Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

味噌汁の中の教育

2010年03月21日 | Weblog
 株式会社熊平製作所が作成されている『抜萃のつづり その六十七』に掲載していただいた「味噌汁の中の教育」を、色々な方が読んで下さっているようで、とても嬉しく思います。もともとこの原稿は、月刊誌『正論』にエッセイとして寄稿させていただいたものですが、ここに全文を掲載致します。

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見えないものを見ようと努める心が、
今まで見失っていたものをありありと見せてくれることがある。

 現代の生活において最も大切にされてきた価値観の一つとして「効率」があげられよう。企業では、どれだけ原料費や人件費を抑え、時間を短縮し、いかに効率よく生産性を高めていくことができたかが、その存続と評価に直結している。

つまり、「効率」こそが企業の生命線であり、善なる価値観なのである。だが、その価値観が私たちの生活の隅々にまで浸透してしまったことで、多くの問題が生じている。

ある時、お母さん方と一緒に子育てについて学んでいて、そのことにふと気がついた。

 私はよく、次のような投げかけをお母さん方にする。

「ここに味噌汁Aと味噌汁Bがあります。味噌汁Aは、鰹や昆布でダシをとり、味噌漉しで味噌を濾し、豆腐を賽の目に切り、ネギを刻み、木のお椀に注いだもの。つまり、「手作りの味噌汁」です。

味噌汁Bはコンビニで買ってきた「カップ入りの味噌汁」で、だし入りの味噌、フリーズドライの豆腐とネギが入っていて、発泡スチロールのカップのままいただきます。とても便利ですね。

私たちがこの二つの味噌汁から、それぞれ「得ているもの」「失っているもの」を、思いつく限りたくさん書き出してみて下さい。」

そして、それを表に書き出し、両者の違いをまじまじと眺めてみるのである。

当然のことながら、味噌汁Bでは、「時間を得ている。」という答えが圧倒的に多く出される。そして「安定した味」「お湯さえあればどこででも食べることができる便利さ」といった答えがその後に続く。しかし、インスタントの味噌汁Bで得られるものについての意見は、参加者全員で知恵を絞ってもあまり出てこない。

一方、「では、味噌汁Bで失われているものは?」という私の問いかけには、多くの答えが出される。参加者からは、まず、「それは、手作りの味噌汁Aで得られるものと同じですね。こんなにたくさんAで得られる物があったんですね。」という答えが返ってくる。この時点で参加者たちは、味噌汁Aで得ていたものが味噌汁Bでは失われ、味噌汁Bで得ていたものが味噌汁Aでは失われているという構造になっていることに気づく。

 では、お母さん方が二つの味噌汁の比較表を作ってみて目の当たりにした、手軽さの代償として失ったものー私たちが「時間」を得るために失ったものーとは何であったのか。

 それは、「手作りならではの美味しさ。新鮮な食材を使うことから得られる安全。目の前でしかも家族が作っていることからくる安心感。家族の健康。美味しい物、体によい物を食べさせてあげたいという愛情。作ってくれてありがとうという感謝の気持ち。馥郁たる味噌の香り。包丁の使い方。目分量する感覚。味噌を入れてたぎらせないよう温度を見切る感覚。木の器から伝わるぬくもり。木の器の美しさ。その家庭独自の味。新鮮な豆腐の白とネギの緑の色合いの鮮やかさ。追加で入れる旬の食材。子どもに手伝わせて得られる親子の会話。「今日の味噌汁美味しいね。」「ちょっと味が濃すぎるよ。」「今日は具に何を入れたの?」といった何気ない家族の会話。・・・」まだまだ無数にあげられる。

 特に、ある会場で、「 手作りの味噌汁で得られる物は、豆腐を切る時にまな板を叩くトントントンという音。ネギを刻む時の音と香り。」と言われたときには、予想外の意見だったので、頭を殴られたような衝撃を受けたことを覚えている。

 たがが一杯の味噌汁ではあるが、よくよく見てみれば、こんなにも多くのものを私たちは「いただいて」いたのである。味覚のみならず、視覚・聴覚・嗅覚・触覚の五感を通して実に多くの「豊かさ」を享受していた。

そして…、失ったのである。

失ったものは、文化であり、自然であり、愛情であり、感謝であり、心を通わせる会話であった。それらはみな、今日の「教育」に欠けているとされるものばかりではないか。

 教育とは「手間暇」のことである。損得を度外視し、時間や愛情や知識や知恵を惜しげもなく与え続けていくことが教育だと私は思う。「手塩にかけて育てる」と言うが、「手間暇」をかけない本物の教育などあろうはずがない。「効率」を金科玉条とし、「手間暇」をかけることを生活のあらゆる場面から捨て去っておいて、ーつまり、「教育的なるもの」を私たち一人ひとりが日々の生活の場から捨て去っておいてー、私たちは「教育が悪くなった。」と大合唱し続ける愚を犯しているのではないだろうか。

