Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

一歩一歩万里を行く

2009年03月26日 | Weblog
衆に頼みたくなるのは人の心ですが、
それをしたくないと思うのは、
こだわりがあるからに他なりません。

魂を売って現世的成功を得られたとしても、
肝心なものは、違うものにしか育ってはいかない。

私の目指す教育も、
晴れの日もあれば、雨の日もある。
天に試されることの連続のような毎日でもあります。

教育という非効率の極みに没頭していると、
ついつい、浮き世の義理にまで気が回らないこともあります。
誠に申し訳ないところではあります。

また、こだわりを捨てずにいると、
なかなか周囲とうまく調和を保てないことも出てきます。

しかし、自分の本分は何かを見定めて、
ベストを尽くすことが、
私に出来るささやかな社会へのご恩返しなのだろうと思います。

自分の生み出そうとするものに妥協をしてはいけない。
こだわり続けなければならない。
そう肝に銘じつつ、
もっとパワー全開で、
今、直面している教育の場に向き合っていきたいと思います。

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梅に鶯

2009年03月18日 | Weblog
バッカーズ九州寺子屋Newsの写真に、
スタッフが、桜の花にとまった鶯色の鳥の写真を使っていた。

私は、
「あっ、メジロだ!メジロだ!」といってからかった。
「これ、うぐいすのつもりでのせただろう。」

「ウグイスは、藪の中で虫を食べてるから、
 花の咲いた枝に留まるなんてことはないよ~」

「花の蜜が好きなのはメジロで、
 目の周りが白くて、鶯色をしているんだよ~」

と教えてあげたら、

「そんなことわかってますよ!
 モグラだって安全第一なんて言うヘルメットはかぶってませんよ!」

などと言う意味不明の回答が返ってきた。

うちのスタッフの頭の中は、いつも春らしい。


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二種類

2009年03月17日 | Weblog
人間は二種類に分かれるような気がしている。

一つは、公私が一体となる人。
一つは、公私をはっきり分ける人。

公私混同などと言う話ではない。

つまり、前者は、仕事が人生そのものであり、
すべてが一つのミッションに集約されていくタイプ。

後者は、仕事は仕事、プライベートはプライベートと
割り切っていくタイプ。

どちらが正しくて、どちらが正しくないと言うつもりはない。

しかし、何かを世の中に残していく人たちは、
ほとんどが前者の生き方をしているのではないだろうか。

寝ても覚めても自分の人生のテーマを考えるタイプである。

最近、萩往還を歩く研修の下見をしてきて、
吉田松陰や高杉晋作の人生、
あるいはまた、
中原中也の人生に改めて触れてみて、
その思いを強くした。

そういえば、
バッカーズ九州寺子屋の経営者の一人も、
「24時間、365日、
 社長であるという意識を持ち続けられなくなれば、
 社長をやめるべきだと私は思っている」
と語られていた。

本気で何かをやるということは、
そういう心構えを当然に持つと言うことであろう。

私もそうした人生を歩みたい。
同じ思いを持った同士と共に。
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中原中也②

2009年03月17日 | Weblog
中原中也のことをブログに書いていたら、
『中也が愛した女』舞台公演のご案内をいただきました。

下記URLが「中也が愛した女」のサイトです。
http://www.chuyagaaishitaonna.com/

面白そうだと思いました。
行ってみたいところではありますが、
問題は私のスケジュールが合うかどうか。

これは、結構難しいテーマだと思います。
また、表現が難しいだろうなぁと思います。

舞台の成功を心からお祈りしています。

書き込んで下さってありがとうございました。


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中原中也

2009年03月16日 | Weblog
中原中也記念館で、
「哀悼の詩 ―愛するものが死んだ時には―」を見てきた。

中原中也の人生は30年。
哀しみと死に囲まれた人生であった。

1925年、
中也18歳の時に、
親友富永太郎が没した。

同じ年、
中也と同棲していた長谷川泰子が、
友人小林秀雄の許に去ってしまう。

多感な時期に受けた心の傷は、
深く生々しかったことだろう。

1931年、
弟恰三が亡くなる。

1932年、
祖母スヱが亡くなる。

1935年、
養祖母コマが亡くなる。

1936年11月、
中也29歳の時に愛児文也(2歳)が亡くなる。

1936年12月、
同じ年の一月後に、次男愛雅が誕生する。

翌1937年10月、
中原中也はこの世を去る。

翌1938年1月、
愛雅が亡くなる。


死と別離の悲しみで、
心を研ぎ澄ましながら、
詩を紡ぎ出し続けてきたかのようである。

中也の代表作の一つ「冬の長門峡」の原稿は、
珍しく毛筆で書かれているということを知った。

いつもは日記や原稿を、
万年筆で書いていた中原中也が、
長男文也逝去の記事と
その一ヶ月後に書いた
「文也の一生」と題された回想録だけは、
毛筆で書いている。

その悲しみを引きずったままに、
「冬の長門峡」は書かれた。


  -冬の長門峡-

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は恰も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがても蜜柑の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。

