Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

エクスプレッションアカデミー2024

2024年11月30日 | Weblog

エクスプレッションアカデミー2024in福岡 全4講座が終了しました。最終講座は満員御礼でお席がなくなってしまい、お断りした方には申し訳ありませんでした。

高校で現代文を教えていた生徒で、今は教師となっている方の参加もいただきました。

それを機に17年前のレポートを懐かしく読み返しましたが、当時から揺るぎなく「志の教育」を志向していたこと。そして、それが生徒たちにも良く伝わっていたことが改めて感じられました。

教育の成果と言うものは、直ぐには分からないものです。しかし、信念を持って全力で伝え続けなければならないのだと思います。それが10年、20年経って、伝わっていたと感じられることがあったら、それで良しとすべきなのだろうと思います。

 

 

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わかったこと

2024年11月27日 | Weblog

「教育を良くする」というと「子どもたちを良くする」と思うことが多いと思います。

しかし、そうではありません。

「子どもに影響を与えている自分(大人)自身が良くなる、立派な人間になる」ということ以外には、教育を良くする方法などないのです。

自分自身が、子どもや親や多くの人たちに、良き影響を与えられるよう、自分自身を磨き、その結果、自分の言葉と行動が教育と呼ばれるに足るものになり得るかどうか。それだけなのです。

「教育が良くない」ということは、自分自身の生き方や考え方が未熟であるのだと、大人が我が身を省みるべきだったのです。

学び精進すべきは、子どもでは無く、親であり教師であり、全ての大人たちだったのです。

私にも、ようやく、そんな当たり前のことが分かるようになってきました。

そのためには、広く、深く学ばなければならないということも分かってきました。

虚心に学び続けるだけです。

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エクスプレッションアカデミー福岡

2024年11月27日 | Weblog

明後日は福岡でのエクスプレッションアカデミー最終講座。

今年は「教育において大切なこと」をテーマに全4回で話をさせていただきました。家庭教育にも、学校教育にも、社員教育にも大切なことです。

第1講座のテーマは「志」、特別講座は、 鹿児島への宿泊研修、第2講座は「教養」、第3講座は「修養」、そして、今週の第4講座が「仁と感謝」です。

私自身、話をさせていただくにあたって沢山の気づきと学びがありました。久しぶりに、亡くなった渡部昇一先生の謦咳に接し(残念ながらCDですが)、懐かしいお声を聴きつつ、新渡戸稲造や幸田露伴、その他の先人に学ばせていただきました。

もっともっと私も学びを深めなくてはならないと思いました。そして、吉田松陰の言葉が思い起こされました。

「而して近時に至り師道益々廃す。
 余因って其の源を洞察し、亦一説を得たり。
 大抵師を取ること易く、
 師を撰ぶこと審かならず。
 故に師道軽し。

 故に師道を興さんとならば
 妄りに人の師となるべからず。
 又妄りに人を師とすべからず。
 必ず真に教ふべきことありて師となり、
 真に学ぶべきことありて師とすべし。」

         吉田松陰「講孟箚記」

言行一致を旨として頑張りたいと思います。

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寺子屋講座

2024年11月23日 | Weblog

今日は小郡寺子屋志学舎の講座でした。前回のスピーチコンテストを経て、みなさん一回り大きく成長した感じを受けました。楽しく、活気のある学び舎、一人一人が尊重され、自由で伸び伸びと学ぶことが出来る場に、また一歩近づいたように思います。

明日はバッカーズ寺子屋の講座です。今から東京に飛びます。こちらは、出雲(出雲大社)、松江(小泉八雲記念館)、安来(足立美術館)を巡る1泊2日の合宿の事前研修の講座です。話したいことが沢山あります。

明日は、日本の自然、歴史、文化、伝統、そうしたものを渾然一体として感じ取ることの出来る、そんな学びの1日を創り上げていきたいと思います。

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さようなら

2024年11月19日 | Weblog

谷川俊太郎さんが亡くなりました。私たちもいつの日にか、この世に、そして共に生きてきた皆さんに、「さようなら」を告げる日が来ます。現代の社会においては、私たちの生活から死の匂いが遠ざかってしまい、死を色濃く感じる機会が失われたように思います。しかし、死は万人に平等に訪れるものです。だから、できる限り死を身近に感じていなければならないと思います。命を大切にする心、二度と無い生を大切にする心というものも、そこから生まれてきているように感じます。死に対する感性を失わないために、そして、生に対する感性を失わないために、谷川俊太郎さんの「さようなら」を読み返してみたいと思います。

さようなら   谷川俊太郎
 
「ぼくもういかなきゃなんない
 すぐいかなきゃなんない
 どこへいくのかわからないけど
 さくらなみきのしたをとおって
 おおどおりをしんごうでわたって
 いつもながめてるやまをめじるしに
 ひとりでいかなきゃなんない
 どうしてなのかしらないけど
 おかあさんごめんなさい
 おとうさんにやさしくしてあげて
 ぼくすききらいいわずになんでもたべる
 ほんもいまよりたくさんよむとおもう
 よるになったらほしをみる
 ひるはいろんなひととはなしをする
 そしてきっといちばんすきなものをみつける
 みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
 だからとおくにいてもさびしくないよ
 ぼくもういかなきゃなんない」