 一杯の味噌汁からさえ、私たちはかくもたくさんの教育的価値を失ってきたのである。それを直視せぬ教育改革の議論など、手作りの味噌汁の湯気ほどの価値も持たぬことに私たちはそろそろ気づくべきではないだろうか。
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言語化する大切さ

2010年03月21日 | Weblog
言語化することの大切さを色々な場面で感じます。

文章を書いたり、
スピーチをしたりすることは、
大変な労力を必要としますが、

「考える力」は、
この二つの作業を通して
より磨かれていくものだと思います。

しかし、多くの人たちは、
この二つの作業を嫌なものとして避けて通ります。
ずっと避け続けます。

しかし、自分のメッセージを持つためには、
確固たる信念を持った大人になるためには、
絶対に避けて通ることの出来ない道筋だと思います。

私も一人の表現者として、
学び続け、表現し続けて行こうと思っています。




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教育の難しさ

2010年03月17日 | Weblog
教育の目指すところは、
子どもたち一人一人の可能性を引き出す
と言うことに尽きると言ってよいと思いますが、
その方法は無限と言ってよいほど多様だと思います。

しかし、教える側には、
一つのこだわりというか、
教育哲学が求められていると思います。

教育的信念がないと、
摩擦は生じないかもしれませんが、
それでは人を育てることは出来ない。

しかし、教育的信念があり、
それが他人と少しでもずれたときには、
色々な誤解や反発が生じます。

誤解や反発を避けて、
信念を曲げてはいけません。

でも、
昨日の自分の教育哲学と
今日の自分の教育哲学は多少違うこともあって良い。
そう思います。

勿論、根幹がぶれるようであってはいけません。

しかし、日々、自らの教育哲学を磨き、
生成発展すると言うことは、
常に変化を伴っていくものだと思います。

昨日まで見えなかったことが見えるようになる。
昨日まで違うと思っていたことが正しいと思えるようになる。
そんなことも成長の中では次々に起こりうることだと思います。

だから、私はこだわって、こだわらない姿勢を
常に大切にしたいと思っています。

全員が、それぞれの出会いと学びの中で、
日々、生成発展されているのですから…。
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言葉のおもしろさ

2010年03月14日 | Weblog
「言葉」というものは
実に面白いものだと思います。

今、バッカーズ寺子屋や
エクスプレッションアカデミーなど
様々な教育プログラムを担当させていただき、
子供から大人までレポートを提出していただいています。

それを読みながら、
たった一枚のレポートであっても、
その人の思いや人となりが伝わってくるものだなぁ
としみじみと実感しています。

また、短いスピーチからも沢山のことが感じられます。

やはり「言葉」は、
誤魔化しが効かないものなのだと思います。

結局は、
自分自身の人間性を磨いていくしかない。
自分自身の思いを深めていくしかない。
自分自身の体験を通じて、
悩み抜きながら、
「借り物でない言葉」を掴み取るしかない。

そんなことを思いました。
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桜咲く

2010年03月10日 | Weblog
現代文を共に学んだ高校三年生の生徒たち、
浪人生の生徒たちの進路が着々と決まっています。

そうした嬉しい知らせには、やはり胸が躍ります。
特に、苦労を重ねての合格には、
心からのおめでとうを言いたくなります。

少しずつかもしれませんが、
自分自身の志を立てて、
自分の進路を掴み取ろうとする若者たちが
増えてきていることを感じます。

そうした若者たちに、
生き方や考え方を確立するためのヒントを
できるかぎり提供してあげられたらと思います。

大人が近視眼的な生き方をしていては、
決して大局観を持った
次の世代の大人たちは育たないだろうと思います。

そのためには、
自分自身が、今という時代の中で、
如何に考え、如何に生きるかを
身を以て実行するしかないのだと思います。
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成長

