Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

バッカーズ寺子屋・第17期生募集

2022年04月28日 | Weblog

バッカーズ寺子屋の17期生の募集を開始しています。

新型コロナウイルス感染症拡大のため、今期の告知が出遅れていますので、5月7日(土)17:30~、5月21日(土)18:00~、東京都港区西新橋の建装工業株式会社にて、入塾説明会を開催致します。

詳細は、バッカーズ寺子屋のホームページをご覧下いただき、お申し込み下さい。

https://backers-terakoya.net/admission/admission-2-3/

一人でも多くの方にお運びいただきたく、10歳から15歳のお子様のいらっしゃる方に、是非、お知らせ下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

どのような学び舎なのか、説明会にお越しいただかなければ、なかなかお子様にも、保護者の方にもお伝えできないように感じています。(それでも体験してみないとわからないかもしれませんが・・・。)

必ず喜んでいただける学び舎だと思います。入塾説明会の会場でお待ちしています。

 

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教育という生き方

2022年04月26日 | Weblog

人の欠点や足らざる点を指摘するのは簡単なことです。自分と較べてみて、「なんだあいつは」とは簡単に思えるものです。

私もそうですが、人間は欠点の方がよく目に付く生き物のようです。しかし、そこから、どのように他人様に成長していただけるように自分を高められるかが大切なことだと思います。そこに人間としての尊さがあり、そのための果てしない努力が必要になるのだと思います。

でも、多くの場合、「なんでそんなことまで私がしなきゃいけないの」というふうにしか考えないように感じます。

赤の他人を立派な人間に育つように、力を尽くそうと思う人はあまりいません。自分ができるということを、他人にもできるようになってもらおうとするのには、ものすごいエネルギーと力量が必要だからです。

しかし、逆に、自分ができていなくて、他人様が出来ていることには、あまり気がつかないのも人間の姿かもしれません。良い点にはなかなか目を向けようとできないのです。

また、「自分のことさえままならないのに、他人様のことまでやりたいとは思わない。やったとしても、膨大な時間と労力が必要になるじゃないか」という考えもわかります。そんなことに自分の大切な時間を使いたくはないと思うものです。

しかし、それが教育だと私は思います。どう考えても無理なことに真っ直ぐ向き合うしかないのです。そして、他人様に多少なりとも影響を与える力を持つためには、自分自身の教育力を死に物狂いで高めなければなりません。命という名の人生の時間の全てと言っても良いぐらいのものを、捧げていく覚悟がないとできるものではありません。

結局、日々の仕事の中で、「私は出来ない」という人も、「私は出来る。でも、あの人はできない。」と言っている人も、自分が人に変化を与えられるところまで自分を高めようとしていない点では同じです。

何とかそこが突破できる人間になりたいものだと思います。だれも気がつかず、振り向いてもくださらないとしてもです。それが教育を志した者の生き方なのだろうと思います。

 

 

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小郡寺子屋「志学舎」

2022年04月23日 | Weblog

今日は、小郡寺子屋「志学舎」の入塾説明会です。

バッカーズ寺子屋の塾長として、設立から携わって17年。

バッカーズ九州寺子屋の塾長として、設立から14年。

そして、新しい寺子屋がスタートします。

これから更に多くのバッカーズ寺子屋的な寺子屋が生まれるように全力を尽くします。

なぜなら、この教育で子どもたちは明らかに成長するからです。

今日の新たな出会いに期待しています!

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教育とは。学問とは。

2022年04月16日 | Weblog

社会が良くなるということは、結局は、一人一人の人間が良くなることであり、一人一人が「良き心の習慣」を身につけること以外にないと思います。

例えば、「うそごまかしをしない。誰が見ていなくてもお天道様が見ている」という良き心の在り方を、一時的な知識として学ぶのではなく、それを心の習慣にするところまで、学び続け、心を鍛え続けていかなければ、本当に学んだとは言えないのです。それが学問するということだと思います。

受験勉強にせよ、道徳教育にせよ、一時的な知識としての学びに、人間を育てていく力はあまりないように私は思います。次の進路に進む手段としての勉強では、人間を育てていく力は弱いのだと思います。

学んだことを心の中で反復し、自己の在り方と常に照らし合わせ続けることが大切ですし、体験と共に思考を深めることが大切だと思います。それが人間が学ぶということであり、成長するということだと思います。

