土鍋でご飯を炊き、冷めたご飯を、自然乾燥で作った塩を使って、おむすびにしていただきます。
実に美味しいものです。
炊飯ジャーでは、冷めたときのご飯の、この美味しさは、なかなか出せないと思います。
私は炊飯器でご飯を炊いたときも、保温はせずに、一度、さわらのお櫃に入れます。そうするとご飯はふっくら美味しくなりますし、冷めても美味しいままです。
さわらとは、檜(ひのき)に似ていますが、香りが少なく、お櫃に適している木材です。
ちょっとした手間暇が本物の美味しさを生み出します。
科学技術の粋を集めても、本物の美味しさは手が届きません。
人間の五感はそのことをよくわかっています。
たしかに「温める」といった1つの機能を考えれば炊飯ジャーの方が優れています。また、タイマーで予定の時間に炊き上がるといった機能も土鍋にはありません。
そうした一面的な機能の優位性をもって、文明の産物の方が優れているとは私には思えません。
例えば、文明の産物である、コンクリート護岸の川は、川の水の氾濫を抑えるという一点においては優れています。しかし、水際で多くの陸と水の生き物たちの、命の交流と循環を断ち切っています。生態系を分断し、美しい風景を失わせているのです。
そのことへの心の痛みなど、殆どの人にはありません。それでいて「自然に優しく」などと、言葉だけは掲げています。考えてみれば、「自然に優しく」という言葉も、ずいぶんと傲慢な言葉です。
人間も自然の一部に過ぎないからです。他の生き物たちと等しく、私たち人間もまた、自然の恵みをいただき、自然に命を育んでいただいている、生かされている存在なのです。
文明の恩恵は確かにありがたいものですが、所詮はそうした歪なものでしかありません。
私の教育も、この土鍋のような教育だと思います。
手間暇がかかるし、古くさいやり方なので、殆どの人は振り向こうともしません。高価な炊飯ジャーを買って、先進的なやり方を誇ることの方が尊いのです。
私の教育も所詮はたいしたものではありませんから、どうでも良いのかもしれませんが、私は時代遅れと言われても、川辺に豊かな命が育まれるような教育を実現し続けたいと思います。
素晴らしい若者たち、社会人たちが、私たちの学び舎から育っていることを感じます。勿論、みんな自力で成長しているだけであり、私の知るところではありません。
ただ、私は土鍋のご飯の美味しさを感じられるような、心の豊かさを大切にしつつ、共に学んでいきたいと思います。
一人の人間が、立ち上がって、自ら歩み出すような、良き影響を生み出せる教育を形にしていきたいと思います。