Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

バッカーズ九州寺子屋スピーチコンテスト

2011年02月27日 | Weblog
バッカーズ九州寺子屋の
第二回スピーチコンテストが終わりました。

本当にみなさんの成長に感動しました!!

今回は、
賞をとってもおかしくない塾生たちが沢山いました。
それだけハイレベルのコンテストでした。

入賞した塾生たちは勿論素晴らしかったのですが、
入賞できなかった皆さんも本当に素晴らしかった。

心からそう思います。

そして、
入賞できなかった塾生のみんなの悔しそうな顔が
私にはとても嬉しく思えました。

なぜか?

それは、
それだけこのコンテストに真剣に取り組んでくれたということだし、
それだけ負けたくないという思いがあったということだし、
それだけ自分のスピーチに自負があったということだからです。

そうした思いを持つと言うことが、
とても大切なことなのです。

そのことに私は何より大きな手応えと喜びを感じました。

みんなはもっと素直に感情を表現したり、
わからないことをわからないと言ったり、
素直で伸びやかに話して良いのです。

悔しいことは素直に悔しいと言って良いのです。

そのまっすぐな思いが、
自分を大きく成長させてくれるのです。

皆さんの将来が輝かしいものになることを確信した
今日のスピーチコンテストでした。

みなさん本当にお疲れ様でした!







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進歩とは?

2011年02月24日 | Weblog
カップラーメンを食べた。

めん(小麦粉、食塩、卵粉、糖類、大豆食物繊維)
味付け豚肉、ポークエキス、えびエキス、味付けメンマ、
豚脂、蛋白加水分解物、植物油、食塩、澱粉、
ごま、えび、香辛料、ねぎ、砂糖、加工澱粉、
調味料(アミノ酸等)、レシチン、酒精、
増粘多糖類、かんすい、炭酸カルシウム、カラメル色素、
酸化防止剤(ビタミンE、ローズマリー抽出物)、クチナシ色素、
紅麹色素、ビタミンB2、ビタミンB1、
原材料の一部に乳成分、鶏肉、りんご、ゼラチンを含む。

という複雑な食べ物だった。

何十年にもわたって積み重ねられた研究の成果、技術開発の結果であろう。
美味しいような気も多少はしたが、後味が妙にべとべとしていた。

お茶を飲み、
口直しのつもりで、
残っていた冷や飯をおむすびにして食べた。
自然塩だけを使って握った。

美味しかった。
すっきりした澄んだ味だった。
噛みしめるほどに甘く豊かな味だった。

人間は一体は何を目指して来たのだろうか?
熱心な科学技術によって生み出されたものは、
果たして本物に近づいたと言えるのだろうか?

また、作る者の食べる者への愛情は深くなったのだろうか?
食は、より人々を幸せで豊かにする存在へと進歩してきたのだろうか?

確かにあらゆるものは複雑になり高度になったが、
それを果たして人類の進歩だと言って良いのだろうか?

私たちは、哀しいことに、本当の意味で、
何を食べているのかさえも
わからなくなってしまったではないか。

人間不在の科学技術、人間不在の研究、人間不在の教育を私はあまり信用しない。
人々のためになってこその学問だと信ずるからである。
目先の損得ではなく、
何世代もの先の子孫への慮りがあることが、
人としての真心であり、思いやるということだと思う。

最初の思いを私たちは忘却の彼方に追いやってはいないだろうか?
最初の思いとは何か?
それは「人々を幸せにしたい」という、
祈りにも似た純粋な願いである。

その本質を見失ってはいけないのである。
どんなにすごい発明や技術であったとしても、
偽物を積み重ねていくことで、
本物に近づこうとするのは間違っていると思う。

単純と笑われていても良いから、
私はおむすびを握り続けようと思う。
質素であっても、本物の味を大切にしたいと思う。

ふと気がついたときに、
己の矛盾に立ちすくむような、
そんな学問や教育は、
生き方として、
したくはないのである。










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祈り

2011年02月20日 | Weblog
どうしても大局的視点に立てない人がいます。
二項の対立の枠組みでしか
物事を見ることができない人たちがいます。

しかし、組織や社会を進化させていくためには、
それを乗り越えていくしか道はないと思います。

感情的にならず、
粘り強く、
事実に基づいた議論をし、
あきらめないことが大切だと思います。

二項対立に陥っているときには、
往々にして、
他者との会話が成立しなくなっています。
そして、臆測やうわさ話の類が、
まことしやかに仲間内だけで話され、
それがいつの間にか既成事実として、
一人歩きをしていきます。

そんな人間の性を乗り越えていくために、
自分にできることは何か?

自分自身を高めていくことだけ。
そして、
祈ることだけなのかもしれません。

しかし、改革への意志を持たぬ祈りは、
他力本願の誹りを免れないと思います。

一歩一歩、行動あるのみ。
信念を持って、
歩き続けるのみ。
そう思っています。
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時の重み

2011年02月19日 | Weblog
今日は、バッカーズ寺子屋の保護者会でした。
沢山の方にご参加いただき、
沢山の思いに触れさせていただくことができました。

とても豊かで充実した時間を
過ごさせていただいたことに
心から感謝申し上げます。

教育現場の中で、
これほど温かく、
また、心のこもった保護者の皆様との交流の場は、
まずあり得ないと思いました。

その場面に立ち会わせていただいていることを、
心から誇りに思い、また、本当に嬉しく思っています。

思えば、この寺子屋の計画がスタートしたのが7年前。

今日は、その重みと手応えが、
ずっしりと感じられた3時間でした。

なぜか?
それはよくは分かりません。

しかし、言えることは、
確かな時間の積み重ねが、
そうした目に見えないものを生み出すのだろうということです。

この事業を始めようと思い立たれた経営者の皆様に、
改めて深い敬意と感謝の念を表したいと思います。





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2011年02月18日 | Weblog
化学調味料、食品添加物、ポストハーベスト、
まぁ、今日の食は、惨憺たることになっていると思う。

魚の干物だって、
天日で干したものではなく、
温風で乾燥させたものが主流を占めている。

安価な本物は、
一体どこに行ったのだろうと嘆きたくなる。

和食の基本のダシにしても、
化学調味料だらけである。

沢山の食品メーカーは、
最初は、安く、本物に近づけて、
大勢の人たちの食卓を豊かにしようと考えたのだとは思う。
それはそれで良い考えだと思う。

しかし、今や、その志とは、
はるかにずれた地点にまで来てしまったのではないか。
ふと気がつけば、
グロテスクな正体を、
見てくれだけ着飾って
誤魔化している食品が溢れかえっている。

そんなものに慣らされた子どもの味覚は、
本物の方に違和感を覚えるところまで来ているのではないか。

子どもや、孫、ひ孫の世代に、
それがどのような影響を及ぼすのか・・・。
考えてみただけで恐ろしい。

「身土不二」という言葉がある。
自分の体と、食物を育んでくれる大地は、
不可分のものであり、
住んでいる土地でとれたものを、
新鮮なうちにいただくのが良いという考えである。

あまり生真面目なのもどうかと思うが、
今の悲惨な状態に無神経ではいたくないと思う。

先日、会社のキッチンで、
アゴだしを煮出していたら、
「あぁ、良い香り!」と言って、
大きく深呼吸をしてくれた教え子に、
心救われる思いがした。

その感覚を、
私たちは子どもたちに伝えていきたいと思う。

その感覚こそが、
心身を守り、
次の世代への命のバトンを
健やかに繋いでいくための、
宝物なのである。
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無駄

2011年02月17日 | Weblog
私の教育に関する仕事には、無駄が多いと思います。
しかし、それは一見無駄のようであっても、
決して無駄ではないと思っています。

例えば、
一つの研修資料を作るために、
少しでもその分野に関係があり、
自分の食指が伸びたものであれば、
たとえ少々関係なさそうな本でも、
ためらわずに買ってしまいます。

また、研修に資料を持って行くにしても、
かなり余分に関連資料まで持って行きます。

そんな風ですから、
人によっては、絞り込めていないと言われるだろうし、
準備不十分との誹りを受けるかも知れません。

しかし、私は、
自分と相手との関係性、
そして、心理状態によって、
臨機応変に資料を使い分けたいと思うのです。

もちろんテーマは絞り込まれています。
その中でもベストパフォーマンスを生み出すためには、
余剰の力を蓄え、すぐに使える態勢を取っておいた方が
良いと思うのです。

料理で言えば、
お客様に召し上がっていただく料理のレシピを、
たとえ、前日までに緻密に決めていたとしても、
お客様の当日のコンディションによっては、
料理の内容は変えた方が良いと思う、
そんな感覚だと思います。

