Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

ありがとうございました

2011年12月31日 | Weblog
2011年も今日で最後。

今年一年間、本当に沢山の人に支えていただき、
「志の教育」を実践し続けることができました。

V&E一同、心より感謝御礼申し上げます。

ありがとうございました。


今年は、やり残したことも沢山ありますが、
来年のテーマとして更に精進を重ねて参りますので、
今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

来年も思い切り自由で伸びやかに
教育実践を重ねて参ります。

自分の心が死んでいて、
また、感動を忘れていて、
手応えのある教育実践など
できるものではないと思うからです。

私は一人の社会人として、
市井のおじさんとして、
自由闊達に教育を考えます。

そして、新しい試みに常に挑み、実践し続けていきます。

地道に地道に、真心を込めて・・・。


みなさま、どうぞ良いお年をお迎え下さい。





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幅を広げる

2011年12月30日 | Weblog
教師が自分の価値観で、
生徒に優劣をつけたり、
好悪の感情を持ったりする。

しかし、
学校教育現場の物差しで計れるほど、
現実の社会は単純ではない。

世界は広い。
どんな仕事をしようとも、
どんな生き方をしようとも、
社会人として、タックスペイヤーとして、
社会に貢献する生き方をするのであれば、
何ら恥じることはないのである。

だから、学校だけでしか力を持たない
「学校の価値観」に傷つけられたからといって、
そう嘆くことはない。

偏差値が低いとか、
校則を破ったとか、
宿題を忘れたとか、
そんなことだけで人生は決まらない。

もちろん些事は大切である。
しかし、些事だけが大切なのではない。
大局があるからこそ些事が大切になるのである。

だから、自分の人生の志を考えなくてはならない。
大きな視点を持たなければならない。

社会は変化に満ちている。
変化への対応力を身につけて、
社会という名の荒波を
力強く共に泳いでいきたいと思う。
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自分の言葉を持つ

2011年12月29日 | Weblog
「自分の言葉で語ることが難しい」
という今日の状況は、何を意味するのでしょうか?

それは「主体性の死」であり、
多くの人たちが、
「生きているつもり」になっているだけで、
「他人の人生」や「借り物の人生」を生きているという
深刻な事態が起きていることを意味しているのかもしれません。

それは、ひょっとしたら、
多くの人たちが、
精神の活動において「已に死んでいる」
ということを意味しているのかもしれません。

自由があり人権があり経済的に豊かであり、
物質的にも情報的にも恵まれているようでありながら、
実は「人間としては死んでいる」という大きな矛盾。

仕事柄、私は多くの文章を読みますが、
よくステレオタイプの自分の考えが無い文章に出会います。
それは、残念なことに、主として教育界においてそうなのです。

本人はそれらしいことを語っていると思い込んでいるのでしょうが、

これほど人の心に響いてこない、
毒にも薬にもならないような無機質な言葉の羅列はありません。

何かを言っているようで、
何も言っていない文章に出会うたび、
何とも言えない悲しい思いになります。

どこを切っても血が出てこない文章など、
真に生きている人間のものではないと思うからです。

かくいう私も若い頃はそうした文章に陥りがちでした。
個人をとりまく様々な社会の仕掛けが、
そうした状況を生み出しているのかもしれません。

だからこそ、私は「私の言葉」を手にしようと思います。

それは、自分の思想を自分で鍛えていくことだと思っています。
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わからないということ

2011年12月29日 | Weblog
どうすれば教育は良くなるのか?

いつも考え抜いていこうとしています。
また、その時々の答えは出すようにしています。

しかし、明確な答えなどはやはりありません。

あるとすれば、
それは「私が何をするか」
ということだけだと思います。

これまでに、
多くの教育実践をかたちにし続けてはいますが、

これで良いというものはまだありません。

しかし、共に学んで下さる人たちに対して、
ベストを尽くしたいとは思っています。

だから、教育実践の時には、断行するしかなく、
その準備においては、迷い、悩み抜き、
熟慮を重ねるしかないのだと思っています。

きっと大切なことは、
わかったつもりにならないことなのだと思います。

いや、実際に私にはわからないのです。

教育がわかった、
こう指導したらよいとわかった、
私は教科の専門家だ、
私はプロの教師だ、
などという感覚は、
残念ながら私にはありません。

いつも迷いながら、悩みながら、
わかったと思った瞬間に、
また、わからなくなっていく。

ただ、
移り変わる時代と、
変化する共に学んで下さる人たちとを愛おしみ、

その瞬間、瞬間に、
自分の信じる言葉と行動で
教育という表現を続けていくしかない。
そう思います。

そのためには、
もっと深く学ばなければなりません。
もっと自分の哲学を深めていかなければなりません。

教育という無窮の存在に
私は夢中になって向き合っていこうと思います。



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理念

2011年12月25日 | Weblog
やはり理念が大切だと思います。

日本という国家の混迷も、
行政機関の停滞も、
学校教育の停滞も、
根底にあるのは、
理念の不在、
あるいは、
理念が組織に浸透していないことによって
引き起こされているものだと思います。

