Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

言葉は心

2011年03月18日 | Weblog
今般の震災被害に遭われた方に対しては、
ただ、ただ、一日も早いご復興を
お祈り申し上げるばかりです。

すべての言葉は飲み込むしかない。
被災地の様子をTVで目の当たりにして、
そう思いました。

アナウンサーの言葉、
政治家の言葉、
被災地の方々の言葉、
すべてに心がにじみ出ていました。

こんな時にこそ、
その人の人となりが伝わってくる。
そして、それは誤魔化しようがない。

日々、心を磨いておく以外に、
飾り立てようのないものだと痛感しました。

本当に言葉はその人の心を映し出す鏡だと思いました。
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バッカーズ寺子屋・3月13日の講座中止のお知らせ

2011年03月12日 | Weblog
今回の地震のため、3月13日(日)の講座は中止致します。

6期生の皆様には、本日(12日)、改めて連絡致しますが、
取り急ぎ、このブログでもお知らせ致します。

皆様、くれぐれもご注意いただき、
安全に過ごされますことを心よりお祈り申し上げます。

バッカーズ寺子屋 塾長 木村貴志
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身長

2011年03月11日 | Weblog
先日、人間ドックに行ってきた。

そしたら、なんと、去年に続いて、
身長が5㎜伸びていた。

「う~む。謎だ、この年でいまだに背が伸びているとは…。
でも、体重と違って、背が伸びるのは、
いくつになっても何となく嬉しいもんだよな~。」

と悦に入っていた。

そのことを、スタッフに言うと、
情け容赦ない言葉が降り注いできた。

スタッフ①「脂肪って、かかととかにもつくのかしらねぇ。アハハハハ。」

スタッフ②「あ、頭にもつくのかも。アハハハハ。」

スタッフ③「顔全体がでかくなったってこと?」



私「・・・・・。」


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顔つき

2011年03月10日 | Weblog
私がまだ子どもだった頃、
大人たちの顔つきには重厚さが漂っていたと思う。

それは、答えの出ないことを、
色々と考えていたからではないだろうか。

苦しみ悩むうちに人間は磨かれていく。
そして、それが顔つきにあらわれてくる。

豊かになったから、
といえばそれまでだが、

苦しむことがないのは、
やはり人間を磨かないし、
本当の人間の優しさや思いやりや叡智といったものにも、
深みがなくなっているように感じられる。

また、苦しむことの質も
大きく影響しているのではないかと思う。

自分のこと(私事)に苦しむのであれば、
その苦しみには透明感がない。

天下国家のため(公事)に苦しむのであれば、
苦悩の皺は、顔に深く刻まれていたとしても、
笑顔には透明感がどこかしら漂う。

その心の中にあるものが、
正しく外ににじみ出てくるのだろう。

私は右でも左でもないと思うのだが、
伝統は大切にしたいと考えている。

なぜなら、
私の命は、長き間にわたって、
受け継がれてきたものであり、
ある日突然、歴史と関係なく
生まれてきたものではないからである。

歴史もその命の連続性の中にしかない。
だから、先人たちの苦労を感じ取る感性を
私は大切にしたいと思うのである。

たしかに先人の愚かな判断もあったであろう。
しかし、それも含めて、私たちに繋がる先人たちなのである。
その生き方に温かい眼差しを注いでいくことを
私は大切にしたいと思う。

現在は変えることができる。
だから、全力で事に当たらなければならない。

しかし、過去は変えることはできない。
変えることができぬもの故、それを見る者の心が投影される。
歴史を古より「鏡」と称するのは、そうした理由も含まれていよう。

何を言いたいかというと、
右翼的な心情も、左翼的な心情も、
教育に携わる者は理解しなければならないだろうし、
そして、その上で、中庸に止まろうと努力し続ける事を
忘れてはならないということである

歴史に対して冷ややかであってもいけない。
歴史に対して独善的であってもいけない。

歴史にどう向き合うかという姿勢は、
そう簡単に確立されるものではない。

考え抜く学びを私たちは創っていきたい。














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萩に来て思へらく

2011年03月09日 | Weblog
忙しい合間を縫って萩に行ってきました。

一つは、バッカーズ寺子屋で、
定宿として使わせていただいてきた、
三つの施設のうち二つが閉館になるため、
新しい宿泊・研修会場を探す目的で。

もう一つは、
今手がけさせていただいている、
「志の教育」プログラムで、
吉田松陰の生き方について、
できるだけわかりやすく語り、
それを収録したDVDを作成するため。

お陰様で、
二つとも順調に上手くいきました。

また、ちょうど椿の群生林で、
椿が満開の時期でもありましたので、
椿の花も堪能することができました。

ひと山全体が、椿の木で覆われていて、
椿、椿、椿、という景色は壮観です。

花ももちろんのこと素晴らしいのですが、
その枝振りはここでしか見ることのできない
何とも言えない不思議な光景なのです。

行ってみたい方は、是非、お声をおかけ下さい。
来年にでもツアーを組ませていただこうと思います。
(定かではありませんが・・・(涙))

涙松遺址近くの梅林公園では、
紅白の梅が今が盛りと咲き誇っており、
これまた壮観でした。


吉田松陰先生の生き方を涙松遺址で語っていたとき、
不思議なことに雪が降ってきました。

「あ、風花だ。」

晴天の中、ほんの一瞬だけ雪は降ってきました。













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教師に必要なこと

2011年03月08日 | Weblog
教師に必要なこと。

1.子どもの限界を勝手に決めないこと。

2.子どもの成長と可能性を心から信じること。

3.子どもを心の底から敬愛すること。

書いてしまえば簡単なこの三つのことですが、
このことに対する認識の深浅如何によって、
教育の結果は、まるで違ったものになると思います。

しかし、
このことに気づくまで、
私は随分と試行錯誤し、
長い時間がかかってしまいました。

誠に申し訳ないことです。












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教育のかたち

2011年03月05日 | Weblog
教に三等有り。
心教は化なり。
窮教は迹なり。
言教は則ち言に資す。
孔子曰く、「予言う無からんと欲す。」と。
蓋し心教を以て尚と為すなり。
              「言志耋録」


