Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育とは

2013年04月18日 | Weblog

教育というのは、価値観の戦いでもある。

だからストレスがたまる。

例えば、
私は、個人主義に偏した価値観も嫌いだし、
全体主義に偏した価値観も嫌いだ。

個人主義に偏すれば、
人々の幸せや社会全体の利益を考えることが損なわれ、

全体主義に偏すれば、
個々人の幸せが損なわれていくからだ。

結局は、バランスの中でしか、
物事は上手く進んでいかないものだと思う。

バランスの悪い大人たちの価値観に翻弄され、
子どもたちもまたバランスを失っていく。

それが無念でならない。
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結果を出す

2013年04月15日 | Weblog
結果を出す人には、
結果を出すだけの理由があります。

結果を出せない人には、
結果を出せないだけの理由があります。

大切なことは、
それに気づくことだと思います。

私ももっと大きな成果を生み出すためには、
自分に足りないものを自覚し、
学び続ける必要があると思っています。

他人への批判をする暇があったら、

なぜ、
自分はそこまでの結果を出せないのかを
謙虚に反省し、真摯に努力する。

ただ、それだけだと思います。

何を語るかではなく、
何を為すかが大切なのです。


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教えることは学ぶこと

2013年04月13日 | Weblog

「志の教育」をやっていると、
「教学同時」ということを本当に痛感します。

私の方がたくさん教えていただいているのです。

一人一人の児童・生徒・学生の皆さんの
心からの言葉は、時に胸を打ち、
人生について、人間存在について、
深く深く考えさせられます。

もし、
「私たち大人が、子どもから何を学べるの?」と
疑問を持つ教師がいるとすれば、

それは、教育がわかっていないと言うよりは、
人間存在がわかっていないということだろうと思います。

人間がわからなくては、教育はわからない。

私はそう思います。

そして、まだまだ私も、
道の途中にしかいないのだということを痛切に感じ、
あらゆることを学びたい気持ちは強くなります。

薄っぺらな人間理解ではきっと駄目なのです。

光も影も理解し、
暗闇の中に、一筋の光を見ることができ、
陽光の下に、一瞬の闇を感じ取ることのできる、
そんな感性が必要なのだと思います。

そのためには、
文学を読まなければなりません。
自然に学ばなければなりません。
酒を愛さなければなりません。
食を楽しまなければなりません。

笑わなければなりません。
泣かなくてはなりません。
喜ばなくてはなりません。
苦しまなくてはなりません。

一日一日を大切に受け止めていくことの大切さを、
少しはわかりかけているのかもしれません。









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突破する

2013年04月11日 | Weblog
一見、突破できそうにない壁があります。

それは、
教育現場において、
思いを共有するという困難です。

教育の世界の方が、
思いを共有するという点に関しては、
企業よりもやはり困難のように感じます。

しかし、それをやってみたいと思います。

日本の未来のために。



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2013年04月09日 | Weblog


ふと見ると、



部屋の掛け時計が止まっていました。



今日は、父の命日でした。


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再度、道徳教育を考える

2013年04月08日 | Weblog
道徳教育を必修化すべきという議論があります。

おそらくそれは、
次のような形になるのでしょう。

「まず、子どたちに道徳の教科書を作り、
そして、週に1時間の道徳の授業を行う。」


子どもたちに、
人としての道を教えることは、
とても大切なことだと思います。

その意味において、
私は道徳教育に大賛成です。

しかし、その方法論として、
システムに頼ることが
どれだけの成果をもたらすのかということに対しては
懐疑的にならざるを得ません。

なぜなら、次のことに、
私はあまり効果を期待し得ないからです。

「まず、教員向けに道徳の教科書を作り、
そして、週に1時間の道徳研修を必修として受講してもらう。」

いかがでしょうか?
成功のイメージは浮かぶでしょうか?
どのような先生の姿が思い浮かぶでしょうか?


学ぶのは子どもであり、
自分は学ぶ必要が無いと思っている大人は、
その尊大さ故に、如何なる場合においても
あまり成長は期待できないでしょう。

免許を持っているから、
我々は学ぶ必要は無い。
我々は教える側であるという意識が、
人間教育においてプラスに作用することがあるでしょうか?


学校教育法は、
教育の目的を「人格の完成」と定めています。

私はこれにも大賛成です。

ただ、人格は人格によって磨かれる。
これが本当のところだと思います。

だとすれば、

道徳教育の成果は、
まず、教員の中に
表れなくてはならないもののように私は思います。

自分にできないことを、
大人が子どもたちに押しつけていくのであれば、
それはやはり不道徳の誹りを免れないのではないでしょうか。

大人が考えている以上に、
子どもたちは本質を見抜く目をもっていると
私は思います。


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感性の大切さ

2013年04月06日 | Weblog
「われと来て遊べや親のない雀」
 
親のない子すずめよ、
こっちに来て一緒に遊ぼうよ。
お前も私も親の無い者同士なのだから・・・。


雀を見たときに何を思うか。
それは人それぞれです。

この句を詠んだ小林一茶のように、
自分の寂しい境涯に重ね合わせて、
弱き者、小さき者への思いやりの心を持つことに、
私は人間の優しさと美しさを感じます。

 
雀は雀です。

ありふれた鳥を見て、何を感じろというのだ。
と言われるかもしれません。

しかし、同じものをどう見るかは、
見る人の、心の問題であり、感性の問題です。

現代を生きる私たちは、
日々の生活の中で、
この感性の瑞々しさを失ってはいないでしょうか。

損得だけでものを見たり、
好悪の情だけでものを見たりしてはいないでしょうか。

頭の良さも大切でしょうが、
新たに価値を生み出していくことのできる人は、
感性の豊かな人だと私は思います。





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直接向き合う

2013年04月02日 | Weblog
道徳教育の教科化にせよ何にせよ、
システムで大網をかけて対応しようとすることが多いのですが、
そうした類いの施策で、効果が出た試しはあまりないように思います。

それは、
システムに頼ろうとする姿勢自体が、
逃げ腰の姿勢でしか無く、
本質に踏み込まないことを前提にしているからです。

例えば、
道徳を身につけることは、
一人の人間が、一人の人間に対して、
道徳的に正しいとされる行動を具体的に示し、
あるいは言葉で伝え、
一人一人としっかり関わっていくことで、
初めて可能になるとしか私には思えないのです。

多くの場合、
私たちは一人一人と向き合うのを回避するために、
テキストを作ってみたり、
時間割を確保したり、
システムで対応しようとします。

私たちは、一番摩擦が少なくて済む方法を
選択したくなるものなのです。

しかし、問題は全体の中に満遍なく存在しているのではなく、
個々人の心の中にあります。

だから、一人一人と真剣に向き合って、
一人一人を教育しようという意志がなければ、
全ては砂上の楼閣のようなものに過ぎなくなるのです。



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