Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

いよいよ明日

2024年09月27日 | Weblog

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文明

2024年09月26日 | Weblog

明治維新をどう見るかという問題は、実に難しいものです。近代化を成し遂げ、アジアで唯一の工業国になったのは賞賛されるべき事でしょうし、そのことによって西欧列強の植民地にされなかったことは、全く非難されるべきことではなく、むしろ賞賛されてしかるべき事です。

しかし、近代化を成し遂げ、西欧列強と伍していくためには、西洋と同じような振る舞いをせざるをえなくなり、やがては、西欧と権益を巡って衝突せざるを得なくなったことは残念なことです。ただ、それもまた、やむを得なかったことだと思います。

島国であることを奇貨として、鎖国を続けていれば、戦争などにならなかったかと言えば、やはりそうは行かなかったと思います。国際化、グローバル化の波に飲み込まれていく以外の選択肢はなかっただろうと思います。

ただ、そこで思い起こされるのは、西郷隆盛の言葉です。

「文明とは道の普(あまね)く行はるるを贊稱(さんしょう)せる言にして、宮室の壯嚴(そうごん)、衣服の美麗、外觀の浮華(ふか)を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)とも分らぬぞ。予、嘗(かつ)て或人と議論せしことあり。西洋は野蛮じゃと云ひしかば、否(いな)文明ぞと爭ふ。否否野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推(お)せしゆゑ、實(まこと)に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢやと申せしかば、その人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。」

これは、南州翁遺訓の十一条ですが、ポイントだけ訳すと次のようになります。

「文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたたえて言う言葉であって、宮殿が大きくおごそかであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけが華やかでうわついていたりすることを言うのではない。(中略)もし西洋が本当に文明であったなら、未開国に対してはいつくしみ愛する心をもととして懇々と説き諭し、もっと文明国へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏しく道理に暗い国に対するほどむごく残忍なことをして自分たちの利益のみをはかるのは明らかに野蛮である。(後略)」

出羽守と揶揄されるほど、イギリスでは・・・、アメリカでは・・・、フランスでは・・・、と言って、キャッチアップしていこうと私たちの先達は考え続けていたのかも知れません。そして、その流れの中に身を投じていくしか、国家として生き残るすべはなかったのだろうとは思います。その流れを作ることに邁進してきた先人たちを非難する気になど、私には到底なれません。

しかし、心の隅に大西郷の言葉をいつも置いておくぐらいの矜持は必要なのだと私は思います。

 

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質問

2024年09月25日 | Weblog

私は、「どう思いました?」といった、漠然とした質問を意図的にするようにしています。なぜなら、自分で切り口を絞り込んで答えるしかなく、そこに答える側の問題意識、理解度などが、良く反映されるからです。学校教育では、こうした曖昧な感じで問われることはあまりないと思います。学校では正解が明確にあるから、自分の思考と、判断と理解度において、答えを作っていくことは求められないからです。

こうした質問に反発を示す人は、自分の考えがないから答えられないことに苛立ち、「質問が悪い」といった反応を示すことがよくあります。正解があることを前提とした学びが、社会人になってからも、自由な発想に縛りをかけ続けているのだと思います。

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学校教育批判

2024年09月20日 | Weblog

私はいつも、自分が教育実践の中から実感したことを話します。それは時として、教員批判や学校教育批判に聞こえると思います。しかし、私は元来一人の教員でした。そして、今もなお、「生涯一教師」と思い続けています。だから、それら批判に聞こえるであろう言葉は、決して無責任な悪口などではなく、自分自身へも刃を突きつけての言葉です。改善して欲しいという思いに満ちた言葉でもあります。

私はかつて、企業の社長さんたちが、学校に講演に来て下さることはあるが、その逆はあるのだろうかと思ったことがあります。つまり、学校の先生が、「さすがは教育のプロだ。我が社の社員にも話をしてやって欲しい。」と言われ、会社に招かれることがあるのだろうかということです。残念ながら、実績を出した部活動の監督さんなどを除いて皆無です。それを私は「悔しい」と思いました。そして、その関係性が続く限り、学校教育は下に見られたままだろうと思いました。今もそう思っています。そして、本当の教育は、子どもたちにも大人たちにも通用するものであり、共通の大切さを持つものなのだと思っています。今日も2日間の社員研修の1日目が終わったところですが、自分がまずは、それが可能であることを示していきたいと思っています。

しかし、もう私は学校の一教師として見られることはなく、Vision&Education,Ltd.の社長、バッカーズ寺子屋の塾長として見られているのかも知れませんが、そのことに一抹の寂しさも感じつつ、心の中で「生涯一教師」とつぶやいている自分がいます。