2010年03月08日 | Weblog
昨日、バッカーズ寺子屋五期生の
スピーチコンテストが終わりました。

テーマは「日本の未来」。
同じ切り口は一つもなく、
自分でしっかりと考えたスピーチは、
本当に素晴らしかったと思います。

考えること、発信することを大切にした学びの場は、
本当に人間を大きく成長させていくのだと実感しています。


また、一昨日は、
エクスプレッションスクール雙葉の卒塾式でした。
これまた、素晴らしい成長を
塾生の皆さんは見せてくれました。


今、私たちが創っている教育の形は、
日本の未来にとって、
きっと大きな意味を持つことになるのだろうと思います。

まだ、理屈では上手く言えませんし、
理論的にも整理されていませんが、

長年、教壇に立ってきても
決して経験できなかった手応えを、
今、私たちは感じているのです。

しかし、自己満足で終わってはいけないと思います。

私たちが創ってきた教育を、
その思いや哲学と一緒に、
志ある人に手渡していけたらと思っています。


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失敗に学ぶ

2010年03月04日 | Weblog
私はあまり賢くありません。

だから色々と失敗をしてきました。

また、
色々な事を試行錯誤するのも
嫌いではありませんでしたから、

実験のような感覚で、
それこそ感覚的に
些細なことから大きな事まで、
試してみることが多かったと思います。

そうしていると、
本などで、結果だけを学ぶのではなく、
どうしたらどうなるのかという
因果関係のようなことを、
感覚的につかめるようになってきた気がします。

そして、公式のないことに対して、
あるいは、未知のことに対して、
少しは短い時間で、
答えを出せるようになってきたのではないか
とも思います。

まだまだ試行錯誤は続いています。
答えだけをスマートに手にしたい人たちから見れば、
愚か者の極みだと言われるに違いありません。

それほど、私は、迷い、考え、疑い、学び、
時間をかけて、一つの道筋を見出していくことしかできません。

なんでそんなこともできないのだろう?
もっと他にやることがあるんじゃないか?
もっと効率よくやれるのでは?

しかし、私は「納得」をしたいと思っています。
これまで納得せずにやってきたことは、
最終的にはどうもうまくいかなかったように思います。

だから、子どもたちにも
沢山の失敗を経験してもらいたいと思います。

なぜなら、
失敗から学ぶ事も沢山ありますし、

失敗するか成功するかという前に、
試行錯誤すること自体が
大きな学びになっていると思うからです。

それは、すぐには役に立たないけれども、
自分の中の底の方に少しずつ沈殿していって、
いつか大きな役に立つような、
そんなものだと思います。

色々な批判もあると思います。
しかし、残念ながら、
私には私の方法でしか教育はできない。

今の自分で良しとしている訳では
決してありません。
また、多くの方々の叡智に学ばせていただき、
より良い方法を見出したいと思っています。

しかし、
何日も、朝から晩まで勉強して、

たった四十五分の授業に打ち込むようなことや、
形もなく一瞬にして消えていくような
心の交流に命を注ぎ込むようなことは、
まだまだ続くのだと思います。

要領の悪い愚か者ではありますが、
心を込めてやっていこうと思っています。
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習慣としての教育

2010年03月02日 | Weblog
例えば、

日々の食生活を始め、
あらゆる生活環境が極めて良くない状態で、
発育も悪く、骨も脆い、華奢な子どもがいたとします。
そして、この子が学校の体育祭で運悪く骨折をしてしまった。

さて、この問題の本質はどこにあるのでしょうか?

今日、多くの親たちは、
学校の体育祭の在り方が問題だと言うでしょう。
安全管理はどうなっているのだと。

しかし、そうではない。
日々の習慣によって、
骨が脆い状態を作っていたところに、
問題の本質があるのだと私は思います。

学校の体育祭でなくとも、
家庭でのキャンプや登山などでも、
こうしたことは起こりえたはずです。

たまたまそれが学校で起きたから、
学校を責めたくなる。

その気持ちは、
決してわからないものではありません。

なぜなら、
そうした習慣になってしまったことへの
後ろめたさのような感情は、
たとえ相手への攻撃という形であっても、
発散されなければ、
心に抱えきれなくなるからです。

自分への攻撃はしたくない。
自分の非を認めたくはない。
自分の習慣を変えたくはない。

そんな大人のエゴが子どもを追い詰めていきます。

いや、エゴと言ってはかわいそうなのかもしれません。
親としては、深い深い悩みなのですから。

しかし、親自身が、
そのことに真剣に向き合わない限りは、
子どもの良い変化は、
決して生まれないものだと思います。

真剣に悩まなければならないけれど、
悩まなくて良いのです。
明るく元気であることが、
何よりも家庭にとっての特効薬だし、
正直に真っ直ぐに課題に向き合っていけば、
必ず道は開けてくるものだと私は思います。








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教育力

2010年03月01日 | Weblog
教育に携わる者は、
己の教育力を過信してはならないと思います。

なぜなら、人は、
24時間、365日の時間の中で、
様々な情報に触れ、
それを五感で感じ取り、
また、様々な人たちと出会い、
お互いに影響し合いながら成長していくからです。

更に言えば、その影響を与えるものは、
この世から姿を消した人たちの、
思い、考え、意志までもが、
含まれているのだと思います。

そう思えば、
一人の人間の影響力などたかがしれている、
そう思わざるを得ないと思います。

だから、教育に携わる者は、
己の教育力を決して過信してはならない。


しかし、一方で、
教育に携わる者は、
己の教育力を確信していなければならないと思います。

なぜならば、信念を持たぬ教育が、
多くの人たちへの影響力を持ち得るはずがないからです。

自身の一言、一挙手一投足が、
子どもたちへ大きな影響を与えるのだと、
真心を込めて、信念を持って、
教育に当たらなければならない。
そう思います。

今、歳を重ねて、
多少なりとも確信を持って言えることは、
人間は修行を重ねるほどに、
矛盾したものを内包することができる、
大きな存在なのだと言うことです。

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