第19期生・第一回スピーチコンテストが終わりました。テーマは「伝えたい感謝の言葉」。やはり、思いのこもったスピーチが上位に入りました。
しかし、塾生本人は失敗したと思っているであろうスピーチ、例えば、言うことが頭から消えたり、焦って早口になったりというようなことも、それはそれで良いのです。バッカーズ寺子屋のスピーチコンテストでは、原稿を見ずに、自分の心からのメッセージを3分間話すのですから、本当に大変なことです。
私は、当たり障りのない、言い間違えないスピーチに価値があるとは全く思っていません。仮に、言い間違えないことを成功というのならば、それは価値のない成功です。それより価値のある失敗をしてくれた方が、本人にとっては得るものが多く、よほど良いのです。私も価値のある失敗の方をとても嬉しく思います。
これまでに私が塾生の皆さんに伝えてきた、「練習をやったが上に、練習をすること」「スピーチのフレームのみ覚えること」「感情を再現すること」「シナリオを何度も何度も書き直して、伝えたいメッセージを明確にしていくこと」等々のことは、やってみて、失敗してみて、初めてその意味が理解できるものだと思います。塾生の皆さんの失敗は、成長への階段の一段ですから、それを失敗というなら、私も喜んで共にその失敗への非難を甘受したいと思います。
パブリックスピーキングの力は、その人の人生に大きな影響を与えていきます。自分の自信、信念、人からの信頼、敬意、様々なものに直結していきます。今はまだ、塾生の皆さんにはよくわからないと思います。
しかし、それで良いのです。私は10年、20年、30年先に役立つ教育をしたいと考えています。How toではなく、本質的にやっていこうと考えています。
ちなみに、今日は「萩焼きコンテスト」も開催しました。スピーチコンテストもそうですが、こんなコンテストは存在しないと思います。保護者の皆様と共に楽しく有意義な学びの時間を過ごさせていただけたことに、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。
偶々今日は衆議院選挙の日ですが、日本の社会が壊れかけているのは、一人一人の言語が壊れかけているからだと思います。言語とは思考であり哲学です。志操なき社会、コモンセンス無き社会を何とか出来るのは、結局は、言葉であり、思考であり、そこから生み出される行動であると私は思います。だから、政治に対する批判をする暇があったら、私は教育に打ち込もうと思います。
2日間の企業研修を終了しました。「学び方の変革」「志の教育」がテーマです。締めくくりの受講者の皆様の3分間スピーチは、とても素晴らしかったです。昨日の朝の段階のスピーチとは、明らかに、内容も、声のトーンも、力強さも、大きく違っていました。とても嬉しい時間でした。50歳手前のミドルリーダーの方々研修でした。
講演も研修も私の書く文章も、人によって受け止め方は千差万別です。受け入れてくださったら有り難いと思うだけです。否定的にとらえられても、それはそれで仕方ないと思います。私としては、わかっていただけるように全力を尽くしますが、あとは、受け手が決めることですから、どうしようもありません。受け入れられなければ、寂しい思いはしますが、それはそれで仕方の無いことです。そもそも万人受けするようなことを私はやっていませんから、当然と言えば当然のことです。
人前に立たせていただくことだけでも希有なことであり、有り難いことです。もっと言葉が響くように、そして、多くの方の心に届くように、学び続け、己を磨き続けるだけです。
「いにしへの 道を聞きても 唱えても わが行ひにせずばかひなし」(日新公いろはうた)
学ぶことは大切です。しかし、その上で何をするか。それしかありません。自分自身がどのような人間になり、どのように成長していくのか。その上で、他人様に何らかの影響を与えられるのかどうか。それしかないのだと思います。
結局は自分の心一つであり、行いの一つ一つだということです。
甘い教育の広がりには恐るべきものがあると思います。一人一人が、「教育」の本質を考えておかなければ、どうにもならないことになるのだろうと思います。歳を経て大切さ気づいたときには、同時に、手遅れであることに気づくということになると思うからです。私の両親は有り難いことに厳しかった。そして、あたたかかった。真心を込めた丁寧さがあった。そう思います。その有り難さなどは、時が経たないとわからないものなのです。下村湖人という人は、そうした教育の本質を鋭く言葉にして下さっています。(以下、Vision&Education,Ltd.メールマガジンより転載)
