Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

感謝と共に

2024年12月30日 | Weblog

バッカーズ寺子屋の足立美術館への研修を終えて、福岡に舞い戻ってきました。

今年も多くの方々に支えていただき、活動を続けることが出来ました。

本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。

2024年もあとわずかで終了いたします。

また新しい歳神様がやってこられます。

2025年は更に充実した一年になるよう全力を尽くします。

夢や志の持つ力を、

「志の教育」が大切だと言う私自身が証明しなければ嘘になります。

結果を出します。形に遺します。そのために考え、行動していきます。

これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

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虚無との戦い

2024年12月25日 | Weblog

2024年の日本の出生数がついに70万人を下回りました。日本は滅びてしまうのかもしれません。日本人がいなくなれば、日本という国も滅びていくのが道理です。

子育て世代にお金を出そうという施策ばかりが目につきますが、お金の問題だけなら、戦後、焼け野原になって、本当に貧しかった中で、子どもが生まれるはずがありません。

「希望」。この有無が問題の本質ではないかと思います。

ミヒャエル・エンデの「ネバーエ ンディング ストーリー」では、おとぎの国ファンタージェンが「虚無」によって滅びていきます。人々が希望を失い虚無に支配され、国が滅びていったのです。

国民から税金を吸い上げて再分配するシステム、変わることなくいじめ・不登校を量産し続ける学校教育制度、既得権益の維持と保身しか考えない官僚や政治家、その間隙を縫って、国家を弱体化させる法案を通していく人々、そうしたものにうんざりした結果、未来に希望が持てなくなったことが、少子化や日本衰退の最も大きな要因なのではないかと思います。

他人の批判をしたところで何も変わりませんから、私は私なりに、希望の持てる教育を行い、希望を持った若者たちを育てていきたいと思います。否、そんな「育てる」などと言うおこがましいことは私にはできませんから、共に未来に希望が持てる教育を生み出すために子どもたち、大人たちと共に学んで行くことに全力を尽くしたいと思います。

せめて私は、私の心の中にある、「未来の子どもたちのため」「社会のため」という感覚を守り抜きたいと思います。

ファンタージェンが復活したのは、子どもたちが「希望」を取り戻したからであって、お金が増えたからではありませんでした。

私利私欲に負けない人格形成が今ほど求められている時代はないように感じています。

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アップデート

2024年12月19日 | Weblog

企業研修やバッカーズ九州寺子屋の合宿その他で、すっかり更新が滞ってしまいました。メルマガのリリースも遅れています。慌ただしい師走というわけではありませんが、自分の処理能力の低さに歯がゆい思いをいつもさせられています。

とにかく私は教育をできれば良いと思っているような人間です。ということは、自分が学び続けられたら良いという人間でもあります。ただし、その学んだことが、世の中のため、未来の子どもたちのために還元されていくようなものでなければならないと思っています。

一人でも多くの方にこの教育を理解していただけたら良いと願いつつも、一切の妥協はしたくないと思う自分もいます。後者であることは、自ずと理解者を狭めているのだろうとは思います。

しかし、知名度を上げんとの下心を持った教育が、本物になり得るとも思えないのです。

 

 

 

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大河の一滴

2024年12月09日 | Weblog

少し古い情報ですが、文科省の発表によれば、昨年度の小中学校のいじめ件数は73万2568件とのこと。そのうち自殺や不登校につながる「重大事態」は1306件。小中学校の不登校は34万6482人で前年より15.9%増。小学校の不登校は13万370人、中学校は21万6112人。高校でも不登校は68,770人。「不登校への理解が広がったことで、無理に学校に行かせなくても良いと考える保護者が増えた」ことなどから件数が増えたと文科省は説明しています。

これだけ実績が出ず、業績の改善がなければ、会社であれば当然誰かが責任を取って辞任する事態だと思います。しかしながら、文科省の説明によれば、学校なんか無理に行かなくてもいい程度の場所のようです。終わってるなと思います。そんな場所なら、学校に縛り付けず、もっと自由に選択させたら良いと思います。悲しいことですが、誰も責任を持ってこの国の人財育成をする気はないようです。

文部科学省のメルマガを私も読んでいるのですが、書いてあるのは、ロケット打ち上げなど科学に関すること、審議会に関すること、委員会開催に関すること、文部科学大臣がどこそこで挨拶をしたということ、文化的事業に関すること、そうした記事ばかりです。

しかし、それは当然のことで、文化も科学も含んだ行政府なのですから、予算額も小さく、各都道府県市町村に任せている教育のことなど、ほとんど無いのが道理です。ましてや教育的信念に基づくアドバイスなどは望むべくもありません。

しかし、必要とされているのは、一人の子どもの悩みや、一人の親の悩みをどのように解決していけば良いのかであり、劣化していく日本の人材をどのように育成していくかということを解決する、具体的教育実践です。

