私は幸せなことに、大きな力に支えられて、
今日まで教育実践に打ち込むことが出来ました。
大きな力に触れていると、
自分の力の無さ、能力の無さを感じることがあります。
しかし、結局、一つの言葉に行き着き、
落ち着きを取り戻します。
それは、
自分の成果は自分の努力によって生み出すしかない。
ただ、それだけの事です。
他人と較べても仕方が無い。
私は私。
私をいかに生きていくか。
24時間、365日をどのように使うか。
それ以外にないのです。
私は幸せなことに、大きな力に支えられて、
今日まで教育実践に打ち込むことが出来ました。
大きな力に触れていると、
自分の力の無さ、能力の無さを感じることがあります。
しかし、結局、一つの言葉に行き着き、
落ち着きを取り戻します。
それは、
自分の成果は自分の努力によって生み出すしかない。
ただ、それだけの事です。
他人と較べても仕方が無い。
私は私。
私をいかに生きていくか。
24時間、365日をどのように使うか。
それ以外にないのです。
このブログも書き始めて5800日を超えています。
以前と較べて、書いている内容は、
だいぶ落ち着いてきたようにも思います。
些細な迷いが少なくなったのかもしれません。
最初の頃のものは読み返すと恥ずかしくなると思いますが、
そのままにしておこうと思っています。
なぜなら、人間は変化していくものであり、
ここに書き連ねた私の言葉は、
その一つの変化の例だからです。
私もまた、日々変化する存在であり、
できれば、その変化が、
「成長」という名の良きものであることを願い、
日々、悪戦苦闘しながら努力を重ねている者です。
以前の私と、今の私は、変わらない部分もあり、
大きく変わった部分もあります。
このブログを書き始めての16年ほどは、
経済団体以外とは一切の関わりを持たず、
ただ自分の教育理念と実践とを磨き続けてきました。
世の中には、以前の私のままだと
思い込んでいる人もいらっしゃるようですが、
そうではありません。
人々の思いに支えられて重ねる一歩一歩は、
誰にとっても、すごく重いものだと思います。
今の私の言葉と行動こそが、
今の私の姿を示すものだと思っています。
人生で大切なことは、
情熱を燃やし続けられるかどうかだと思います。
若い頃の燃えるような情熱だけではありません。
歳を重ねてからも
考え抜いて情熱の炎を燃やし続けられるかどうか。
そのためには、「志」が大切なのだと思います。
一度の人生、いかに生きるかを考え抜いていなければ、
迫力のある人生にはならないと思います。
そこそこに楽しく充実した人生も良いものだとは思います。
しかし、私は、
多くの先人たちが私たちの世代にして下さったように、
次の世代に遺せるものを
一つでも生み出していきたいと思います。
教育の問題は、子どもの問題ではなく、大人の問題だと思います。
子どもたちは、大人の作った環境の中で育っていくからです。
だから、教育を良くしたいのであれば、子どもたちに学びなさいという前に、大人自らが学ぶ姿を見せなければならなかったのです。
また、私たち大人が、私利私欲のために生きるのではなく、人として豊かな人生を生きること、未来のために力を尽くす意志を持つことが大切だったのです。
そうした環境の中で、心豊かな子どもたちが育つのだと思います。
教育への深いまなざしと、哲学がないから、いつまでたっても、教育改革は目先のやりやすい対処療法に終始するしかないのだと思います。
料理と教育は似ているなぁといつも思っています。
人の喜びを我が喜びをするところ。
下準備が大切なところ。
こだわりが大切なところ。
手を抜けば、抜いただけのものにしかならないところ。
目に見えない所の仕事が、全体を決めていくこと。
まぁ、教育だけではないかもしれませんが、共通点をいつも感じます。
あら炊きを作っていると、血合いを丁寧に取らなければ全体が生臭くなるし、鱗を丁寧に取っていなければ、鱗1枚で食感が台無しになります。