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私の尊敬する人物の一人に、下村湖人(しもむら こじん)という人がいます。小説家であり社会教育家です。明治17年10月3日に生まれ、昭和30年4月20日に亡くなりました。東京帝国大学英文科を卒業し、母校佐賀中学校の教師や鹿島中学校の校長等を歴任します。教職辞任後は、同郷で高校・大学同窓の田澤義鋪に従い、講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の著者として知られる人物です。その下村湖人が遺した、教育の言葉を今月は紹介致します。今を生きる親世代は、働き盛り世代でもあり、どうしても忙しい日々を過ごしています。しかし、子育ての時間は一度限りで、もう二度とは戻っては来ません。だからこそ、お伝えしておきたい言葉があります。
・「子供に何か話しかけられるのを面倒くさがる親ほど、根気よく子供に絶望の習慣を養っている親はない。」
・「甘い教育によって、いろいろの自由を与えられた子供たちは、将来最も不自由な人間に育つであろう。なぜなら、彼らは、自由の最大の基盤である反省力と意力とが奪われるであろうから。」
・「よき親でありたいと願う人々のために、私の用意している助言がただ一つある。それは、子供をその善悪に拘わらず常にいたわってやるということである。むろんそれは単なる技術であってはならない。それは、人間共通の弱点について十分な知識を持ち、自分自身そうした弱点の持ち主であることを深く自覚するところから、自然に発散される感情の香気でなければならない。愛撫や、賞賛や、叱責や、教訓や、その他親としての一切の努めは、そうした感情の香気に包まれてのみ真に生かされるであろう。この助言は、だから、つぎのようにいいかえることもできる。人間性に無知な親は親ではない。人間として傲慢な親は親ではない。自己をいつわる親は親ではない。親もまた子供と共に人生不断の修行者でなければならないのだと。」
・「子供は大人のまねをする。このことを大人が忘れさえしなければ、子供の教育はさほど困難なことではない。しかるに、世の大人たちは、ご苦労にも、子供たちに自分のまねをさせまいとして、いつも苦労し、それを教育だと思いちがいしているかのようである。」
いずれも下村湖人の書いた、『心窓去来』『心窓去来 補遺』の中に出てくる言葉です。若い人たちの心の中に、こうした言葉を留めておいていただきたいものだと思います。
木村貴志オフィスVision&Education,Ltd.メールマガジンより転載。(配信を希望される方はメールでご一報ください。月一回配信。無料です。)
教育者というのは、誰かに何かを伝える存在ですが、伝えること一つをとってみても簡単なことではありません。1.シナリオスキル、2.デリバリースキル、といったスキルの問題もありますが、3.プレゼンスの問題も大きく存在しています。
そもそも伝えたいことは本当にあるのか。そこに自分の思いや信念といったものはあるのか。語り得るだけの経験をしてきたのか。そうしたことが問われてしまいますし、それは、誤魔化しようもなく、他人に伝わっていくものです。
「わかること」と「できること」は違います。そして、「できること」と「伝えること」も違います。話がわかったからといって、それが出来るかどうかは別の次元の問題です。出来たからといって、そのことを第三者に分かり易く伝えられるかというと、それもまた別次元の問題です。
この三者の間には、いくつものハードルが存在していると感じます。
そう難しいことは考えなくとも良いのかも知れませんが、伝わるように伝えたいという意志がある限り、この問題には真剣に向き合わざるを得ないのだと思います。
教育を変革していくためには、ものすごい勉強量が必要だと思います。それは、世界の中の日本に生きる子どもたちをどう育てるかということにならざるを得ないから、世界という空間について、また、日本という空間について、色々なことを学ぶ必要があるからです。また、私たちは現在を生きていますが、子どもたちは未来を生きます。過去は現在につながり、現在は未来に繋がっていますから、過去を学ぶことも大切ですし、未来を考えていくことも大切です。この空間軸と時間軸を意識して学び、教育を考えて、実践にまで落とし込んでいくとすれば、日々、必死の努力が必要になります。
しかし、目先の利益、自分の豊かな生活しか考えなければ、誰もそんなところまで極めていこうとは思わないでしょう。それでなくとも、日々の生活や子育てなどにも追われていくこととなりますから大変です。しかし、だからこそ、教育関係者は敬意を得られなくなっているのかもしれません。しかし、教育は本来「国家百年の計」として大切なものです。
教育に対する敬意の低さは、先生方の処遇の低さに表れていますし、国家予算・自治体予算の少なさにも表れています。教員をやめた私は教育界に特有の様々な制約からはことごとく解放されています。これは予想以上に大きなものがありました。しかし、教育に対する敬意の低さからは逃れることが出来ません。