合掌

 

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道を歩く

2024年11月19日 | Weblog

人生は道に例えられることが多くあります。私も「萩往還を歩く」研修をした時には、歩き終えて、松下幸之助さんの「道」をともに歩いた皆さんと改めて味わっています。

『道』  松下幸之助

「自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広いときもある。狭いときもある。のぼりもあればくだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。
この道がはたしてよいのか悪いのか、思案に余るときもあろう。慰めを求めたくなるときもあろう。
しかし、しょせんはこの道しかないのではないか。
あきらめろというのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」

また、アントニオ猪木が引退の時に語った言葉の元である清沢哲夫の「道」もあります。

  『道』 清沢哲夫

「此の道を行けば
どうなるのかと
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
ふみ出せば
その一足が道となる
その一足が道である
わからなくても歩いて行け
行けばわかるよ」

道を歩くことで、こうしたメッセージは深く心に刻まれると思います。だから私は「萩往還を歩く」研修を作り続けています。始めたときには、10年も歩き続ければ、一つのことをやり遂げたと言って良いと思っていましたが、もう30年も歩き続けています。

 

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誤解と孤独を恐れずに

2024年11月18日 | Weblog

事実は一つであっても、一人ひとりの立ち位置から、それは違ったものに見えるのだと思います。

富士山にしても、どこから見るのか、いつの季節に見るのか、どのような天候の時に見るのか、そうしたことで、当然、見え方は変わってきます。自分の立ち位置によって、それは変わっていくしかないものだと思います。

だから「富士山はこうである」という言説も色々なものになるはずです。そこで議論したところで、結局、自分が見た姿が、その人にとっての富士山になるだけです。

あとは、信じるものを貫くか、色々あるよね~と様々な意見を、バランスよく良しとするのかになるのだろうと思います。私は私のこだわりをもって自分の信じるものを貫いていかなければならないと思います。

人生の時間には限りがあります。だから、一人になってでも歩き続けなければならないのだと思います。

残念ながら、私の言説や行動は理解されないことも多いと思います。しかし、時が経って、言わんとすることの少しぐらい伝われば、有り難いことだと思います。

それで良いのだと思います。それが私に出来る精一杯なのだと思います。

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体験型研修

2024年11月16日 | Weblog

萩往還を歩く研修、今年、5回目を終えることが出来ました。春に子どもたちと3回、秋に企業研修で2回歩きます。涙松から瑠璃光寺五重塔まで、約36㎞をひたすらに歩き続け、ゴールを目指していく研修です。この中に沢山の学びがあります。それは、体験してみなければ全く分からない質のものです。歩き終えた翌日に、「美しいゴール(志)を持つことの大切さ。」「達成感はゴールの先にしかないこと。」「一歩を踏み出すことは簡単だが、踏み出し続けることは大変なことであること。」「愚痴を言ってもぼやいても、道は短くならないし雰囲気が悪くなりモチベーションが下がるだけなので、どうせなら共に明るく励まし合って歩いた方が良いこと。」「出来ない理由を探さないこと。」等々、様々なことをお伝えします。

ただし、受け取るのは自分次第なので、何を手に入れられたかは一人一人違います。体力によっても、心の持ち方によっても、みんな違うものになります。何も得られなかったという人がいても別に不思議ではありません。何も考えずにただ作業のように歩けば、得られるものがあるはずがありません。仕事も人生も同じです。

人生は道を歩くことに似ているとよく例えられます。本当にそうだと思います。歩き終えたときの皆さんの表情は、本当に変わります。疲れていたり、足が痛かったりするとは思いますが、みんな輝いています。それは、困難を乗り越えていく自信、達成感、仲間がいる心強さ、楽しさ、自然の中で汗を流した爽快感、様々なものが得られたことによるものだと感じています。やってみなければ分からないのがこの学びの良さであり深さです。

道案内のためとペースメイクのため、そして、蜘蛛の巣を払うために、私はいつも先頭を歩きます。本来、体育会系では無い私は、いつも歩き通せるのか不安でいっぱいになります。しかし、自分が歩き通せなければ、全員に迷惑がかかります。そういう意味では、気力で歩き続けているのですが、果たして何歳で歩くのをやめたら良いのだろうかといつも思っています。

自分の体力・気力と向き合い、歩いている最中や歩いた後に感じた感覚で決めるしか無いのだと思います。

30歳ぐらいの時にこの研修を作って、「10年続けられたら一つのことを成し遂げたと言って良いだろう」と考えていましたが、もう30年以上この道を歩き続けています。

私自身が、吉田松陰先生はじめ先人たちの声に耳を傾けながらこの道を歩き続けています。毎年、昨年よりも今年、学問を深めてから行かなければ、先人たちに恥ずかしいと私は思っています。

教育という道を歩き続けていく私にとって、萩往還を歩くことは、「日々新た」という思いを忘れずに、学びの道を歩くことでもあります。今年は歩いている時に、韓愈の「彼も人なり、我も人なり」という言葉が心にこだましていました。

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