素材の費用としては比較的安価ですが、仕事の質が問われる料理だと感じます。
日頃、料理をする人にとっては当たり前のことですが、丁寧に丁寧に準備をしなければなりません。
いい加減さ、妥協する姿勢は、決して料理を美味しくはしないのです。
教育も同じです。準備にこだわり抜いて、講座本番を迎える。
下準備の丁寧さや、共に学んで下さる人たちへの思い、教育へのこだわり。
そうした、こだわりと、丁寧さ、思いの深さが大切なのだと思います。
だから教育者の修業として、料理は実に良いものだと思います。
身体に良いものは、心にも良いものです。
そして、子どもたちの情緒が安定するためにも食は大切です。
吉田松陰は、人を見るにはその目を見ることが大切だと言っていますが、それは『孟子』からとった言葉です。
「孟子曰く、 人を存(み)るには、眸子(ボウシ)より良きは莫(な)し。」
(訳)孟子が言った、人物を見分けるには、瞳に勝るものはない。
「眸子は其の惡を掩(おお)う能(あた)わず。」
(訳)瞳は正直なもので、その人の心のなかの悪を隠すことができないからだ。
「胸中正しければ、則(すなわ)ち眸子瞭(あき)らかなり。」
(訳)心の中が正しければ、瞳は明るく澄んでいる。
「胸中正しからざれば、則ち眸子眊(くら)し。」
(訳)心の中が正しくなければ、瞳は暗く曇っている。
「其の言を聽き、其の眸子を觀(み)れば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。」
(訳)だから、相手の言葉をよく聞き、その瞳をよく観察すれば、誰がいったいその心のなかを隠しきれようか、いや、とうてい隠しきれはしない。
『孟子』離婁(リロウ)章句上
ですが、どうも私は人を見る目はないようです。
それは経営者としてはダメなことですが、
教育者としては良いことだと思います。
誰に対しても可能性を信じて向き合おうとする姿勢を持ち続けることだからです。
教育をしていく上で大切なのは「熱量」だと思います。
伝えていくことに信念を持っているかどうか。
未来に希望を持っているかどうか。
子どもたちに愛情を持っているかどうか。
そうしたことの一つ一つが自分自身の心の中になければ、
熱は決して生まれることはありません。
他人の話を聴いていて心に残っているのは、
そうした熱があったかどうかだったように思います。
いくら立て板に水の話でも、
小手先の知識や中途半端な考えでは、
人の心にメッセージは届かないと思います。
先日、小郡寺子屋「志学舎」での第2回目のスピーチコンテストが開催されました。
テーマは「日本の未来」。
2回目のコンテストまで、塾生たちはこのテーマについて、講座の中で考える機会はあまりありませんでした。限られた日数で講座を組む難しさが出て来ました。
また、本番当日も、私は塾生の話す内容をいちいちチェックしたりしませんので、どうなることやらと心配でした。
ただ、いつも思っていることは、塾生が上手く話せないのは全て私の責任であること。
そして、日頃の学びの姿勢が身についていれば、そこそこは話せるようになっていると信じているということ。
他人に対して良く見せるスピーチをする必要はないということ。あくまで思いを伝えようと努力すること。
失敗もまた良し。失敗の悔しさ恥ずかしさを、私も塾生と共に共有し、必ず次の機会に活かすこと。そして、その失敗は成長の為の大いなる糧に過ぎないということ。
今回は、練習の時の方が良かったのにと悔しく思っていた塾生が多いだろうと思います。
スピーチがある程度出来るようになって、甘く見るとそういう事になるのです(笑)。
やったが上に、愚直にやり続けて、磨いていくことが大切です。更に向上するための大切な一歩を経験してくれました。
みなさんよく頑張りました!塾生の皆さん、本当にお疲れ様でした。保護者の皆様、支援者の皆様、本当に有り難うございました。
更に頑張ります!