色々と憂えているのは、
自分が傲慢かつ不遜になったからではないかと、
立ち止まって自分を省みなくてはならないと思います。
以前思わなかったことを思うようになるのは、
自分の中に変化があったからです。
それがプラスの変化なのか、
マイナスの変化なのか、
よくよく考えてみる必要があると思いました。
色々と憂えているのは、
自分が傲慢かつ不遜になったからではないかと、
立ち止まって自分を省みなくてはならないと思います。
以前思わなかったことを思うようになるのは、
自分の中に変化があったからです。
それがプラスの変化なのか、
マイナスの変化なのか、
よくよく考えてみる必要があると思いました。
相撲も、御皇室も、政治も、マスコミも、
すべてが劣化していることを感じます。
御皇室の劣化などと不敬過ぎて、
口にするのも憚られるのですが、
もう口に出さないわけにいかない状況が出てきています。
伝統文化を軽視し続け、定見無き日本、
公不在で私利私欲に走る個人主義の日本、
プリンシプルなき日本に向けてひた走ってきた、
当然の帰結のように思います。
しかし、私は評論家でいるわけにはいきません。
教育から変えていく。
私から、そして、私の周囲から変えていくために、
本気で学び続けます。
悲しさと、悔しさに、歯ぎしりしながら、
学び続けるしかありません。
かつて、公教育について考えていたとき、
公教育は、いわば、「ここに木を植えて良い。
しかし、特定の木を植えてはいけない。」
そう言っているようなものだと思っていました。
例えば、あまり特定の人物の考えを教えるのは
いかがなものかという意味です。
しかし、「木」という「木」はないのです。
それぞれが、「杉」であり「松」であり、
「梅」てあり「桜」なのです。
抽象概念である「木」を教える教育というのは、
結局、実態のない、空疎な概念を、
言葉遊びのようにして教えているだけに過ぎません。
それでは、時代の変革者たちの強烈な生き様や、
苦しい時代を乗り越えていく人間の崇高さなど、
伝わろうはずがありません。
右でも左でも中道でも、とにかく、
人の生き様を学ぶべきだというのが私の考えです。
立場を超えて、歴史という風雪に耐えて残っている
人の生き様には、
必ず学ぶべき事がたくさん含まれているからです。
学べば学ぶほど、考えれば考えるほど、
教育の本質に迫っていくことができていると
感じることもあります。
しかし、教育界の多くの人とは、
違う視点になってしまい、
言葉がかみ合わなくなっていくことも感じます。
若い頃は、そのことに、怒りを感じたり、
虚しさを感じたりしていました。
今は、笑って、さらなる前進をしていこう
と思えるようになりました。
私は私、他人は他人。
それは仕方が無いことなのです。
それでも教育をよりよいものにしていく努力は、
どこまでも続けていこうと思います。
馬鹿馬鹿しい詐欺メール、迷惑メールが、
たまに届くことがあります。
アホくさっ!と思って、即座に削除しますが、
ふと、これだけ送っているということは、
下手な鉄砲数うちゃ当たるで、
騙されてしまう人もいるのではないかと思いました。
哀しいことに、世の中には、
リテラシーが高くない人もいます。
リテラシーとは「物事を正確に理解し、活用できること」を表す語。リテラシーの語源は英語のliteracyからきており、本来は「読み書きができる能力や知識」を指す言葉である。(新時事用語辞典)
そうした人たちを守ってあげたいと思います。
しかし、私にできることは、教育を通して、
literacyの力を高めることぐらいしかありません。
人を騙そうとしたり、陥れようとする、悪人たちが
いなくならないのも世の中の現実です。
しかし、それを守ろうという意志を持つ人たちが
いなくならないのも世の中の現実です。
少しでも世の中に良き価値を遺していこうと思います。
川や海や山での事故が多発しているように感じます。
自分が溺れたり、遭難したりすることもあれば、
他人に大けがをさせたり、
命を奪ったりということもあります。
どちらも生物として危機を察知する力が
弱くなっているのではないかと思います。
自然の怖さや、大きな動力を持つ機械の怖さを
幼少期に安全に体感させていくことが
日々の生活の中から欠落しているのかもしれません。
だから、自分自身に降りかかる危険に対しても、
自分が他人に対して与えている危険に対しても、
鈍感になっているのではないでしょうか。
私たち人間も自然の一部です。
いかに科学技術が発達したからといって、
自然の力の前に人間は、
やはりごくごく小さな存在です。
そうした事実を私たちは、
見失ってはならないのだと思います。
それは、自然を畏れ敬う気持ちを忘れないことであり、
自然に対する作法を
受け継いでいくことなのだろうと思います。
今日のバッカーズ寺子屋の講座は、
経営者講話がメインでした。
やはり、世界の第一線で戦い、
実績を出している方のお話は、
非常に深くて面白く、示唆に富んでいます。
未来を担う子どもたちは、
社会で実際にやっている人の話を聞くことが
とても大切だと思います。
私は教育の徒ですから、
実はたいしてやっていません。
何も形あるものを作り出してはいないのです。
農作物を育てたり、エネルギーを生み出したり、
建造物をこの世に残しているわけでもありません。
木を育てたり、魚や肉をとっているわけでもありません。
教育は所詮は虚業に過ぎないのです。
だからこそ、真剣に、全力で、
伝える力を高めていこうと思いますし、
感化力を高めていきたいと思います。
そして、実業として
私の会社を発展させていこうと思います。
それしか私にはできないからです。
「人作り」などという言葉は、
私には恐れ多くて口にできません。
「人を作る」など、神の領域の所業でしかありません。
私ができることは、ただひたすらに、共に学ぶだけなのです。
大したこともできませんが、
妥協せず、自分に厳しく、道を求めて歩いて行きます。
何が幸せかということは、
人それぞれです。
色々な幸せの形があると思います。
同様に、
不幸せにも色々な不幸せがあるのだと思います。
結局、どう思うかは、
自分の心が決めているとしか
言いようがないのかもしれません。
私は、・・・。
栗御飯食べられて幸せだった。
中秋の名月を見られて幸せだった。
鳩サブレ食べられて幸せだった。
沢山の幸せに包まれていて幸せです。
先人の書き遺した文章を読んでいると、
その大きさ、強さ、思いやりの深さに圧倒されます。
吉田松陰の『留魂録』
橋本左内の『啓発録』
西郷隆盛の『南州翁遺訓』
言葉の端々に、
その思考の深さと、
人間としての懐の深さ、
思いの真っ直ぐさ、
精神性の崇高さがにじみ出ています。
この歳になって、
やっとそのことに気がつけるようになりました。
そうしたことが若い時分に学べない日本。
先人のことを顧みなくなった日本の教育を、
少しでも変えていくことができたらと思います。
だから、とにかく学び続けていこうと思います。
若い頃は、考え方の違いで、
何かと人と敵対することもありましたが、
今、できるだけそれは避けようと思っています。
逃げているわけではありません。
なぜなら、私の目的は、
日本の教育をより良いものにするということであり、
私を否定する人たちも、
当然、その日本の中に入っているからです。
対立しても何も変わらないだろうと思うのです。
本当に変えようと思うのなら、
二宮尊徳の「一円観」という所に
行き着かざるを得ないのだろうと思います。