

2010年11月25日 | Weblog
死生観について、私たちはあまりにも学ばなくなりました。

幕末の佐藤一斎は『言志晩録』の中で「死生観七則」を記しています。

その一

生は是れ死の始め、死は是れ生の終わり。
生ぜざれば則ち死せず。
死せざれば則ち生ぜず。
生は固と生、死も亦生、
「生生之れを易と謂う」とは、即ち之なり。

     言志晩録285(講談社学術文庫)


易では、
生と死、朝と晩、昼と夜、男と女、その他、
森羅万象には、陰陽があり、
陰陽は単に対立するだけではなく、
無限に変化し、また生々発展するものだと考えられています。

つまり、四季が循環するがごとく、
「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」のであり、
「死が極まれば生となり、生が極まれば死となる」というわけです。

死生観について学び、心に修めておくことが、
私たちの生を輝かせるためにはとても大切なのだと思います。

私自身の経験でも、生が輝いていた十代の若い頃に、
「生とは何か」という哲学的命題に煩悶した経験が、
今の生を真っ直ぐに燃え立たせてくれるエネルギーになっているように思います。


スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学でのスピーチにも
そんなフレーズがありました。

No one wants to die.
Even people who want to go to heaven don’t want to die to get there.
And yet death is the destination we all share.
No one has ever escaped it.
And that is as it should be,
because Death is very likely the single best invention of Life.
It is Life’s change agent.
It clears out the old to make way for the new.
Right now the new is you, but someday not too long from now,
you will gradually become the old and be cleared away.
Sorry to be so dramatic, but it is quite true.

死をまっすぐに見つめることが、
生をまっすぐに見つめることになる。

そう思います。
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おわかれ

2010年11月19日 | Weblog
久しぶりに、身近な人を亡くしました。

人はこの世を去っていかなければならない。

当たり前のことですが、
改めて思い出させてもらいました。

もっと、話したいことがあったし、
もっと、見たい景色があったし、
もっと、時を共に過ごしたかった・・・。

松下村塾で初めて出会い、
ゴールドコーストで再会し、
幾つかの日本での旅をご一緒させていただきました。

いくつもの種を、
私たちの心に播いて下さいました。

感謝は尽きませんし、
思い出もまた尽きません。

更に私は激しく歩んで参ります。
先生が心を残されているであろうその分の道程をも・・・。

ありがとうございました。
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孔子の里

2010年11月19日 | Weblog
今日は北九州にある高校の後援会の皆様と
多久聖廟に日帰り研修に行ってきました。

孔子の学問-儒学-を学ぶ上で、
九州ではベストの場所です。

素晴らしい「気」が漂っており、
聖賢の教えを学ぶには格好の場所です。

今回は、紅葉がとても素晴らしかったです!!
見事、見事、見事、…。
ため息が出そうでした。

あぁ、日本は、素晴らしい!
とても美しい!
心からそう思えるひとときでした。

参加者の皆様も素晴らしいメンバーで、
とても充実したひとときを過ごさせていただきました。

ありがとうございました。


コメント (1)
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学びとは

2010年11月16日 | Weblog
テレビを一日中ずっと見ていても、
政治の勉強になるし、経済の勉強にもなる。

インターネットサーフィンを一日中やっていても、
やはり、色々な知識を身につけることはできる。

しかし、大切なことは、知っているかどうかではなく、
その知識を活かせるかどうかということである。

つまり、何を言っているかではなく、
何をしているのかが大切なのだと思う。

また、些末な点で正確かどうかと言うことよりも、
事の本質をつかむことができているかどうかが大切だと思う。

学ぶ事は尊いが、
行動に転じない学びは、
あまり世の中の役には立たない。

だから、私たちは行動をしなければならないと思う。

行動しなければ、批判も少ないが、
行動をすれば批判もされ安くなる。

さて、どれぐらいの無鉄砲さで行動するか、
思案のしどころである。
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どうするか?

