Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

お詫び

2019年12月30日 | Weblog
Vision&Education,Ltd.からの
メールマガジンを
今月は配信できませんでした。
誠に申し訳ありませんでした。
心よりお詫び申し上げます。

言い訳ですが、
オフィスの引越に際して、
12月19日20日と二日がかりで
荷物を搬入したものの、
その後の整理整頓が予想以上のボリュームで、

連日、深夜まで作業して、
本日、ようやく8割方の段ボール箱が
姿を消した感じです。

足立美術館への合宿も26日27日で実施し、
じっくりと机について作業が出来ませんでした。

引越は予想の範囲でしたから、
何とか出そうと途中まで書いてはいたのですが、
予想以上の作業量で発行を断念致しました。

新年からは意を新たにスタート致します。
1月号をお待ちいただければ幸いに存じます。

本年も誠にありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

木村貴志
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とりとめもなく

2019年12月28日 | Weblog
もう一度取り戻してみたい時間があります。
思い出せばとても豊かで温かい時が流れていた、
そんな人生の一場面です。

そう思うと、
人生は時間だと言いながら、

人生は思い出なのかもしれないと
思い始めたりもします。

思い出に残る時間とは、
その時にはそんなに大切だとは
思えていなかったりするものですが、

時を経てふと思い出した時に、
その価値の大きさに気づくような
そんな時間です。

でも、今になって、
それと同じ事をすることは出来ないし、

やってみたとしても、
得られる感覚は、
もうその時とは違うのだろうと思います。

してみると、
過去・現在・未来にまたがる時間と
如何に向き合っていくかが、
人生を如何に豊かなものにするのだろうという、
あまりにもありきたりな答えに行き着きます。

結局、己が心一つという、
あたりまえの結論にしかなりませんが、
自分の心を揺さぶった過去の時間が引き起こしてくれた
とりとめもない思索をちょっと楽しんでみました。
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願い

2019年12月25日 | Weblog
教育とは、
人が幸せに生きていけるように、
知識や知恵や技術、
そして、
生き方や考え方を伝えていく営みだと思います。

幸せの定義が千差万別である以上、
教育の定義も個々人によって千差万別です。

だから、結局のところ、
いわゆる何かを教えるという意味での教育は
出来ないのだと思います。

出来るのは共に学ぶということだけ。

また、何かをやり遂げてきた人が、
その中で掴んできたことを語り伝えていくだけ。

日本の教育界は、
イデオロギー対立に支配された時期があり、
それは不毛であり、不幸でもありました。

私もその世界に身を置く以上、
闘わざるを得ない時期もありました。
そうした論陣を張った時期もありました。

しかし、私にとって、それはもう終わったことです。

今、思うことは、もっと大きな視点で、
何者にも縛られずに教育を考え、
実践していきたいということです。

時代の急速な変化の中で、
本当に人を育てていくことに真剣に取り組み、
その成果を生み出していくだけです。

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Vision&Education,Ltd.事務所移転

2019年12月23日 | Weblog
Vision&Education,Ltd.は、事務所を移転しました。

浄水通エル浄水館のオフィスを
オーナーが取り壊して、
新しいものを作るということが決まり、
移転することとなりました。

オフィスから全てを運び出して、
何もなくなりガランとしたオフィスを眺めていると、
12年前に香椎からここに移ってきたことが
思い起こされました。

本当に沢山の方がこのオフィスを訪れて下さいました。

そう思うと寂しさがこみ上げてきました。
エル浄水館は建物としての使命を終えて取り壊されます。

別れの寂しさとは、
それが物であれ人であれ、
共に過ごした時間の豊かさによって
決まっていくものなのだろうと思いました。

別れとは、共に過ごす時間が、
もうこれからは先に進むことがないということであり、
新しい思い出を共に紡ぐことが出来ないということです。

過去の時間が豊かで有意義なものであればあるほど、
深い感謝がその人や物に対して生じるからこそ、

もう二度と未来に紡ぐことが出来ない時の断絶に、
悲しみを感じるのだと思います。

でも、一つの終わりは、一つの始まりでもあります。

Vision&Education,Ltd.は、
日本の教育をより良いものにするために、
新たな時を紡ぎ始めます。

新しいオフィスは眺めが良く、
機能的なレイアウトで、
これまで以上に仕事がはかどっていくと思います。

年内は落ち着きませんが、
新年になったら、是非、お運び下さい。
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志の教育

