Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

信じること

2009年01月31日 | Weblog
教育にとって大切なのは、
信じることだと思います。

このことを本当に私に伝わるように
教えてくれた人はいませんでした。

あるいは、その時の私には、
まだそれを聴いて理解するだけの態勢が
できていなかったのかもしれません。

ただ、今は、こう思います。

出来の悪い子どももいる、
出来の悪い大人もいる。
その人たちと共に成長していこうと思えば、
「必ず伸びていくと信じる」こと。
そのことが一番大切なのだということです。

「あの子はああいう子だから。」
「あいつはあんな奴だから。」
そう思えば、心は通わなくなり、
結果として成長の芽もしぼんでしまいます。

成長の芽は、誰もが持っています。
それを大切に育てていこうという
強い意志を持たなければ、
決して育ちはしない。
そう思います。

だから、信じ続けること。

「信じること」の友だちは、
「待つこと」だと思います。

人間の成長は、すぐには結果が出ない。
期待をすればするほど、
裏切られたような気持ちにもなる。

しかし、成長には、時が必要なのだと思います。
自己変革にも沢山の時が必要であるのと同じく、
相手にも時間が必要なのです。

伸びていくことを信じていれば、
そして、信じることをやめない限り、
人は必ず伸びていくものだと、
私は信じています。





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私に出来ること

2009年01月29日 | Weblog
子どもたちをめぐる様々なニュースに、
胸を痛めることも多い今日この頃。

教育に携わるものとして、
本当に無力さを感じます。

ただ、ただ、
一つ一つの出会いを大切に、

出会わせていただいた
子どもたちをはじめ、
多くの人たちと、
共に喜びを分かち合うことができるように、
私に出来ることをやっていきたいと思います。

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魯山人の言葉

2009年01月28日 | Weblog
「口で言うのはやすいことだが、
現実に表現が物を言うようなことは、
なまやさしい作業でなし得られるものではない。
さぁ自由なものを作ってみろと解放されたとしても、
決して自由にはできないものである。
第一過去の人間が作った美術に
充分心眼が開かなくては、かなわぬことである。

過去と言っても千年も二千年も前からの
美術・芸術に眼が利かなくては、
かなわぬことなのである。

食器師だからと言うので
陶器ばかり視ているくらいの注視力では、
乙な器は生まれるものではない。
三百年の茶碗が作りたければ、
千年前の美術がわからなくてはかなわぬものである。

料理なども細民の美食から
大名の悪食にまでに通じていなくては、
一人前の料理人とは言い難い。

それには恐ろしいまでの努力が必要であって、
調理場ばかりで十年二十年の苦労を積んでみたとて、
料理を語る段階には至らぬものである。
乞食になってみるのもムダではない。
虚飾でかたまっている大名料理を経験してみるのもムダではない。
本格な床柱を背に大尽を決めこむようなこともたびたびあってよい。
陶器する心も、ほぼ同じである。」

足立美術館で出会った、
北大路魯山人の言葉である。

生きている間は非難されることが多かった、
美食家、陶芸家、芸術家の魯山人だったが、
決して妥協を許さない姿勢が、
多くの敵を作ったのだろうと思う。

「自由にやってごらん」とは、
教育界で蔓延している子どもへの言葉だが、
教育に関わる私たちは、もっと考えておく必要があろう。

「料理の世界」と「学校」とで、
言葉を置き換えてみた。

「学校ばかりで十年二十年の苦労を積んでみたとて、
教育を語るという段階には至らぬものである。」

自分の歩いてきた道を振り返ると、
この言葉の重さが胸に突き刺さる。
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限りある人生

2009年01月27日 | Weblog
人生の時間には限りがあります。
若い時分には、それがなかなか実感できません。

しかし、それで良いと思うのです。
試行錯誤を繰り返し、悩みつつ、
また、遊び呆けつつ、感傷に浸りつつ、
日々が過ぎていくこともある。

それでも良いと思いますし、
そのことにも意味はあると思います。

大切なことは、誤魔化さず、真剣に悩み続けること。
自分は何のために生まれてきたのかを問い続けること。

答えもその都度違うでしょう。
悩みもその都度変わるでしょう。

でも、いつか、見えてくるものだと思います。
それは、自分の心が鍛えられてくると言うこと。
そのこと無しに、自分の志は見えてこないと思います。

私も深い悩みの中にいました。
暗いヤツだったかもしれません。

でも、その悩みがあったからこそ、
深く考えていくことの大切さを知ることができました。

大切なことは信じること。
自分は困難を乗り越えて、
必ず自分のミッションに気付き、
嬉々として何かに打ち込む日々が来るということを
心の底から信じること。

それが大切なのだと思います。

そして、自分を捨てることも大切。
捨てなければ、命がけで何かをやることなどできません。

でも、決して捨てないこと。
自分を捨ててしまえばゴールへはたどり着けないから。

命を捨てて、捨てないこと。
命を捨てずに、捨てること。

わたしは矛盾する二つのことを、
深く両立させることが大切なのだと思っています。













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ハムスター

2009年01月27日 | Weblog
よんどころない事情で、
萩往還30㎞を
三日間で二度歩こうと決意した。

一度だけでもへろへろになる萩往還。
今から体を作らなければ!