2010年11月15日 | Weblog
仕事をする仲間と会話をしていて大切なことは、
「では、どうするか?」
ということに意識を集中させることだと思う。

愚痴や悪口に終始していては、
全くもって前には進まない。

現状分析、現状把握は誠に結構な事ではあるが、
「では、どうするか?」
ということに答えを出さなければ前には進まない。

しかも、
「私はどう動くか?」
この一点に意識を集中させるしかないと思う。

「では、どうするか?」
「私は、どう動くか?」

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「夢のある者 進歩がある」

2010年11月11日 | Weblog
志が大切だと思う。

志は、
何のために学ぶのかという
大きな推進力になる。

船井哲良氏の著書に、次のような言葉があった。
とても素晴らしい言葉だと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「夢のある者 進歩がある」


夢のある者  希望がある

希望のある者 目標がある

目標のある者 計画がある

計画のある者 行動がある

行動のある者 実績がある

実績のある者 反省がある

反省のある者 進歩がある

進歩のある者 夢がある


『四十歳で五つの会社の社長になる』(PHP)より
船井 哲良(船井電機会長)
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教育者の課題

2010年11月07日 | Weblog
バーナード・ショウ曰く、

「Who can do,who cannot teach.」

「実際の仕事が出来る者はやる。
 出来ない者が教える。」

教育に携わる者として、
考えさせられる言葉です。

私は、私が世の中でできることを問い続け、
ささやかではありますが、
自分の会社の事業として形にし続けたいと思っています。
そして、そのことをもって教育をしたいと思っています。

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磨くということ

2010年11月06日 | Weblog
刃物を磨くためには、砥石との摩擦が必要です。

人間も自分自身を磨くためには、
摩擦の感覚が必要だと思います。

自身も角を取りつつ、磨かれなくてはなりません。
また、研ぎ澄まされた自分になる
努力をしなくてはなりません。

刃物を磨くときには、水が大切です。
摩擦を大きくするために、
そして、削れた鉄粉と石粉とを洗い流すために。

人間も仕事という媒介があって初めて、
他人との意見の衝突や、
今までの自分を乗り越えるための
自分自身との摩擦や葛藤が生まれます。

そして、削られた未熟さという屑を
洗い流さなくてはなりませんし、
他者との摩擦によって生じた、
わだかまりや誤解という澱を、
常に洗い流さなくてはなりません。

日々新たに、
清らかな心を持って、
仕事に立ち向かわなければならないのだと思います。
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仕事の意義

2010年11月05日 | Weblog
志の大小が、
その人たちの、
仕事の質を左右し、
人生までを左右する。

例えば、
何のために仕事をするのか?

給料をもらうため。
生活をするため。
楽しいから。
働かなくてはならないから。

色々な答え方があると思う。

船井哲良氏は、このことについて、
「自分を磨くためである」と明言している。

「仕事をするのは、自分を磨くため」

本当にその通りだと思った。

自分を磨くための仕事を、
私たちはしなければならないと思う。

私が尊敬している人たちもみなさん、
仕事によって磨かれ、
その輝きを放っている人たちである。

仕事を通じて自分を磨くことができているだろうか?
磨くと言うことは、妥協しないということである。

例えば、教師であれば、
「教材研究を通して自分が磨かれているか?」
「今日一日の仕事は手抜かりのない、自分に厳しいものであったか?」
「今日の授業は生徒もしっかり理解してくれたか?」
「子どもたちの前で、うそごまかしはなかったか?」
「自分自身の生徒観、人間観、教育観を日々磨いているか?」
「同僚や、先輩、後輩、または管理職と共に、
 より良い教育現場にしようと努力したか?」

そんなことを自問自答しなければならないのだと思う。

船井氏は語る・・・。

「自分を磨くということは、自分の存在価値、
レベルを上げていくと言うことである。
上げていくとは、社会の中で貢献するということである。
若い人はまず自分の器を大きくして欲しい。
大きな器になるほど、自分のポジションが上がって、
大きな役割の仕事ができるようになる。
社会に貢献できるようになる。
そして、自分の器を大きくするためには、
魂を入れて一生懸命働くことである。
わき目もふらず魂を入れて働くことによって、
自分が磨かれ、
自分の器を大きくすることができる。」
(船井哲良『四十歳で五つの会社の社長になる』)


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