Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育の在り方②

2019年10月31日 | Weblog
ビジネスも教育も、

出来なかったことが出来るようになること、
これまで遅かった仕事が早くできるようになること、
売上の最大化を図り、無駄な経費を削減すること。

こうしたことが現代の仕事には求められています。

しかし、「深さ」はあまり求められていません。
「深さ」は無駄とも思えるような試行錯誤や、
様々な経験をもとに生まれてきます。

だから、私の教育においては、
当然、答えは自分で出すもの
というという前提があります。

答えを与えられ、知識やスキルを身に付け、
効率よく仕事を進められるようになることが、
社会人としての学びであり成長だという認識ではないのです。

だから、
私の伝えたいことの本質は
なかなかわかりにくいのだろうと思います。

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教育の在り方①

2019年10月31日 | Weblog
若者たちも、知識や答えやHow toを学ぶことが、
学びだという認識が強いようです。

おそらく、IT化が進めば進むほど、
その傾向は強くなるのかもしれません。

論理性とはある意味「わかりやすさ」でもあるからです。

しかし、私の教育は、
人間としての「考え方」や「心の持ち方」に
切り込んでいくものですから、

わかりやすさに慣らされた思考からは、
価値のないものに思えてくるだろうと思います。

しかしながら、
「わかりやすいこと」には、
深遠さはさほどありません。

人間の芸術や自然に対する感性や、
そこから生まれた独自の文化への認識と造詣の深さ。
自然、地理的条件と歴史に学ぶの奥行きの深さ。

そうしたものが
人間の価値観の土台となっていき、
仕事に対する姿勢をも築き上げていくのだと私は思います。

そして、ひとり一人の人間が、
社会を作っていくのだと思います。

そこに私が「目標設定」の教育ではなく、
「志の教育」を目指す理由があります。





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浮き草暮らし

2019年10月30日 | Weblog
さて、私の人生も、
次第に終盤の佳境に入ってきました。

このブログも開設から4601日、
振り返れば12年半が過ぎていました。

私という人間が、
あまり成長してないように
感じられて仕方ありませんが、

一歩一歩、
日本の教育をより良いものにするために、
力を尽くしていこうと思います。

会社員や公務員と違って、
常に戦い続けていなければ、
明日の暮らしにも困るかもしれない立場の私ですが、

多くの人に支えていただき、
今日まで走り続けることが出来ました。

私の会社も来年1月で15期を迎えます。

出会って下さった全ての方に、
心より感謝申し上げます。






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晩酌

2019年10月28日 | Weblog
意外に思われているようですが、
私は晩酌という習慣は全くありません。
飲みに行く以外は、ほとんど飲まないのです。

ただ、時には一人でグラスを傾けたい時もあります。

そんなときには、
ウィスキーをロックで飲んでいると、
至福のひとときを得られます。

Old Parrの18年はやはり美味しく、
オンザロックで飲みながら仕事をしている時に、
氷の音が静かに聞こえてくるのが、
何とも嬉しい時間となっています。



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二日間の研修

2019年10月27日 | Weblog
二日間の企業研修が終わりました。
全力は尽くしました。

十分だったかどうかはわかりません。
言葉や心がどこまで届くかは
私にはわからないのです。

だから、ただ、全力を尽くし、
共に学ぶだけ。

伝わらなくなれば、
研修など辞めて、
静かに本を読み、
本を書く日々を過ごしたいと思います。

しかし、少しでも
他人様の心に届けられるものが
自分の中にあるのなら、
それを全力で届け続けるだけです。


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グリム童話

2019年10月25日 | Weblog
グリム童話に「おばあさんのテーブル」という話があります。
次のようなお話です。

「ある所に体の弱いおばあさんがいました。
おばあさんのだんなさんは死んでしまい後にはおばあさんがただ一人残されました。
そこでおばあさんは息子夫婦と孫娘と一緒に暮らすことになりました。
おばあさんの目は日に日に悪くなり、耳もどんどん遠くなっていきました。
あまりに手が震えて、夕食のときには豆がスプーンから転がり落ちたり、スプーンがお皿からこぼれたりすることもありました。
息子とその嫁は、おばあさんが食卓の上に食事をこぼすのを、とても嫌がりました。
ある日、おばあさんがミルクのコップを倒してしまうと、もう我慢できなくなったのです。
二人は、部屋のすみにあるほうきをしまう戸棚の隣に、小さなテーブルを置きました。
その日から、おばあさんはそこで食事をしなければならなくなりました。
一人ぼっちでテーブルにつくと、おばあさんは目に涙をいっぱいためて部屋のむこう側にいる家族を眺めていました。
息子たちは、食事をしながら、ときどきおばあさんに声をかけましたが、その言葉のほとんどは、おわんやフォークを落としたことへの文句でした。
ある日、夕食前に床の上で孫娘が積み木遊びをしていました。
父親が娘に何を作っているのかと尋ねると、娘は「お父さんとお母さんのために小さなテーブルを作っているの」と言ってにっこりとほほえみました。
「私が大きくなったとき、お父さんはこのテーブルを使って部屋のすみでご飯を食べるのよ」
父親と母親はしばらくの間、娘を見つめていましたが、突然声を上げて泣き出してしまいました。
その夜、二人はおばあさんを大きなテーブルに呼びもどしました。
それ以来、おばあさんは家族のみんなと一緒に食事をするようになり、おばあさんが時折ものをこぼしても、息子も嫁もちっとも気にかけなくなったということです。」