不退転の決意が、
私にエアロマグネティックバイクを購入させた。

オフィスに置き、
颯爽とペダルをこいでいると、

「あ、ハムスターだ!でっかいハムスターがいる!」

「カラカラ回し車をまわしてるみたい!」

うちのスタッフ二人の嘲笑が聞こえてきた。


いつか見返してやる。





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教育は言葉と行動

2009年01月26日 | Weblog
熱を帯びた言葉には、
人を動かす力が宿ると思います。

それは、技術でもなく、知識でもない。
本当に伝えたいものが、
自分の心の中にあるかどうか。
そのことが、言葉に熱を帯びさせるのだと思います。

しかし、この「本当に」というところが実に難しい。
自分では「本当に」と思っていても、
まだまだ足りぬということが実に多いからです。

結局、それが本物かどうかを決めるのは、
自分ではなく、相手だと言うことになります。

自分に出来ることは、日々、全力を尽くすこと。
ただ、それだけしかありません。











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教育者ウィリアム・ウォードの言葉

2009年01月25日 | Weblog
教育者ウィリアム・ウォードの言葉

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師は指示をする。
良い教師は説明をする。
優れた教師は範となる。
偉大な教師は内なる心に火をつける。


洋の東西を問わず、
教師という存在は、
究極的には、
人々の魂に火をつける存在らしい。

吉田松陰先生もそうであった。

上からの目線で、生徒に指示をすることに慣れ、
授業の説明も何を言っているか理解不能で、
生徒の範(手本)になどなれるはずもない存在に、
魂の点火者になることなど到底無理であろうと思う。

やはり、教師という仕事は大変だ。





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親心の学舎

2009年01月24日 | Weblog
佐賀での親心の学舎、一年間の講座が終了しました。
久しぶりにお顔を見せて下さった方も。
本当に嬉しいものです。

「あの時、この講座を受講していなかったら、
 私たちに今、二人目の子どもはいなかった。」

そんな言葉をいただき、
嬉しくも、深く、厳粛に受け止めさせていただきました。

そんな奇蹟のようなことが起きたのであれば、
私のような者が講座をさせていただいたことにも
意味はあったのだと、とても嬉しく思っています。

美しく素敵な笑顔になった
多くのお母さんに、
心からの敬意を表します。

ありがとうございました。












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親心の学び舎

2009年01月22日 | Weblog
明日は、佐賀で「親心の学び舎」の講師を務めます。

勿論、私に親として教えられることなど何もありません。
共に学ぶだけ。
共に気付いていくだけ。

人間が教条主義的に教えられて身につくものなど、
ほとんどないのかもしれません。

あくまで、体感的に、
「あぁ、そうだったんだ」と思える瞬間ができたら、
「これから、こうしよう!」と決意する瞬間ができたら、
それで良いのだと思います。

自分が親としての理想を気持ちよくしゃべることには、
ほぼ何の意味もないと私は思っています。


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時間

2009年01月22日 | Weblog
一月は行く。
二月は逃げる。
三月は去る。

一月から三月までの時の流れの速いことを、
そんな言葉で表現しているのを耳にしたことがあります。

一日24時間は変わらないはずなのに。
二月は別として一ヶ月の日数は変わらないはずなのに。

なぜか早い時間の流れの中に身を置いているのを感じます。

それは、四月から始まる新年度一年間の
シミュレーションを凄いスピードでやるからかもしれません。

教育にはそれが大切だと私は思います。
「なんとなく」やらないことが、
大切なのだと思っています。

私の目指す教育は、
芸術家や職人の仕事に近いものです。

わかる人にはわかるけど、
わからない人にはわかってもらえない。

マニュアル化し、マスを対象にすることは、
なかなかしづらいと思います。

食べ物屋さんでも、
それぞれの得意分野と役割があります。
チェーン展開するところもあれば、
一店舗で自分の神経が行き届くサイズの店を構え、
こだわり抜いた食を真摯に探求するところもあります。

どちらがよい悪いと言うことではない。
それぞれが違い、多様であるからこそ、
豊かな食の世界があるのだと思います。

その意味では、私たちの教育は、
フランチャイズ化できるものではないと思います。

しかし、託せる人を探し続けたいとも思っています。

いずれにせよ、日本の教育全体が、
より豊かになっていけば良いと私は考えています。
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