制度改革も必要であると思いますが、そこには限界があると思います。社会主義制度や共産主義の制度の国で何が起きているのか、指導者の在り方と、国民の姿を見ればわかると思います。

制度によって人が変わると思うのは、自分は、その「人」の埒外にあると思っているからかもしれません。これはどこの国でも同じだと感じます。そうすると、人間を、いくつかの要因に分析して見た上で、問題を取り除こうとしてみたりするのだと思います。しかし、人間が育つということは、そんな単純なものではありません。

自分を本当に育てるものは何か、また、育ててきたものは何か。自らに問いかけ、深く考えてみれば、それが制度や知識でないことぐらいはわかるはずです。

かくして、教育とは、結局は自分自身を磨くことでしかありえないという結論に私は到達するのですが、それは、ごく少数の弱者の意見であり、所詮はごまめの歯ぎしりのようなものでしかありません。

しかし、それを全力で為し続けていこうと思う私がいます。

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思うこと。卒塾生のみなさんに。

2022年04月15日 | Weblog

バッカーズ寺子屋で学んだ卒塾生たち全員は、いずれ社会の中で必ず活躍します。

しかし、その途中においては、道を見失ったり、深い悩みを抱えたり、世を嘆いたり、自身の力不足を嘆いたりすることもあると思います。

なぜ、それがわかるかと言えば、私自身がそうだったからです。そして、今もそうだからです。

しかし、この辛さから逃げずに、戦い続けるしかありません。世の中をより良いものに変えていくというのはそういうことです。

また、時として、バッカーズ少年教育10原則や経営者たちの言葉が信じられなくなることもあると思います。

世の中は、悪しき人たちの方が、声が大きかったり、幅をきかせているものだからです。しかし、だからこそ、その現状を変えるためにバッカーズ寺子屋がうまれたのです。

怠惰で現状維持を求める人たちとは、当然、相容れないことになり、理想と現実の狭間で苦しむことも出て来るでしょう。

理想を掲げ、それを目指して生きるということは、多くの人たちとは違う生き方をすることに他ならないのです。

ということで、私は傷つき敗れた人たちとも共にいる覚悟でいます。何かあれば、いつでも声をかけて下さい。卒塾生のみなさんのためならば、全国どこへでも飛んでいきます。

 

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Zoomセミナー2022

2022年04月14日 | Weblog

今年も、ささやかながら、少人数でのZoomセミナーを開催致します。

大切だと信ずることを渾身の力を込めてお伝えしますので、共に学んでみようと思って下さる方は、

Vision&Education,Ltd.のホームページより、是非、お申し込み下さい。

Zoomは今年度で最後かもしれません。

心よりお待ち申し上げております。

遠方でなかなかお目にかかれない方にも是非!と思います。

お誘い合わせの上、お申し込み下さい。

受講料以上の価値を必ず生み出します。

 

 

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教育の本質

2022年04月13日 | Weblog

人間には、本質的要素としての「徳性」と、付属的要素の「知性、知能・技能」があります。

人間としての思いやりとか感謝とか人助けとかいう徳があって、初めて知識も技能も生かされることになります。

徳性がなければ、折角の知識・技能も人間を不幸にするためにしか使われなくなります。

原子力にしても、その他の科学技術の産物も、間違った精神で用いたならば、大変な不幸をもたらすだけです。

だから、人間の徳性を磨く学問が大切なのだと思います。しかし、それはどこにもないに等しくなりつつあります。

それを私は何とかしたいと思っているのですが、そのためには、先人たちの生き方に学びつつ、自己と深く向き合う、「自反尽己」の精神がなければならないと思います。

「自反尽己」の「自反」とは、矛先を相手に向けるのではなく自分に向けることです。つまり、すべてを自分の責任と捉え、他人のせいにしない生き方をすることです。「尽己」とは、自分の全力を尽くすことです。

こうした生き方の姿勢を身につけ、自己変革していくこと、つまり、自らの徳を高めていくことが、何よりも大切なことで、そのための学問をしなければ、徳性は磨かれていかないと思います。

学校という枠組みの中では、知識・技能は教えられても、こうした言行一致のための学問はできないと思います。道徳教育にしても、知識・技能の教育の枠組みの中にある以上、形骸化するしかないものです。