理念には即効性はありません。
それを言葉にした者が、
時間をかけて説き続け、
組織の中に浸透させていかなければなりません。

無理解や冷笑、皮肉、敵対、虚無感、
あらゆるものと戦っていかなければなりません。
しかも、嬉々として・・・。

理念にはどこにでもあてはまる正解などはなく、
ただ、信じるか信じないかがあるだけですから、
誰よりも理念を語る者が、
そのことを信念として語らなくてはなりません。

迷いもありますが、迷いにとどまっていてはいけない。
原理は大切ですが、頑迷固陋な原理主義に陥ってはならない。

日々新たでなくてはならないのだと思います。

土台から立て直すと言うことは、
自分の関わる組織の理念に
どう真っ直ぐに向き合うかということしかない。

そう思います。



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混乱の原因

2011年12月12日 | Weblog
クイズや正解のある問題ばかりに埋没していると、
人間は条件反射的に、
すべての問題には正解があるものと信じ込んでしまう。

しかし、実際の人生はそうではない。

正解がいくつもあったり、
正解への道筋や問題の解決方法が
何通りもあったりする。

また、正しさと誤りはその比率を変えながら、
常に混在しているものである。

つまり、混じりっけのない100%の正しさや、
混じりっけのない100%の誤りなど、
そもそも存在していないのである。

善と悪もそのようなものであり、
100%の善、100%の悪という定義には、
私はどこかしら嘘くささや、
人間の香りがしていないことを感じ取る。

また、正解が無い場合さえある。
何が善で、何が悪なのか、
なかなか判断が難しい場合も多いものである。

しかし、日本の学校教育においては、
常に正解があることを前提としての刷り込みがなされている。

クイズやゲームの世界もそうである。
○か×か、1か0かの世界である。

そうした技術は技術として有り難く使わせていただきたいが、

私は、常に問題には正解があり、
しかも、正解は一つであるという思い込みが、
人間をいかに愚かにしていくかということに対して、
常に注意を払い、警鐘を鳴らし続けたいと思う。