とにかく子どもたちの未来が明るいものになるために、私はどのような教育が必要なのかを真剣に考え抜き、実践し続けるだけです。そして、いつか共に教育をしてくださる方が見つかって、蒔かれた種が絶えないで、広がっていくようになればいいなと考えています。

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バッカーズ寺子屋での学びについて~レポート~

2024年09月18日 | Weblog

バッカーズ寺子屋の学びは、自分の力でつかみ取っていくものであり、時間がかかるものでもあります。まだ、今回は第5講座ぐらいですが、変化は少しずつ生まれてくるものです。最近は、How toの「こうしたら、こうなる式の、教育と称するもの」が流行っています。しかし、人間というものは、そんなに単純な存在ではないと私は思います。私は、教育を単純なものと考えて、人間を機械の部品か何かのように扱うのは好みません。また、すぐにわかることを良しとする気もありません。簡単にわかることは、簡単に役に立たなくなるような代物でしかないからです。ただ、難解でも本質的なことを、わかりやすく伝えようとは思います。

レポートを書くのも大変だと思います。「聴いていないから書けない」ということを、まずは体感する必要がありますが、そのためには、書けないことを痛感するしかありません。そして、自分の力で這い上がってくるしかありません。

ここで親が手伝えば、子どもの成長の機会は失われていきます。しかし、それは仕方の無いことです。自らが選択されたことですから、私の知るところではありません。

成長のためには、何度かの失敗を経験し、辛い思いをするしかないのです。また、そんなことをくぐり抜けずに、要領よくやることに、それほど大きな教育的価値があるとも思いません。

バッカーズ寺子屋での学びの結果は、一年後には、少しだけはわかっていただけるだろうと思います。そして、更には、5年後、10年後、20年後に、もしかしたら、その価値をもっとわかっていただけるかもしれません。その途中においては、理解されないことの方が多いとも思っていますが、それは仕方の無いことです。

一人一人の成長は、子どもたち自身の努力の賜であるし、ご両親様の薫陶の賜なのであって、私の知ったこっちゃありません。私はいつもそう思っています。皆さんの成長を喜びつつ・・・。(木村貴志)

 

バッカーズ九州寺子屋 塾長ブログ より転載

 

 

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日本の未来のために

2024年09月09日 | Weblog

「日本の未来のために」教育をより良いものにするための実践をしていくというと、何やらご大層なことをしている感じに受け止められるようですが、私にはそんな気負いも悲壮感もありません。おそらく国のために尽力している多くの人たちも同じなのだろうなと思います。もちろん私はそんな大した事も出来てはいません。しかし、そのようになりたいとの願いは持っています。

与えられた一度の人生を生きるのに、自分のため「利」のためだけに生きていても面白くはありません。なぜなら、自分のためにやっている人には、多くの人たちの賛同や協力は集まらないし、未来への希望や大きな達成感や利他の心、そして、感謝心も無縁のものとなるだけだからです。

見返りを求めず、日本の未来のために没頭する人生が、こんなに楽しいものだとは思ってもいませんでした。ただひたすらに、遊ぶが如く仕事に打ち込んでいきたいものです。

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医食同源

2024年09月09日 | Weblog

「医食同源」という言葉があります。人間の体を健康にするために病気になれば医薬の力が必要となりますが、病気にならないためには日頃の食事が大切だと言うことになります。また、病気になった時に何を食べたら回復できるのかという知識と行動も大切だと思います。

なかなか慌ただしい日々の中で、食事に手間暇かけるということが失われてきました。しかし、やはり、食事にも教育にも手間暇が大切だと思います。

効率を追求して人間を育てることはできません。時が必要ですし、matureという言葉のように、時を経て熟成することも大切です。また、人間の心と体を作るのは、「体に取り入れているもの」ですから、旬のものなどは体にとっても心にとっても最高の食べ物の一つだと思います。

だから、私は会社でも「栗ご飯」「栗の渋皮煮」「鯛のあら炊き」など、手間暇のかかるものを、隙間時間にさっと作れるようになる努力をしています。勿論、私が社長を務める小さな会社だからできることですし、安くて新鮮なものが手に入るスーパーが近くにあるからできることです。

丁寧に渋を抜くこと。丁寧に血合いを取ること。丁寧にお米をとぐこと。丁寧にだしを取ること。丁寧にコーヒー豆を煎ること。きちんとした材料や調味料を使うこと。そうした一つ一つをきちんと積み重ねていくことが、私の雑でズボラで短気なところを改めてくれるように感じています。

それは、私の教育実践へ大きな影響を与えているように感じます。日々の生活の中にも大切な学びはあるのだと思っています。

 