心教とは、
真心をもって相手に接し、
その心で人を感化していく教育の在り方を言います。

窮教とは、
先生が模範を示し、
そのやりかたを真似させていく教育の在り方を言います。

言教とは、先生が言葉で教え諭す
教育の在り方を言います。

佐藤一斎が「言志耋録」に記したとおり、
孔子は、心教を最も大切な教え方としていました。


言葉もなかなか行き届かず、
模範にもなれない私ではありますが、
やはり、私も心教にあこがれます。

少しでも、
心でもって、心に接し、
周りの人たちに良い影響を与えられるように、
日々、精進を重ねていきたいと思います。



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親心の学舎

2011年03月04日 | Weblog
佐賀の認定子ども園で開催している、
今期の「親心の学舎」(全5講座)が終了しました。

5年間、共に学んでいただいたお母様もいらっしゃって、
何だか感激した最終講座でした。

本当に、共に歩んできた感があって、
不思議な気がしました。

皆さん、本当に、
人間として成長されていることを感じます。

「始めの頃は、
この子を何とかしようと思って子育てをしていました。
けれど、そうではなくて、
自分自身が親として人間として成長することが、
子育てには何より大切なのだと気づきました。」
という言葉がとても心に響きました。

子育てに、悩み、苦しみ、
そして、攻撃的にさえなっていた方が、
とても柔らかく素敵な表情になられたのには、
感動すら覚え、頭が下がる思いでいっぱいです。

また、新しい一年が始まります。
私も更に新しい教育の境地を切り開いていこうと思っています。

また、お目にかかれる日を楽しみにしています。

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カンニング

2011年03月04日 | Weblog
大学入試でのカンニングの事件があり、
大変なことになってしまった。

この件について、
色々な事を色々な人たちが論評している。

入試会場には金属探知機をとか、
カンニングで逮捕は行き過ぎだとか、
ネットの優位性とか、
入試の在り方が問題だとか、
心療内科に行けだとか様々である。

それぞれに妥当性があり、
より良い方向に本人が更正し、
より良い方向に入試の在り方が改善されればよいと思う。

しかし、私が一番気になったのは、
誰もが母親や祖父母の胸の痛みを
一顧だにしないことの方である。

犯罪は許せないし、
多くの人に迷惑をかけたのであれば、
償わねばならない。

ただ、どんな罪人であれ、
父と母がおり、祖父母がいる。

そうした人々への配慮を失った社会が、
将来、温もりのある豊かなものになるとは、
私にはあまり思えないのである。

この事件に関する報道で、
最も私の目にとまったのは、次の記述だった。

「山形県に在住する祖父(77)によると、予備校生と連絡が取れなくなり、
同日朝に母親が祖父に「おとうさん、ごめん。おとうさん、ごめん」と言い
残し捜しに出かけたという。「なんでこんなことになるのか……」。
予備校の関係者が沈痛な表情で語った。」


「おとうさん、ごめん。おとうさん、ごめん。」


この母の心に共感する感性を誰もが失っているとしたら、
それは淋しい限りである。

受験生が罪を償うのは当然としても、
母親の心の痛みを思えば、涙が出る思いである。

更に、年老いた祖父母の心を思えば辛い思いになる。
お二人にとっては、可愛い孫でしかなかっただろうに・・・と。

どうしてこうなってしまったのか…。

現代社会での子育ては、
様々な問題を抱えていて、
誰も明確な処方箋など書けやしない。

教師にせよ、医者にせよ、政治家にせよ、
誰もこれらの問題を
たちどころに解決できる人間などいやしない。

そのくせ問題が起きれば、
非難の大合唱である。

受験勉強よりもっと大切な、
人としての心を鍛える機会を、
子どもたちから散々奪っておいて、

問題が起きたときだけ論評して、
したり顔をする気には、私は到底なれない。

「おとうさん、ごめん。おとうさん、ごめん。」

情けなかったろう…。
悲しかったろう…。
辛かったろう…。
苦しかったろう…。
悔しかったろう…。

「おとうさん、ごめん。おとうさん、ごめん。」

何も力になってあげられないけど、
私は、この言葉に寄り添える人間でありたいと思う。









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詩というもの

2011年03月03日 | Weblog
人間は、
時として、
深い悲しみにとらわれることがあります。

そして、
深く傷つき、
深く苦しむことがあります。

しかし、
そこからも幾多の詩が生まれてきました。

悲しい心の奥底にまで光を届けてくれる、
輝きを持った言葉たちが、

その悲しみや苦しみの泥海の中から芽を出し、

私たちの魂を浄化してくれる、
詩の言葉となって紡ぎ出され、

ついには一帖の美しい織物となって、
私たちの目の前に姿を現してくれた。

それが詩というものではないでしょうか。

私たちは確かに、
詩人のように揺るぎない言葉を
紡ぎ出すことはできないかもしれません。

しかし、
詩の世界に共鳴し、
心が救われるということはあると思います。

だから、
悲しんでいる人たちは、

時として、
詩の世界に心を遊ばせてみるのも、
一つの救いとなるのかもしれません。
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