私は勝手にやらせてもらいます。なぜなら、子どもたちが子どもである時間は短く、二度と戻らない限られた大切なものだからです。

いったいどうなっているのだろうかとは思いますが、ただ批判をするのではなく、私はとにかく、子どもたちとも親御さんたちとも、共に学び合い、高め合える場を作り続けます。そこに全力を尽くします。市井の一教師に出来ることはそれだけです。大河の一滴にしかなりませんが、他に為す術はありません。

 

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負荷をかけ続ける

2024年12月09日 | Weblog

私は東京と福岡の間を最低でも月2回は往復しています。それ以外にも全国各地に講演や研修にお邪魔することがあります。

キャリーバックはいつも20㎏を超えるので、手にはキャリーバックだこ?ができています。ゴルフもテニスも野球もしませんから、キャリーバック以外に手のひらにたこができるようなことは何一つしてはいません。

また、萩往還道を萩の涙松から山口市の瑠璃光寺五重塔まで約36㎞を1日で歩く研修を、最低でも年に5回はやっています。勿論、私も歩いています。

講演・研修のための準備や下調べなども沢山ありますから、「大変ですね」と声をかけていただくこともあます。しかし、体に負荷をかけ、頭に負荷をかけることで、私はまだまだ気力体力共に充実しています。有り難いことです。

もう62歳になりましたが、これからも日本の未来のためにやりたいことが沢山あります。毎日が楽しく充実しています。

できるだけ楽に楽にと思っていたら、筋肉も脳も衰えていたかもしれません。勿論、個人差があり、人それぞれの価値観で生きているわけですから、「かくあらねば」などというつもりは毛頭ありません。自分の好きなように生きていけば良いと思いますし、人間は自分の習慣とそこから身についた価値観を脱することはなかなか難しいことだと思うからです。

しかし、他人のために力を尽くすことが損をすることだなどとは、これっぽっちも思わない人間でありたいと思いますし、自分が楽をするためにどうしたら良いかなどと考えたり、無駄な時間でしかない陰口や他人の噂話などとは無縁の人間でありたいと思います。

その時間は何も生み出すことの出来ない時間だからです。

人生には限りがあります。どのような人生にするかは自分が決めるしかないと思います。今日の私は何をするのか?

YouTubeを見たり、ネットサーフィンをしたり、ゲームをしたり、居眠りをしたりして、だらだら過ごしていても、1日は過ぎていきます。それを楽ができて得をしたと思うのも良いかも知れません。

しかし、人生の中で得られる、他人からの信頼や尊敬や感謝や、自分の中での誇りや自尊心や忍耐力といったものは、ひとつも手にすることはできません。

それもまた自分で選んだことですから、それは仕方のないことだとは思います。

ただ、私は溶けていく日本を何とかしたいと思っています。日本という国の素晴らしさを、未来の子どもたちに遺したいと思います。

私に出来ることは、自分に負荷をかけ続け、自分の言葉に信念を宿らせることぐらいです。そして、尊敬する人たちから少しでも学ぶべきことを吸収し、ささやかであったとしても、世の中に発信していくことぐらいです。

一人でも共鳴して下さる方と出会えたら望外の喜びです。

他人を変えることなど私には出来ませんから、せめて自分だけは、自分の望む自分になるように鍛え続けたいと思います。

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読書の難しさ

2024年12月06日 | Weblog

読書の難しさは色々とあります。

まず、日頃から、読書嫌いの人に、良かれと思って本を勧めても、読みたくないものは頭に入りにくいということです。読書そのものが嫌いという人は、そうした機会でもなければ、そもそも本を読むこともないわけですが、勧めるべきか、勧めざるべきか。難しい問題です。

次に、読書が好きで多くの本を読んでいる、ということは良いのですが、そうした人は私も含めて、読む本の傾向が偏りがちだということです。人間は、聞きたいことを聞きたいように聞き、見たいことを見たいように見ることしかできない。とはよく言われることですが、偏りを避けるべきか、避けずに強みとするかは、人によって判断が異なり、これもまた難しい問題です。

結局、自分の判断に委ねるしかないと言ってしまえば、身も蓋もなくなるわけで、実に悩ましく思います。文部科学省やPTAも、子どもたちへの「推薦図書」などを決めているようですが、本当は、まず大人から推薦図書を決めて読むべきなのかも知れません。ただ、それをやると思想信条の自由に反するとか、押しつけられただとか、猛反発を喰らいそうな予感がします。

しかし、本を読みもしない大人たちが、偉そうに子どもたちにこれを読みなさいと言っても、通じないのではないかとも思います。だから、まずは自分がやってみせるというのが、教育の基本だと私は思います。

答えは出ませんが、とにかく悩ましい問題であることだけは確かなようです。

 

 

 