そうした思い込みが、
人間存在を無意識のうちに貶め、
議論を不毛なものにしていく危険性を直視していたいと思う。



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ありがとうございました

2011年12月10日 | Weblog
エクスプレッションアカデミー最終講座に
ご参加いただいた皆様、
本当にありがとうございました。

中島淳一さんの一人芝居「沙漠の商人」に触発されて、
大いに話も弾みましたね。

本当にかけがえのないひとときを過ごさせていただきました。
心から感謝申し上げます。

今、1時55分。
私もようやくオフィスに戻って
落ち着くことができました。

大切なことは、
感じ取る心を磨くこと。

どんなに素晴らしいメッセージも
受け取る側の心に曇りがあれば、
しっかりとはキャッチできないと思います。

私も昨日はまた、新たな気持ちで、
教育事業に臨みたいと思わせていただきました。

日々新たでいられるかどうかは、
自分自身の心の持ち方次第だと思います。

対象物が古いのではなく、
自分の心が古びていることに気づく
感性のみずみずしさが何よりも大切なのだと思います。

何歳になっても、
素直な心、謙虚な心、感動する心を持ち続けたいと思います。

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痛恨の極み

2011年12月06日 | Weblog
日本の未来は、客観情勢として明るくはない。
国の多額の借金、少子高齢化、縮小するマーケット…。

しかし、活路はある。

それは、一人一人が危機感を抱き、
真剣に学び、自分の強みを磨き、
子どもも大人も志高く生きる社会を実現させることである。

しかし、現実の壁は厚い。

なぜなら、もう子どもたちの心の底にまで、
「損か得か」という価値基準がしみこんでいることを痛感するからである。

勉強をするにしても、
それをすることが「損か得か」。

理解するより考えずに暗記する方を選ぶのも、
受験を考えると「得」だから。
覚えた方が「楽」だから。

掃除をするにしても、
ボランティアをするにしても「損か得か」。

人の話を聞くか聞かないかも「損か得か」。

もはや、
そんな子どもや若者たちの心を磨いていくのは、
ほぼ不可能に近い、至難の業である。

一体、なぜ、そんな悲惨なことになったのかをよく考えて欲しい。
生まれたときの赤ん坊は、
「損か得か」などで行動してはいない。

誰がこの「損か得か」という価値観を
子どもたちの心に先入主として植え付けたのかと言えば、
それは、やはり大人でしかあり得ないのである。

思考力や志や気概を失った子どもたちは、
やがて成人して、国家が破綻していく
断末魔の姿に立ち会うことになったとしても、
眼を覆って見ないようにするか、
かつての父祖の世代への
呪いの言葉を発することぐらいが関の山ではないかと思う。

何としてでもこの困難を克服しようという気概、
その方法を試行錯誤して考え抜く思考力、
社会のために力を尽くそうという志は、
もはや社会全体から失われてしまったのである。

そうしたかけがえのない大切なものは、
残念ながら今の子どもたちの手の中にないのである。

それを大人たちは、
持たせてあげることができなかったのである。

自分自身が、
目先の「損得」という価値観でしか、
子どもを育ててあげられなかったから…。



私のやっていることなど、
もはやごまめの歯ぎしりにもなりはしません。

無念であり、痛恨の極みであります。

悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。



この絶望的な状況は直視しなければなりません。

しかし、絶望を語るのは、
絶望しているからではありません。

絶望的な状況を語り続けることが、
一人でも新たな希望への道を歩んでくれる同志を集める
道しるべとなるのではないかと思うからなのです。











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教育とは何か

2011年12月06日 | Weblog
私は教育というものは、
全ての人が、全ての場所において、
行っているものだと思います。

幼稚園であろうと保育園であろうと、
小学校であろうと大学であろうと、

その人の言葉と行動が、
側にいる人たちに、
何某かの影響を与えているという意味においては、
やはり教育をしているのだと思います。

とにかく日本の将来にとって、
良き教育、良き人材育成をすることは、
重要かつ緊急のテーマだと思います。

その意味で、
私はあらゆる方々に、
あらゆる機会をとらえて、
私が大切なこととして学ばせていただいたことを、
お伝えしていこうと思うのです。

もちろん、
そんな力が私にあるのかどうか、
私にはよくわからないし、
たぶんないのだろうとも思っています。

しかし、
子育てや教育に関する不幸や嘆きや苦しみを、
この世の中から少しでもなくせたらいいなと思っています。

また、希望の光を失っている人たちの心に、
ささやかであっても灯火を灯せたらいいなと思っています。


新渡戸稲造氏は『自警録』で次のように述べています。


「日本の教育を進めるには、
必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。

(中略)

むかしの立派なる教育家貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等はみな塾を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。
藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。

人そのものが教育である。
人が真に教育家なら笑っていても教育になる。
寝ているのも教育になる。

一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。
われわれの目的および理想が教育であるなら、
全身その理想に充ち満ち、
することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。」


僭越ながら、私もそう思います。

確かに教育には、
様々な法律の縛りや、
所管の違いはありますが、
突き詰めて考えれば、
「良き人間に成長して欲しい」という
一つの願いであり、一つの祈りだと思います。

そして、それを実現させていくために、
自分を磨き続けていき、
そのことを通して、
多少なりとも他人様の手助けをしていくことでしかないと思います。



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大切なこと

2011年12月05日 | Weblog
教育にとって大切なことは、
志を学ぶと言うことだと思います。

「志を立てて以て万事の源と為す」

これは吉田松陰の言葉ですが、
私たちはこうした言葉を噛みしめて、
腹の底から感じ取っていく感性が鈍っているのだと思います。

結局、一人一人が己の志を立てて、
二度と無い人生に立ち向かうしかない。

だから私は自問自答を続けます。

社会のためにどれだけ役に立てたのか?
自分だけの狭い価値観にとらわれていないか?
与えられた役割や肩書きだけに満足してはいないか?
自分で勝ち取ったものではないのに自分のものとしてはいないか?
他人の権威に寄りかかってはいないか?
今の立場を全て失ったとしても、
今、取り組んでいるテーマをやり続けていく決意はみなぎっているのか?
昨日の自分より今日の自分の方が成長しているか?

ただ、ただ、問い続け、
走り続けていくだけです。











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