2019年12月13日 | Weblog
志の教育には、

自分のためだけという小さな心を乗り越えて、

何とか世のため人のために力を尽くし、
何とか未来の子どもたちに
良き社会を遺していこうという、
公的なものを志向する意志の力が必要だと思います。

そのためには、
まずは自分のこと十分に出来るようになるのは、
当然のことですが、

それ以上の存在にならんとする気迫が、
世の中をより良いものにしていく力になるのだろうと思います。

そうしたことを考え、
世の中のために行動する人が
一人でも増えるように、

志の教育は存在します。


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パンフレット&ポスター完成

2019年12月12日 | Weblog
バッカーズ寺子屋16期生、
バッカーズ九州寺子屋13期生の
募集パンフレットが完成しました。

来年の入塾説明会に向けて告知を開始します。

興味のある方は、
それぞれのホームページから
事務局へお問い合わせください。

まずは、入塾説明会へのご参加を
心よりお待ち申し上げております。



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私は私

2019年12月09日 | Weblog
何でもそうですが、

そこそこの仕事とは、
美しいものではありません。

命がけでやってみたところで、
なかなか大した仕事はできないものだと私は感じています。

だから、

「そこそこでいい」という意識でやれば、
ろくでもない仕事にしかならないのはわかっています。

他人がどうであれ、
私は私の納得する仕事をしてみたいと思います。




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改めて思う

2019年12月09日 | Weblog
教育に「信念」をもって
やっていかなければと思います。

そのためには、
大切なことを考え抜き、
確信を持つしかありません。

それは決して、
知識の受け売りなどで
身につくものではなく、

実践の中から得た手応えだけが、
手がかりとなります。

だから、
学び続け、
行動し続けなければ
得られない質のものです。

信念を持てと言うのではありません。

自分が信念を持つことに全力を尽くすだけです。

その一言が、恐ろしく困難であることを自覚し、
それに立ち向かうと言うことです。

一つ付け加えるなら、

唯我独尊で他を受容しないことと、

幅広い視野を持って、
人々のため何事かを為さんと、
己が信念を持つということは、

本質的に違うということです。







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教育を実業に

2019年12月06日 | Weblog
教師は、
自分で商品を開発し発明したことも、
文学作品を世に生み出したこともないのに、
色々な事を子どもたちに「教える」と称してやっています。

しかし、本当の意味で教えることができるのは、
自分が額に汗してやってきたことだけです。

医者は命を救う術とその大切さを、
料理人は美味しい料理とそれを作る心を。

ホテリエは素晴らしいサービスとその精神を、
陶芸家は素晴らしい作品と芸術家の精神を、
他人に対して語ることが出来ます。

建築家も、看護師も、弁護士も、パティシエも、
タクシードライバーも、
農業、漁業、林業に従事する人も、
車を作っている人もみんなそうです。

やっていること、生み出していることがあり、
地に足の着いた生き方をしています。

教師として、世の中のことや、
そうした人たちのことを語るばかりでは、
他人の褌で相撲をとっているとの誹りを
免れないのかもしれません。

マスコミも同じです。
自分でやっていないことを教員は教え、
自分でやっていないことをマスコミは報じているという、
それだけの違いです。

たしかに「教育」や「報道」をやっているのだとも言えますし、
そこに沢山の困難や苦労があることも事実です。
熱心に仕事をしている人たちも多いのはわかっています。

しかし、それでも、どうしても「実業」の匂いは
薄いように思えてなりません。

他人のことを批判しているのではありません。
私自身のことを考えているのです。

だから、駄目だというのではなく、
何も生みだしていない自分と向き合い、
謙虚な気持ちで、共に学んでいくしか道はないのだ
という思いを共有していくしかないのではないかと思うのです。

偉そうにしていてはいけないのです。

そして、自分にしか出来ないものを、
いつの日にか生みだしていこうと思います。

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偉大な人の死

2019年12月04日 | Weblog
中村哲医師が亡くなられました。
直接お目にかかったことはありませんが、
高校の先輩であり尊敬すべき高く仰ぎ見る存在でした。

無念だったと思いますし、
理不尽に命を奪われたことを残念に思います。
心からお悔やみ申し上げます。

ふと、吉田松陰の「留魂録」を思い出しました。

全ての人生は未完のままに終わるのだと思いました。

30年の人生もあれば、100年の人生もある。
10年の人生もあれば、50年の人生もある。
その全ては、未完に終わった人生なのかもしれません。
そして、それは、完成した人生なのかもしれません。

「吾れ行年三十。一事成ることなくして死して、禾稼のいまだ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。しかれども義卿の身をもつていへば、これまた秀実のときなり、何ぞかならずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし。禾稼のかならず四時を経るごときにあらず。十歳にして死する者は十歳中おのづから四時あり。二十はおのづから二十の四時あり。三十はおのづから三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の四時あり。十歳をもつて短しとするは、蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳をもつて長しとするは、霊椿をして蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時すでにそなはる、また秀でまた実る。その秕しひなたるとその粟たると、わが知るところにあらず。もし同志の士、その微衷をあわれみ継紹の人あらば、すなはち後来の種子いまだ絶えず、おのづから禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志それ、これを考思せよ。」(吉田松陰先生「留魂録」一部)

長い人は長いなりに、
短い人は短いなりに、人生の四季がある。
それぞれに天命があり、寿命がある。

その人生が、
中身の詰まった米粒だったのか、
空っぽの籾殻であったのか、
それは、私の知るところでは無い。

もし、私の人生を憐れんで、
その志を継いでくれる人が出てきてくれたら、
穀物の種子が絶えないで、
次から次へと代々、受け継がれることになっていく。

同士の皆さんは、そのことをよく考えて欲しい。

人生を全力で生き抜いた人は、
最期の時に同じような思いを持つのではないでしょうか。

そんなことをしみじみと思いました。


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