株式会社熊平製作所が作成されている『抜萃のつづり その六十七』に掲載していただいた「味噌汁の中の教育」を、色々な方が読んで下さっているようで、とても嬉しく思います。もともとこの原稿は、月刊誌『正論』にエッセイとして寄稿させていただいたものですが、ここに全文を掲載致します。
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見えないものを見ようと努める心が、
今まで見失っていたものをありありと見せてくれることがある。
現代の生活において最も大切にされてきた価値観の一つとして「効率」があげられよう。企業では、どれだけ原料費や人件費を抑え、時間を短縮し、いかに効率よく生産性を高めていくことができたかが、その存続と評価に直結している。
つまり、「効率」こそが企業の生命線であり、善なる価値観なのである。だが、その価値観が私たちの生活の隅々にまで浸透してしまったことで、多くの問題が生じている。
ある時、お母さん方と一緒に子育てについて学んでいて、そのことにふと気がついた。
私はよく、次のような投げかけをお母さん方にする。
「ここに味噌汁Aと味噌汁Bがあります。味噌汁Aは、鰹や昆布でダシをとり、味噌漉しで味噌を濾し、豆腐を賽の目に切り、ネギを刻み、木のお椀に注いだもの。つまり、「手作りの味噌汁」です。
味噌汁Bはコンビニで買ってきた「カップ入りの味噌汁」で、だし入りの味噌、フリーズドライの豆腐とネギが入っていて、発泡スチロールのカップのままいただきます。とても便利ですね。
私たちがこの二つの味噌汁から、それぞれ「得ているもの」「失っているもの」を、思いつく限りたくさん書き出してみて下さい。」
そして、それを表に書き出し、両者の違いをまじまじと眺めてみるのである。
当然のことながら、味噌汁Bでは、「時間を得ている。」という答えが圧倒的に多く出される。そして「安定した味」「お湯さえあればどこででも食べることができる便利さ」といった答えがその後に続く。しかし、インスタントの味噌汁Bで得られるものについての意見は、参加者全員で知恵を絞ってもあまり出てこない。
一方、「では、味噌汁Bで失われているものは?」という私の問いかけには、多くの答えが出される。参加者からは、まず、「それは、手作りの味噌汁Aで得られるものと同じですね。こんなにたくさんAで得られる物があったんですね。」という答えが返ってくる。この時点で参加者たちは、味噌汁Aで得ていたものが味噌汁Bでは失われ、味噌汁Bで得ていたものが味噌汁Aでは失われているという構造になっていることに気づく。
では、お母さん方が二つの味噌汁の比較表を作ってみて目の当たりにした、手軽さの代償として失ったものー私たちが「時間」を得るために失ったものーとは何であったのか。
それは、「手作りならではの美味しさ。新鮮な食材を使うことから得られる安全。目の前でしかも家族が作っていることからくる安心感。家族の健康。美味しい物、体によい物を食べさせてあげたいという愛情。作ってくれてありがとうという感謝の気持ち。馥郁たる味噌の香り。包丁の使い方。目分量する感覚。味噌を入れてたぎらせないよう温度を見切る感覚。木の器から伝わるぬくもり。木の器の美しさ。その家庭独自の味。新鮮な豆腐の白とネギの緑の色合いの鮮やかさ。追加で入れる旬の食材。子どもに手伝わせて得られる親子の会話。「今日の味噌汁美味しいね。」「ちょっと味が濃すぎるよ。」「今日は具に何を入れたの?」といった何気ない家族の会話。・・・」まだまだ無数にあげられる。
特に、ある会場で、「 手作りの味噌汁で得られる物は、豆腐を切る時にまな板を叩くトントントンという音。ネギを刻む時の音と香り。」と言われたときには、予想外の意見だったので、頭を殴られたような衝撃を受けたことを覚えている。
たがが一杯の味噌汁ではあるが、よくよく見てみれば、こんなにも多くのものを私たちは「いただいて」いたのである。味覚のみならず、視覚・聴覚・嗅覚・触覚の五感を通して実に多くの「豊かさ」を享受していた。
そして…、失ったのである。
失ったものは、文化であり、自然であり、愛情であり、感謝であり、心を通わせる会話であった。それらはみな、今日の「教育」に欠けているとされるものばかりではないか。
教育とは「手間暇」のことである。損得を度外視し、時間や愛情や知識や知恵を惜しげもなく与え続けていくことが教育だと私は思う。「手塩にかけて育てる」と言うが、「手間暇」をかけない本物の教育などあろうはずがない。「効率」を金科玉条とし、「手間暇」をかけることを生活のあらゆる場面から捨て去っておいて、ーつまり、「教育的なるもの」を私たち一人ひとりが日々の生活の場から捨て去っておいてー、私たちは「教育が悪くなった。」と大合唱し続ける愚を犯しているのではないだろうか。
