Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

隗より始めよ

2020年05月30日 | Weblog
中国から見た日本人の感想めいたことがWEB上にあった。最後の一言が目にとまった。別に誰が言っているかは問題ではない。

「私は日本人が悪であると言いたいわけではない。彼らは極めて誠実で善良だ。ただ、彼らの骨身になんら明確な正義の概念がないだけである。彼らはなにが正しくてなにが間違っているといったことを明言することができないのだ(以下略)。」

この問題。プリンシプルがなく、自分の意見がないというのが、日本人の問題であり続けていると思う。

自分の意見を持つためには、質の高い情報収集能力が不可欠だ。これは私にも足りない。もっと何とかしたいものだと思っている。

いつも感じているのは、誤った情報や、根拠のない話を信じて、意見を言う人たちの多さだ。これは悪気はない普通の人たちだ。これを何とかするには、エビデンスを大切に、ロジカルにものを考えるトレーニングが必要だと思う。

そして、信念を持たなければならないと思う。目の前の不利益に屈することなく、自分を貫いていくこと。そういう日本人でありたいと思う。これは、心を鍛えなければ、なかなかできないことが多い。

隗より始めよ。自分がまずそうであろうと思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間を生きる

2020年05月30日 | Weblog
ブログ開設から4815日。徒然なるままに思いを綴ってきました。

人生は時間です。ふり返ってみて、たいしたことのない人生だったなぁと思います。しかし、最後の呼吸がおわるまで、何とか頑張って、世の中に一つだけ小石を積んで人生を終えたいと思います。きっと4815日もないのだろうと思います。

私のやりとげたいこと。それは、多くの人のためになる教育を残すことです。

今回の新型コロナ禍でより実感を伴ってわかったことは、人生は時間だということ。そして、人には生きがいが必要だということ。それは志ある人生において得られるものであり、利他の心とともにあるものだということです。

そして、心の持ち方が大切です。

怯懦であってはいけないのです。
なぜなら、誇り高く生きるためには、堂々と信念と勇気を持って生きること、正しい主義主張を持ち、貫くことが大切だからです。

しかし、自らを誇る気持ちがあってもいけないのです。
なぜなら、人は嫉妬や勘ぐりをしたい生き物だからです。そうした邪なものを引き寄せないためには、何も言わないことも時として大切なのです。

しかし、誤解を恐れない強さも必要です。誤解は仕方の無いことだからです。

結局、ひとりぼっちでも生きていく覚悟と、みんなと一緒に生きる覚悟の両方を持たなければならないように思います。

人間を生きるということは、そういうことなのだと思います。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無明

2020年05月30日 | Weblog
「人の悪(にく)む所を好み、人の好む所を悪む、是(これ)を人の性に拂(もと)ると謂(い)う。菑(わざわい)必ず夫(そ)の身に逮(およ)ぶ。」(『大学』)

人が嫌がることを好み、人が好ましく思うことを嫌う。こういう天邪鬼な人間は、どうにもならないもので、良くないことが必ずその人に起こるというのです。その通りだと思います。

問題は、人が嫌がることが分からず、自分が好むところが正しいと思ってしまえば、この言葉の本質は永遠に理解できないということです。

「己の欲せざるところは、人に施す勿れ」(『論語』)

この言葉も黄金律として人口に膾炙しているものですが、「自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じなのだから、他人にすべきではない」という言葉も、他人の置かれた立場や状況を考えることができなければ、やはり意味を持たない言葉になります。

人がして欲しいと望むことをどれだけしていくことができるのか。人が嫌だと思うことをどれだけしないようになれるのか。

そんな単純なことが、できない人が、世の中には少なからずいます。そんなときに、教育の無力を感じます。

そして、仏教の「無明」という言葉を思い起こします。

Wikipediaには、以下の説明があります。

「十二因縁では、すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説いています。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。」

儒仏混在する考え方になってしまいましたが、何が正しきことかを知ることは、なかなか難しいことのようです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする