Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育は言葉と行動

2016年11月29日 | Weblog
教育とは、
つまるところ、
教育する側の言葉と行動だと思います。

教育力を高めたければ、
自分の言葉の力を強くするしかありません。
また、
自分の行動を磨いていくしかないのです。

かく言う私も、
若い頃は全然出来ていませんでした。

だから思います。

若い世代には寛容でありたいと。
そして、
歳と共に益々、
自分自身を厳しく磨いていくだけだと。

それが影響力を持てるかどうかは、
周りの人たちが決めることです。
私の関知するところではありません。

私は、ただ只管に、
努力という名の修業を続けていくだけです。

私のできることは、それしかないからです。



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反響

2016年11月24日 | Weblog
『「志」の教科書』の反響を少しだけ感じています。

本を読んで下さって、
オフィスにお越し頂いたり、
お電話を頂戴したり、
「読みましたよ」という言葉を、
お目にかかった方から頂いたり。
少しずつではありますが、
反響を感じています。

まだまだ時間が必要だとは思います。

でも、いつか多くの人たちが、
私のささやかな思いを受け取って下さり、
日本の教育がより良いものになることを、
私は心から願っています。





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日々、愚鈍に歩む。

2016年11月24日 | Weblog
一つ一つの講演や研修や原稿執筆には、
かなりのエネルギーを注ぎ込みます。

その瞬間に、
何かが生み出されるような
エネルギーを発するためには、

命を削るぐらいの覚悟で、
本気で取り組むしかないと思うからです。

しかし、

実際はそうすることで、
多くのものをいただいているというのが、
本当のところではあります。

ま、単に私の要領が悪く、
愚かだと言ってしまえばそれまでですが(笑)。

愚鈍に戦い続けていくことしか、
私にはできないのですから、
仕方がありません。

きっとそれで良いのだと思います。
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ぬか美ちゃん

2016年11月21日 | Weblog
2011年の11月18日より、
オフィスでぬか漬けを漬けています。
もう五年も経ちました。

名前は「ぬか美」ちゃん。

五歳のお誕生日を過ぎました。

幼い頃に、一度、面倒見が悪くて、
死にかけたこともありましたが、
今ではすっかり丈夫で健康です。

私のささやかな贅沢は、

土鍋で御飯を炊き、
自分で漬けたぬか漬けと、
しっかり出汁をとった
具沢山のお味噌汁をいただくことです。

ランチで会社の皆さんと頂いていますが、
実に美味いものです。

高級なものではありませんが、

日本の文化と伝統、
そして、
先人の叡智を感じることのできる、
豊かな食事です。

嘘誤魔化しのない、
真っ直ぐな美味しさを
私はこよなく愛しています。


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まだまだ力が足りない

2016年11月12日 | Weblog
私の仕事は、
効果のある、魅力的な教育を
創造していく仕事です。

組織の歯車として、
大切な役割を担う仕事ではありません。

その意味で私の存在は、
絶えず不安定なものだとも言えます。

そして、
自分の志を少なからず
果たしていくためには、
私はもっともっと
自分の力を高める必要があります。

ざっと見積もって、
100倍ぐらいにしていく必要がある、
というのが私の偽らざる感覚です。

遠い道のりですが、
その感覚が得られたと言うことは、
少しはものが見えてきたということなのかもしれません。


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アクティブラーニング狂騒曲

2016年11月09日 | Weblog
今朝、住民票を取りに行く用事があって、
二ヶ月ぶりぐらいに、朝、
自宅でテレビのスイッチを入れてみると、
アクティブラーニングについて放送されていた。

どうやら、
アクティブラーニングとは、
学習者が、自分で能動的に学ぶために、
自ら調べ、議論をし、学びを深めていくということのようだった。

しかし、
能動的に主体的に学ぶと言うことは、
それを学ぶ意義がわかっていて、
あるいは、興味があって、
初めて実現できることだ。

また、議論は、
それなりの基礎的な教養や知識が無ければ、
実にくだらないものに陥ってしまうのは自明の理だ。

生徒には学びたくないことや、
面白さをわからないことだって沢山ある。

私にだってある。

例えば、私は「物理」が大の苦手だった、
「物理」のアクティブラーニングをしている
私の姿を想像するだけで、思わず噴き出しそうになる。
きっと、それは、毎晩うなされるような「悪夢」に違いない。