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九月~秋~

2024年09月02日 | Weblog

九月に入りました。

子どもたちとの合宿漬けの日々だった八月から、大人の人たちとの企業研修漬けの日々に変わります。ただ、私は子どもも大人も、基本的な課題は同じだと思っています。子ども時代の教育問題が、大人の問題を生み出しているというのが、因果関係に沿った見方だと思うからです。

私が行うのは対処療法的な研修ではありませんし、表面的でわかりやすいHow toの研修でもありませんから、本気で社員の人間的成長を考えている企業とのご縁しか生まれてはいません。

子どもにも大人にも、一人の人間として、全力で向き合う自分であり続けたいと思います。

暦の上ではもう秋です。日本の秋には美味しいものがいっぱいです。皆様も旬を大いに楽しみ、健康に留意されてください。

 

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リーダー不在の悲哀

2024年09月01日 | Weblog

次の日本のリーダーが決まろうとしているのだが、メディアが喧伝している人たちは、アメリカやロシアや中国のリーダーたちと対峙した時に、とても互角に渡り合える人材がいるようには見えない。

私は政治向きのことに対して発言をするつもりはない。なぜなら、政治向きのことには疎く、よくわかっていないからだ。しかし、人間としての迫力や、信義を重んじる心、国家観・世界観・人間観などは、その人の顔つきや言動や立ち居振る舞いから、なんとなく滲み出てきて伝わってくるものだと感じている。

だから、直感的に思うことは、長年の「教育の不毛」によって、国家のリーダーの不在という現象が引き起こされたということである。私は教育を何とかしたい。

良き人間教育の裾野が広がっていないから、頂点も駄目だということだと感じる。結局は、国家間の事といえども、人間と人間の生身のぶつかり合いである。

受験の点数の取り合いばかりしていれば、心身を鍛えていない、喧嘩の仕方も仲直りの仕方も知らない、教養が無い、愛国心が無い、戦う気概が無い、肝が据わっていない、智惠が無い、歴史や文化という背骨が無い、人としてのあるべき道を知らない、責任感も使命感も愛情も感謝心も無い、とないないづくしになるのはわかりきっている。

小利口な人間たちが、したり顔で運営し、私利私欲のことに奔走している国家に、より良い未来があろうとは思えない。

だから、一灯を掲げて暗夜を行くが如く、教育実践を一つ一つ生み出していく。

 

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合宿終了。夏の終わり。

2024年08月26日 | Weblog

24日に、小郡寺子屋「志学舎」の合宿が終わりました。バッカーズ寺子屋、バッカーズ九州寺子屋を含め、三つの寺子屋全ての、今期の夏合宿が終わったことになります。今年も私の夏が終わったような気がしています。

この寺子屋教育の一年間の始まりの合宿は、塾生(10歳~15歳)たちにとっても、とてもハードな三泊四日です。そして、支えてくださる引率スタッフにとってもハードな三泊四日だと思います。なぜなら、できる限り手作りでやる合宿だからです。大人がいかに楽に引率できるかを考えているようでは、本物の体験は作れないのだと、私は痛切に感じてきました。だから、出来合いのもの、予定調和のものは何もない合宿です。だから、子どもより、引率の大人の方が大切な合宿です。その際には、後ろ姿の教育が一番大切になりますから、私自身が誰よりも汗をかこうと思ってやっているプログラムです。

だからこそ、そこに大きな教育的意義が生まれ、大きな成果(子どもたちの成長)が生まれる合宿です。おそらく体感していただかなければ、何をどうしているのか、子どもたちがどのように成長していくのかは、さっぱりわからないと思います。釣り、バーベキュー、陶芸、歴史の学び方、スピーチの仕方、レポートの書き方、全てが既成概念にはないものになっていると思います。

合宿の最終日には、保護者の皆様にお迎えに来ていただき、解散式を行います。四日間の合宿の様子を全てスライドショーでお伝えします。20分ほどのスライドショーです。私は寺子屋での教育の全てをオープンにして良いと考えています。見られて困ることなど何一つないのです。

スライドショーを全員で見た後で、塾生たち一人一人に、スピーチをしてもらいます。テーマは、「萩合宿で、私が感じたこと、気づいたこと、学んだこと」です。自由に、体験したことをどう感じたか、どんなことに気づいたかを心を込めて、メモなどは見ずにスピーチしていくものです。

最後には、保護者の方にもコメントをいただき、実行委員会の方々にもコメントをいただきます。子どもも大人も一体となって学ぶことができる素晴らしい場だと思います。

とにかく事故もなく、無事に3つの寺子屋の合宿が終わりました。これから本格的な学びが始まります。

 

 

 

 

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