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世の中は公平

2024年12月05日 | Weblog

ちょっとしたことで、噓や誤魔化しはわかってしまうものです。自分ではうまく取り繕っていると思っても、それは無駄なことです。「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉の通りだと思います。だから、小さな嘘もつかないことです。それでは、信用という大きな財産を失ってしまうからです。そうした道理が分かるようになる人もいれば、分からぬままに人生を終える人もいると感じます。世の中は思いの外、実に公平なのだと思います。

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人財育成の本道

2024年12月04日 | Weblog

人財育成に関して、様々な研究や学説や言説があります。私はHow toの人財育成は好みません。なぜなら、人間というものは、そんなに単純なものではないと思っているからです。一時的に意識が向上して上手くいったとしても、それが継続しなければ、元に戻っていくだけでしょうし、カンフル注射のようなものでは、長続きしないと思います。

北大路魯山人の言葉の通り、「立派な人間は立派な仕事をする。下らない人間は下らない仕事をする。」というのが、「確定的」な事実だと思います。

精神修養というものは地道なものだと思います。また、教養を身につけていくことも一朝一夕ではできないものです。教養があり、人間として修養が積まれた人の言葉や表情や顔つきは、素晴らしいものになり、どんな場面でも、同じように人に接していくことが出来るものだと思います。スキルとして学んだものは、どこかでボロが出てしまうものだと思います。

本物のように振る舞うスキルを習得するのではなく、教養や修養を経た本物の人間にならなければ、意味がないと思います。実際に、過去の偉大な人物たちが、そのようなHow toの学びによってその位置に至ったことはあまりないだろうと思います。

「子曰く、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。」(孔子が言った。君子と言われる人物は、義=道理にかなった正しいこと に敏感であり、小人は利益に敏感である。)

「子曰く、君子はこれを己に求む。小人はこれを人に求む。」(孔子が言った。君子と言われる人物は、全てを自分に求め、自分を責めるが、小人は全てを他人に求め、責任を他人に求めるものだ。)

※君子=学問も道徳性も共に優れた人。※小人=学問はあるが道徳性のない人。

紀元前に孔子が語ったこの言葉を、2000年以上かけても身につけることが出来ないのが私たち人間の姿です。付け焼き刃のような教育でなんとかできるものではないと思います。

 

補記

萩駅舎で維新のリーダーたちの顔を拝見してきました。実に引き締まった、一身を賭して、国家を背負っていく気概にあふれた顔つきだと感じました。こうした顔つきのリーダーが、今の政治の世界にどれだけいるだろうかと思ってしまいました。

 

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親の心配・子の不安

2024年12月04日 | Weblog

親御さんが子どもを心配する気持ちはよくわかります。しかし、その心配が子どもの不安な心を生み出したり、その過保護が子どもの自立心を損なったりするということも、ままあることです。

叱ることや褒めることをもって、教育をしている気になりがちですが、褒めようが叱ろうが、それは手段であって目的ではありません。

いずれにしてもバランスと目的意識が大切で、自分は子どもに何を伝えたいのか。どうなってほしいのか。よくよく考えておかなければならないことだと思います。

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恵まれていることに気づく

2024年12月03日 | Weblog

富士山も自分の立っている位置からしか見ることはできません。

世の中もやはり自分の立っている位置からしか見ることは出来ないのだと思います。

正しいか正しくないかではなく、良いか悪いかでもなく、

ただ自分の立っている場所で、それぞれが力を尽くしていくしかないのだと思います。

批判をしたり、誹謗中傷したりしていても何も変わりはしないのです。

私は私の与えられた場での教育に全力を尽くします。ただ、それだけです。

一つ言えることは、学校の先生は、校舎があって、教科書があって、生徒が目の前にいてと、恵まれた環境にいます。

自分一人で世間を相手にして、「私が数学を教えます」「私が国語を教えます」と言って、

いったい何人の人が学びに来てくれるでしょうか。

教室を借りるのにも家賃、光熱費、コピー機リース代、コピー代、用紙代、様々な費用が必要となります。

また、机や椅子やホワイトボード、プロジェクター、パソコン、色々なものが必要です。

自分の給与やスタッフへの給与も支払う必要があります。

20人の生徒から、一人月額2万円を集めたとして、売上は40万円です。

教室の家賃が20万だとすれば、残りは20万円しかありません。

それでは経営としては成り立つはずもありません。

そもそもあなたの授業に月額2万円を払う価値を認めて下さる方がどれだけいらっしゃるのかです。

そうした経費がかからない(税金で賄われている)というだけで、学校の先生は大いに恵まれているのです。

だから、私も教員時代、もっと謙虚に、与えられた環境に感謝せねばならなかったと今は思えています。

本当に自分が教えたいこと、教えられることがないのに、

ただ、教科書通り教えることにどれほどの価値があったのだろうかと今は思います。

そんなことに疑問すら持たなかった自分でなくなって本当に良かったと思います。

 

 

 

 

 

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