「言葉の快、不快は、
一語一語の持つ意味や定義のうちにはない。
それを使う人の心にある。
邪心が無ければ、
そして、
それを邪推する事無く聴くことが出来さえすれば、
どんな「不快用語」も不快感を伴わぬであろう。
なぜ人々は、「不快用語」一掃を叫ぶ人々の邪心に、
そしてその彼等の用いる言葉に不快感を覚えぬのか。
そういう言語感覚の持ち主は一生
「不快用語」に付きまとわれるであろう。
そればかりではない、
所謂「不快用語は」日本語ばかりではなく、
あらゆる国の言語にとって、堆肥の如く、
言葉の地味を豊かにする不可欠のものである。」
故福田恒存氏のような、
言葉への鋭い感覚を持った評論には、
もうお目にかかれないと思います。
「評論家」と揶揄されぬ凄みが、氏の評論にはありました。
せいぜい人を扱き下ろして快哉を叫んでいるような、
そんな痩せた言語空間に身を置くことを、
私たちは良しとしてしまったのです。
歯ぎしりしながら、其の事に向き合おうと思います。
一語一語の持つ意味や定義のうちにはない。
それを使う人の心にある。
邪心が無ければ、
そして、
それを邪推する事無く聴くことが出来さえすれば、
どんな「不快用語」も不快感を伴わぬであろう。
なぜ人々は、「不快用語」一掃を叫ぶ人々の邪心に、
そしてその彼等の用いる言葉に不快感を覚えぬのか。
そういう言語感覚の持ち主は一生
「不快用語」に付きまとわれるであろう。
そればかりではない、
所謂「不快用語は」日本語ばかりではなく、
あらゆる国の言語にとって、堆肥の如く、
言葉の地味を豊かにする不可欠のものである。」
故福田恒存氏のような、
言葉への鋭い感覚を持った評論には、
もうお目にかかれないと思います。
「評論家」と揶揄されぬ凄みが、氏の評論にはありました。
せいぜい人を扱き下ろして快哉を叫んでいるような、
そんな痩せた言語空間に身を置くことを、
私たちは良しとしてしまったのです。
歯ぎしりしながら、其の事に向き合おうと思います。