あゝ!――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。




中原中也の死に際し、
草野心平は、次の詩をおくった。


中原よ。
地球は冬で寒くて暗い。

ぢや。
さやうなら。

        草野心平





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死生観

2009年03月15日 | Weblog
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。

吉田松陰の言葉である。

現代を生きる私たちは、
死生観について鍛える時間を失った。
それが、戦前の人間と現代の人間との大きな差異を生んでいると思う。

たしかに人の命はかけがえのない大切なものだと思う。
しかし、地球より重いとは思えない。
地球とは人類のみならず、
あらゆる生命体を育む場だからである。

それはさておき、

松陰の死生観を受け継いだ高杉晋作は、
回天の義挙にあたり、
「焦心録に題す」という漢詩を詠んだ。

内憂外患迫吾州(内憂外患我が州に迫る)
正是邦家存亡秋(正に是れ邦家存亡の時)
将立回天回運策(将に回天回運の策を立てんとす)
捨親捨子亦何悲(親を捨て子を捨つるまたなんぞ悲しまん)

実に強烈な漢詩である。

1864年12月15日、
高杉晋作は、雪の降る功山寺において、
たった80名で長州藩の俗論党2000名と、
ひいては、15万の幕府軍と戦うことを決意して挙兵する。
これが世に言う「回天の義挙」である。

そして、
たった一人の男の決意が、
長州藩の流れを変え、
幕府をも倒して、
新しい時代を切り開いていったのである。


命がけで日本の未来を切り開こうとした高杉は、
親を粗末にしたわけでも、
子を粗末にしたわけでもなかった。

もっともっと大きな大義に生きようとしたのである。

功山寺で挙兵したわずか二月前の10月5日には、
長男梅之進が誕生したばかりであった。




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プロ意識

2009年03月14日 | Weblog
同じものを何度見ても、
そこに新たな発見をしているのが、
プロではないかと思う。

何度も何度も、
バッターボックスに立ち、
ピッチャーの球を打つ。 

しかし、厳密な意味で、
そこには「同じ」などということはない。

「もうそれはわかっているからいい」

そう感じた瞬間に進歩は止まると思う。
私はそれを畏れる。

その怖さに私は誠実に向き合いたいと思う。

同じことであっても愚直に学び続ける姿勢を持ち、
日々、新たな視点で向き合っていくことを
いつまでも忘れないでいようと思う。



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伝えたいこと

2009年03月14日 | Weblog
私には伝えたいことがあります。

しかし、それを受け取って下さるかどうかは、
受け手の側に委ねられています。

私は、伝えようと思うことを、
心を込めて伝えていくだけ。

今日伝わらなくても明日。
明日伝わらなくても明後日。
明後日伝わらなくても明明後日。

とにかくあきらめずに、
心を尽くしていきたいと思います。

それだけ。
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職人

2009年03月11日 | Weblog
教師は、学校という組織に籍を置く以上、
組織人という側面を持っていて、
それはビジネスマンと相通ずる面があります。

また、教師は、
自分の教育的メッセージにこだわりを持つ以上、
職人に近い要素もあると思います。

私はかなり職人気質が強い部類に入るのだと思います(笑)。

私は私の教育が要らないと言われれば、
静かに去っていくだけです。
そしてまた、どこかで新しい自分の世界を切り開いていくだけ。

だから自分を磨き続けなければならない。

私は他人の非難をしている暇があったら、
自分の実践を磨いていきたいと思うのです。
何でも良い、一つでもいいから、
教育的な何かを生み出していきたい。
そう、思うのです。

そして、確かに子どもたちが成長しているという、
手応えを感じ続けていたいのです。






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教育とは

2009年03月07日 | Weblog
教育をする人間にとっては、
いつも「教育とは?」ということを
考え抜いておくことが大切なのだろうと思います。

それぞれの職業において、
「○○とは?」と考え抜いておくことが、
その道のプロと成っていく上では不可欠なのだと思います。

最近、私が強く感じることは、
教育とは「次の世代に託す」営みだということです。

自分が経験したことから学んだ大切なことを、
次の世代に、生きていく上での「智恵」として手渡していく。
だから自分の経験を通した学びが大切であり、
伝えるためにその学びを言葉にする必要がある。

そして、最も大切なことは、
本当にそれを伝えたいと思っているのか。
次の世代に手渡したいと思っているのかということだと感じています。

なぜなら「思い」の無い言葉は、伝わらないからです。
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