一杯の味噌汁からさえ、私たちはかくもたくさんの教育的価値を失ってきたのである。それを直視せぬ教育改革の議論など、手作りの味噌汁の湯気ほどの価値も持たぬことに私たちはそろそろ気づくべきではないだろうか。
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見えないものを見ようと努める心が、
今まで見失っていたものをありありと見せてくれることがある。
現代の生活において最も大切にされてきた価値観の一つとして「効率」があげられよう。企業では、どれだけ原料費や人件費を抑え、時間を短縮し、いかに効率よく生産性を高めていくことができたかが、その存続と評価に直結している。
つまり、「効率」こそが企業の生命線であり、善なる価値観なのである。だが、その価値観が私たちの生活の隅々にまで浸透してしまったことで、多くの問題が生じている。
ある時、お母さん方と一緒に子育てについて学んでいて、そのことにふと気がついた。
私はよく、次のような投げかけをお母さん方にする。
「ここに味噌汁Aと味噌汁Bがあります。味噌汁Aは、鰹や昆布でダシをとり、味噌漉しで味噌を濾し、豆腐を賽の目に切り、ネギを刻み、木のお椀に注いだもの。つまり、「手作りの味噌汁」です。
味噌汁Bはコンビニで買ってきた「カップ入りの味噌汁」で、だし入りの味噌、フリーズドライの豆腐とネギが入っていて、発泡スチロールのカップのままいただきます。とても便利ですね。
私たちがこの二つの味噌汁から、それぞれ「得ているもの」「失っているもの」を、思いつく限りたくさん書き出してみて下さい。」
そして、それを表に書き出し、両者の違いをまじまじと眺めてみるのである。
当然のことながら、味噌汁Bでは、「時間を得ている。」という答えが圧倒的に多く出される。そして「安定した味」「お湯さえあればどこででも食べることができる便利さ」といった答えがその後に続く。しかし、インスタントの味噌汁Bで得られるものについての意見は、参加者全員で知恵を絞ってもあまり出てこない。
一方、「では、味噌汁Bで失われているものは?」という私の問いかけには、多くの答えが出される。参加者からは、まず、「それは、手作りの味噌汁Aで得られるものと同じですね。こんなにたくさんAで得られる物があったんですね。」という答えが返ってくる。この時点で参加者たちは、味噌汁Aで得ていたものが味噌汁Bでは失われ、味噌汁Bで得ていたものが味噌汁Aでは失われているという構造になっていることに気づく。
では、お母さん方が二つの味噌汁の比較表を作ってみて目の当たりにした、手軽さの代償として失ったものー私たちが「時間」を得るために失ったものーとは何であったのか。
それは、「手作りならではの美味しさ。新鮮な食材を使うことから得られる安全。目の前でしかも家族が作っていることからくる安心感。家族の健康。美味しい物、体によい物を食べさせてあげたいという愛情。作ってくれてありがとうという感謝の気持ち。馥郁たる味噌の香り。包丁の使い方。目分量する感覚。味噌を入れてたぎらせないよう温度を見切る感覚。木の器から伝わるぬくもり。木の器の美しさ。その家庭独自の味。新鮮な豆腐の白とネギの緑の色合いの鮮やかさ。追加で入れる旬の食材。子どもに手伝わせて得られる親子の会話。「今日の味噌汁美味しいね。」「ちょっと味が濃すぎるよ。」「今日は具に何を入れたの?」といった何気ない家族の会話。・・・」まだまだ無数にあげられる。
特に、ある会場で、「 手作りの味噌汁で得られる物は、豆腐を切る時にまな板を叩くトントントンという音。ネギを刻む時の音と香り。」と言われたときには、予想外の意見だったので、頭を殴られたような衝撃を受けたことを覚えている。
たがが一杯の味噌汁ではあるが、よくよく見てみれば、こんなにも多くのものを私たちは「いただいて」いたのである。味覚のみならず、視覚・聴覚・嗅覚・触覚の五感を通して実に多くの「豊かさ」を享受していた。
そして…、失ったのである。
失ったものは、文化であり、自然であり、愛情であり、感謝であり、心を通わせる会話であった。それらはみな、今日の「教育」に欠けているとされるものばかりではないか。
教育とは「手間暇」のことである。損得を度外視し、時間や愛情や知識や知恵を惜しげもなく与え続けていくことが教育だと私は思う。「手塩にかけて育てる」と言うが、「手間暇」をかけない本物の教育などあろうはずがない。「効率」を金科玉条とし、「手間暇」をかけることを生活のあらゆる場面から捨て去っておいて、ーつまり、「教育的なるもの」を私たち一人ひとりが日々の生活の場から捨て去っておいてー、私たちは「教育が悪くなった。」と大合唱し続ける愚を犯しているのではないだろうか。
一杯の味噌汁からさえ、私たちはかくもたくさんの教育的価値を失ってきたのである。それを直視せぬ教育改革の議論など、手作りの味噌汁の湯気ほどの価値も持たぬことに私たちはそろそろ気づくべきではないだろうか。