それを如何にして突破できるか。私一人の力では無理な話です。だから、ごまめの歯ぎしりと知りつつも、本当のことを全力で語り続けます。本当のことを言うと差し障りのある人も多いと思います。そうした人たちがあらゆる業界に蔓延しているのが、今の日本の姿を作っているのだと感じます。
それぞれが頑張っているという言葉に逃げ込むのは容易なことです。他人に頑張りが足りないと言うことは、自らに刃を突きつけ、頑張り続けることにもなりますから。言いたくもないことです。しかし、老い先短い爺が言わなくてはとも思います。
私を励ましてくれるのは、先人の言葉たちです。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」「我に七難八苦を与え給え」「斃れて後已む」「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」
人生は一度限り。私は好きに生きようと思います。
教育というものは、日々の地道な実践の積み重ねです。
もっと言えば、子どもに何かを伝える側が、自分自身の言葉と行動を磨き続ける営みでしかありません。
イベントも時には必要ですが、やはりそれは一過性のものでしかありません。そして、その大人の達成感は、子どもを育てることには、ほとんど影響してはいないというのが本当のところです。
世の中には、本当のことは言わない方が良いと思われることが多々あるようですが、私は常に本気で臨みたいと思っています。本当に子どもの未来を思い、教育をより良いものにするためには、いつも本気で物を言うしかないのだろうと思います。
明日明後日は、2日間連続の企業研修です。企業は利益を生み出さなければ成り立ちません。国内での競争、国際間の競争にも打ち勝って行かなければなりません。そのための力が求められています。
その力とは何か。渋沢栄一は、義理合一、義理両全ということを提唱しました。資本主義において、利潤だけを追求すれば、人間の欲望を剥き出しにした、弱肉強食の世界になりかねないからです。
そこで渋沢栄一は、資本主義に道徳的考え方、「義」を注入しようと考えます。これが、前述した、「義理合一」「義理両全」ということです。組織の意志というものも、結局は、個々の人間の在り方に由来しているわけですから、人間を育てなければなりません。
稀代の美食家・芸術家である北大路魯山人は、まず人間を育てる事の大切さを、次のように語っています。「人間が創作する以上、人間が入用である。人間なくしては出来ない相談である。陶器を作る前に先ず人間を作ることである。名品は名人から生まれる。しかるべき人間を作らずに、無暗に仕事にかかる如きは、愚劣極まることだと知ってよい。下らない人間は下らない仕事をする。立派な人間は立派な仕事をする。これは確定的である。要は人間を作り上げ、次に仕事を要求することである。人間を作ることは、言わば作品の成果を得る基礎工事だと知れ。」(昭和29年4月 ニューヨーク州立アルフレッド工芸大学での講演)
魯山人は、芸術作品を生み出す作家の人間性の大切さを、強烈な表現で指摘しましたが、これは、あらゆる仕事でも同じことだろうと思います。
また、子どもたちの教育も、企業での社員教育も、日本の未来を担う人材を育てなければならないということに、何一つ変わりはありません。
身の引き締まるような思いで、日々の教育実践にあたりたいと思います。教育というものは、本来、未来への責任を負う、厳しいものだと思うからです。
「教育は国家百年の計」という言葉を死語にせぬよう、未来を考え抜いて教育にあたりたいものです。
言葉に力がないということは、土台となる体力・気力がないということです。また、自分の考え・思い・信念・志・愛情・希望など、あらゆる人としての心の要素が磨かれていないということです。
私も若い頃は、全く駄目でした。そして、何が足りないのかもわかりませんでした。
自分の考えや信念を鍛え、思いを強くすることは簡単なことではありません。しかし、誰にでもできることであり、やらなければならないことだと思います。
教育が良くなるということは、一人ひとりの子どもたちの表情や姿勢や生き方が良くなるということだと思います。
しかし、それは結果なのであって、そのプロセスとして、当然に、子どもに影響を与え続けている一人ひとりの大人が良くなるということがなければなりません。
そして、大人に学校という場がない以上、一人ひとりの大人の厳しい自己陶冶に、それは委ねられているということになります。
教育問題とは、実は自分自身の問題でしかなかったのだという、厳しい現実を大人が直視して初めて、教育は良くなり始めるのだろうと思います。