グリム童話は、今から200年以上も前に書かれた話です。
200年以上前の話が、私たちの心に突き刺さるのは、普遍の真理で私たちの心をえぐっているような話だからでしょうか。
子どもたちにも、是非、読んで欲しいと思いますし、若い親たちにも、是非、読んで欲しいと思うお話です。
 

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こだわり

2019年10月25日 | Weblog
こだわり抜いた仕事をすれば、
当然、時間やお金を度外視して、
仕事に打ち込むことになります。
それが職人の誇りある仕事の仕方だと思います。

これから会社を移転するにあたり、
今まで積み上げてきたものの量を感じます。

買い続けてきた本の多さ、
子どもたちのレポートの多さ、
研修資料の多さ、
これらをどこまで移動させようかと悩みます。

同時に、
我ながら、
よくもまぁ、
我武者羅に走り続けていたものだと、
その滅茶苦茶さ加減に驚いています。

努力は裏切らないとも感じています。





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転機

2019年10月20日 | Weblog
これまでの人生の中で、
いくつかの転機がありました。

それは痛みと共に、
乗り越えるべき試練でもあったように思います。

今また、大きな転機が訪れています。

今回の転機は、少し今までとは感覚が違います。

不思議な目に見えぬ力に導かれるように、
いくつもの事が起きています。

次のステージに行くことを楽しみにしています。
勿論それは、激しい試練を伴うこともわかっています。

しかし、それでも前を向いて楽しみます。
未来は明るいと信じているからです。
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教員のいじめに思う⑤

2019年10月18日 | Weblog
 神戸市立東須磨小学校の「教員いじめ」で、その道具に使われたカレーを給食から一時的に中止すると市教委が発表し、ネット上でも波紋が広がっている。

・・・とのニュースを見て、やはりこうなるかぁと思いました。

教員がやっていることと同じ事をする子どもが出てきた時に、先生が指導すれば、「先生たちの真似だけど何か?」と言われそうで、その場合、指導ができないということです。

おそらくそうでしょう。しかし、子どもが大人の真似をするのは当たり前のことです。それが良いことであれ、悪いことであれ、真似をする。だから、大人の立ち居振る舞いそのものが教育なのです。

今回の措置は、真似をさせないようにしようと、本来、何の罪も無いカレーを出さなくするもので、ある種の卑怯さを感じます。子どもたちに真似をさせないような指導ができないこと、すなわち、教育への信念がないことを認めているようなものだからです。

大人たちの卑怯な振る舞いもまた、いずれ真似されるということを思い知るしかないのだと思います。

教育的信念など、期待しても仕方が無いのかもしれません。きっと件の教員もまたTVのお笑い番組を見て、ただふざけただけなのです。そのお笑い番組を見て、笑っていた人たちもまた、今日のこの社会的風潮を作ることに加担した人たちです。同様に止めることもできずに傍観してきた私にも応分の罪があります。

そう考えると、日頃から、善悪の判断を自分でできなくなっていることが、そして、正しいことを主張できなくなっていることが、問題の本質なのかもしれません。「赤信号みんなで渡ればこわくない」という社会をみんなで作ってきたのです。

そして、手段と原因を取り違え、簡単な対策の方に向かうのも問題だと思います。つまり、本当の原因には向き合わずに、手っ取り早く、問題を起こした手段を除去して、さも対策をしているように振る舞う姿勢にも、とても嫌な気分になります。

カレーは手段として使われたものであって、原因ではありません。手段を取り除くやり方は、言ってみれば、飲酒運転で事故を起こしたから、再発防止のために、車と酒をなくしましょうというようなものです。問題の原因は人間にあるのであって、車やカレーにあるのではありません。

今回の教員のいじめ問題で、やっていること全てが、日本の教育の劣化を示しているようで、何ともいたたまれない気分になります。

自分ごととして向き合っていかなければと改めて思いました。
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教員のいじめに思う④

2019年10月15日 | Weblog
教員間のいじめが起きた学校の元校長への
インタビューを聞いていて、ふと思ったことがあります。

それは、教員がどれほどの存在であることが
求められているのだろうか?ということです。

人間性、知識、コミュニケーション力、語学力、
体力、精神力、マナー、etc.・・・。

こうしたものは、厳しい実社会の中で、
多くの社会人たちは鍛えられていきます。

特に、経営者や社会のリーダーたちは、
大きな責任を背負い、厳しい日々を生きて行く中に、
自分の言葉、服装、立ち居振る舞い、表情なども、
次第に厳しく洗練されたものになっていきます。

困難を乗り越え、判断力と決断力を身に付け、
多くの人たちの幸福を願い続けて仕事をしてきた
人物たちの表情からは、
その人の歩んできた道程が感じられます。
人格がにじみ出ています。

一方で、子どもたちと共に、
子どもたちと同じ目線で日々を過ごし、
閉ざされた職場での日々を過ごしている大人たちに、
いったいどれほどの事を要求して良いのだろうかと思います。

社会は教育に大きな期待を寄せています。
教員に対しても、大きなものを求めています。

しかし、それは、子どもと共に
人生の大部分の時間を過ごして下さっている
先生たちにとっては酷な要求かもしれません。

どうすれば良いのか。
私も考えてみます。
批判をして済むような簡単なことではないと思います。

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