勉強自体がわからないし嫌なのに、
友達とアクティブに学びましょうというのは、
泳げない奴までも海に突き落として、
さぁ、みんな自由に楽しく泳げと言っているのに似ている。
私は物理の海にブクブクと沈んで、魚の餌になるしかない運命だ。

学ぶ意義や面白さがわかって、
初めて人は能動的に学ぶことができる。
それは大人も子供も同じだ。

学ぶ意義や面白ささえ伝えきれないのに、
アクティブに学べるとは思えない。

アクティブに学べることと、学べないことがあるのだ。

どうやらこのまま行くと、
アクティブラーニングを教育界全体が、
受動的に(パッシブに)やらされるという
珍妙な事態が発生しそうである。

「パッシブなアクティブラーニング」という、
笑うに笑えない珍現象が日本の教育界を覆い尽くしていく。

しかし、考えてみれば、ずっとそうだった。

「ゆとり教育」もそう。
「興味・関心」「生きる力」「調べ学習」もそう。

数々のスローガンが掲げられ、
笑うに笑えない事態が起こり、
そしてみんな忘れていった。

そう思えば、今回、また、
新しいスローガンが生まれただけのことだ。

自分の頭で考えずに、
海外の模倣をしようとするから、
そういうことになるのだろう。

その姿勢自体をパッシブだと思わないのが謎である。

「先生はどうしてアクティブラーニングをなさっているのですか?」
「いや。みんながやれって言うから・・・。」

「アクティブラーニングをパッシブにやろう」というのは、
私には悪い冗談としか思えない。

















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オフィスでの夜は更けて

2016年11月08日 | Weblog
2:30を回りました。

学生の皆さんのレポートに
コメントを書き綴っています。

皆さん、本当に素晴らしい成長をされています。
それが嬉しいのです。

心を込めて書いてくれたことに、
心で返さなければと思います。

それほどに深いメッセージです。

寿命を削っていく価値のある仕事、価値のある時間です。

私のような者でも、
少しは他人様のお役に立てた人生であれば、
ご先祖様もきっとお喜びになると思います。

感謝を込めて。
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単純で見えない真実

2016年11月07日 | Weblog
子供は大人の真似をして大人になって行きます。

学ぶとは、真似ぶこと。

だから、次のように言うことが出来ます。

大人に志が無いから、
子供にも志が無いだけです。

大人がいじめをするから、
子供もいじめをするだけです。

子供は大人たちから、
いじめ方を学んでいるのです。

子供たちの姿は、大人の映し鏡でしかありません。

それなのに、
大人たちは、

子供の問題は、
主として学校教育の問題であり、

自分たち大人には関係のないこととして捉えてきました。

だから、いつまでたっても教育問題は解決しないのです。
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教育において大切なこと

2016年11月06日 | Weblog
教育において大切なことは、
失敗から学ぶことです。

大人たちは、
失敗をマイナスにしか捉えようとせず、

できるだけ問題が起きないように、起きないようにと、
心を配り、それが良いことだと勘違いをしてきました。

上っ面を整えたいなら、
それはベストの選択です。

しかし、
教育をしようと思うのなら、
それは、最も愚かな選択でしかありません。

自分で気づく機会を取り上げられるからです。

失敗を許し、失敗に学ぶ環境こそが、
いずれは人を大きく成長させていくと思います。

私の教育は、そのようなものです。


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問題は

2016年11月05日 | Weblog
どうも教育問題の本質は、
尊敬できる大人がいなくなったという所に
あるのかもしれません。

特に、学校において、
それが甚だしくなっているのかもしれません。

厳しい変化の波にさらされる実社会と
独自の価値観が通用する学校の乖離
という問題があるのだと思います。

知識を商品とするのであれば、
社会のスピードの速さに、
学校はついていけないでしょう。

不易なる人間教育を商品とするには、
あまりにも不勉強と浮き世離れが、
大きな問題になります。

知識にせよ、人間教育にせよ、
それが社会で受け入れられるかどうかが大切なことです。

学校という守られた場所を失っても、
自分が教えていることの価値は、
社会に認めてもらえるのかどうか。

その自問自答を繰り返し、
教育者自身が学び続けていくしかないと私は思います。

親の批判をしていても、
先生批判をしていても、
行政批判をしていても、
世の中は何も変わりません。

私は、只管に学び続け、
自分に出来ることをやっていきます。






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