徳性を教えられるのは、日々、自反尽己しつつ生き、言行一致の努力を重ねている人間でしかあり得ないのです。また、「徳性」こそが本質的要素であり、「知性、知能・技能」は付属的要素に過ぎないとの自覚がなければならないと思います。

ここに教育改革の難しさと本質があるのだと思います。

 

 

 

 

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2022年04月12日 | Weblog

小さなパソコンの画面ですが、インターネットを起動するときに、Yahoo!なのか、Microsoftなのか、それ以外なのか。何が最初の画面に来るかには大きな意味があると思います。

なぜなら、その窓を通して私たちは世界を見ることにならざるを得ないからです。

無意識のうちに、自分の意識が形成されていっていることが、時々、最初の画面を変えるとわかります。結構、これは危ういことかもしれないと思います。

Yahoo!的思考の枠組みで世の中を見ることにいつの間にかなっていたり、Microsoft的な思考の枠組みで世の中を見ることに、いつの間にかなっているということだからです。

だからといって、これはどうにもならない事ではあります。これほど便利なものはないし、得られるものは計り知れないほど大きいと思うからです。

ただ、そうしたことに、つまり、世界を見る窓によって、私たちは思考に影響を与えられているという事実に、無自覚であってはならないような気がしています。

 

 

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ホームカミングデイ

2022年04月09日 | Weblog

4月10日(日)はバッカーズ九州寺子屋のホームカミングデイです。

卒塾生、保護者の皆様との再会を楽しみにしています。

オンラインですので、お気軽にご参加下さい。

詳細はホームページをご確認下さい。

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土鍋と教育

2022年04月08日 | Weblog

土鍋でご飯を炊き、冷めたご飯を、自然乾燥で作った塩を使って、おむすびにしていただきます。

実に美味しいものです。

炊飯ジャーでは、冷めたときのご飯の、この美味しさは、なかなか出せないと思います。

私は炊飯器でご飯を炊いたときも、保温はせずに、一度、さわらのお櫃に入れます。そうするとご飯はふっくら美味しくなりますし、冷めても美味しいままです。

さわらとは、檜(ひのき)に似ていますが、香りが少なく、お櫃に適している木材です。

ちょっとした手間暇が本物の美味しさを生み出します。

科学技術の粋を集めても、本物の美味しさは手が届きません。

人間の五感はそのことをよくわかっています。

たしかに「温める」といった1つの機能を考えれば炊飯ジャーの方が優れています。また、タイマーで予定の時間に炊き上がるといった機能も土鍋にはありません。

そうした一面的な機能の優位性をもって、文明の産物の方が優れているとは私には思えません。

例えば、文明の産物である、コンクリート護岸の川は、川の水の氾濫を抑えるという一点においては優れています。しかし、水際で多くの陸と水の生き物たちの、命の交流と循環を断ち切っています。生態系を分断し、美しい風景を失わせているのです。

そのことへの心の痛みなど、殆どの人にはありません。それでいて「自然に優しく」などと、言葉だけは掲げています。考えてみれば、「自然に優しく」という言葉も、ずいぶんと傲慢な言葉です。

人間も自然の一部に過ぎないからです。他の生き物たちと等しく、私たち人間もまた、自然の恵みをいただき、自然に命を育んでいただいている、生かされている存在なのです。

文明の恩恵は確かにありがたいものですが、所詮はそうした歪なものでしかありません。

私の教育も、この土鍋のような教育だと思います。

手間暇がかかるし、古くさいやり方なので、殆どの人は振り向こうともしません。高価な炊飯ジャーを買って、先進的なやり方を誇ることの方が尊いのです。

私の教育も所詮はたいしたものではありませんから、どうでも良いのかもしれませんが、私は時代遅れと言われても、川辺に豊かな命が育まれるような教育を実現し続けたいと思います。

素晴らしい若者たち、社会人たちが、私たちの学び舎から育っていることを感じます。勿論、みんな自力で成長しているだけであり、私の知るところではありません。

ただ、私は土鍋のご飯の美味しさを感じられるような、心の豊かさを大切にしつつ、共に学んでいきたいと思います。

一人の人間が、立ち上がって、自ら歩み出すような、良き影響を生み出せる教育を形にしていきたいと思います。

 

 

 

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