高い山は、
やはり裾野が広いのが、
当然のことだと思います。

無理に高さだけを出そうとしても、
裾野の広がりがなければ、
決して安定感は出てこないと思います。

それは、目に見えない部分かもしれませんが、
私はそこにこそこだわりを持ち続けたいと思います。

能力が低いのかもしれませんが、
それはそれで仕方がないことなので、
精一杯、自分にやれることを、
心を込めてやっていくだけです。
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理想を失わない

2011年02月17日 | Weblog
私たちのミッションは、
「日本の教育をより良いものにする」
ということであり、
「志の教育を創る」
ということです。

日々の実践の中で、
大きな手応えを感ずることも多く、
それらの手応えは、実に大きな励みとなります。

しかし、良いことばかりではありません。

人々の悪意や冷笑に触れたり、
「そんなの理想だ。現実は厳しい。」
「何でそこまでしなくちゃならないの?」
といった現実的意見という名の冷や水を
浴びせられることも沢山あります。

しかし、大切なことは、
どんな逆境にあっても、
決して理想を見失わないことだと思います。

そして、それは自分の心との闘いです。

人々の無関心や諦めの中に、
自分自身の理想を埋没させてしまうのか。
それとも、
どんな状況にあっても理想という名の旗を
高々と掲げ続けるのか。

私は諦めることなく、
理想という名の旗を掲げ続けよう、
教育をより良いものにするという夢を
仲間と共に見続けようと思っています。

そのためには、何よりも、
自己の修錬が大切だと思っています。
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教育は言葉

2011年02月16日 | Weblog
「教育とは、言葉と行動である。」
私が、この数年間言い続けてきたことです。

言葉には、
温度があり、
重さがあり、
奥行きがあり、
心があります。

教育力の差とは、
まさに、この言葉の力の差だと思うのです。

同じ事を言っても、
それが心に響いてくる人と、
響いてこない人がいるのは、
ひとえに言葉の力の差としか言いようがありません。

また、同じ言葉でも、
出すタイミングと出し方によって、
全く伝わり方は異なってくると思います。

そのことは、どうやら、
わかる人にはわかるけれど、
わからない人にはわからないもののようです。

言葉には、
その人の人生全てが投影されます。

浅い人生を生きてきていれば、
やはり言葉は浅いものとなる。

深い人生を生きてきた人の言葉は、
深く響くものとなり、
子どもたちの心にも様々な影響を与えていきます。

そして、そのことは、
その人が生きてきた時間の長さとは、
あまり関係はないようです。

あくまでも深さ。
それに尽きると思います。

現在の学校教育の場においては、
この深いか浅いかということは、
ほぼ問題にすらされないでしょう。
なぜなら、知識伝達型の教育だからです。
また、教える側の全人格が、
教育そのものであるということを直視するには、
あまりに一人一人は、思想的にひ弱だからです。

だけど、こうしたことが、
今の教育界が、人間を育てることができない、
最大の原因だと言うことを直視しない限り、
教育は何も変わらないだろうと私は思っています。

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本来無一物

2011年02月15日 | Weblog
「本来無一物 無一物中無尽蔵」という言葉があります。

「本来無一物」とは、
人間は何も持たずにこの世に生まれ、
そして、
何も持たずにこの世を去っていく存在であることを言っています。

「本来無一物」ということがわかれば、
誰でも無尽蔵の福や徳が得られると禅の教えは説いています。
それが、「無一物中無尽蔵」という言葉が意味するものです。

私たちが、おぎゃあと生まれた時には、
確かに何も持たずに生まれてきました。

そして、棺の中に入ってあの世に行くときには、
何も持って行くことはできません。

しかし、少しずつ、色々な物を手にし始めると、
勘違いは大きくなり、
物欲、金銭欲、名誉欲、権力欲にとらわれ、
本来無一物であることを忘れてしまいます。

既存の教育界にいたときの、
全てを失って闘い始めて、
私は良かった。
心からそう思っています。

しかし、
今、立っている場所が失われたとしても、
「本来無一物」。
それもまたよし。
そう思います。

ただ、せめて次の世代を担う子どもたちに、
「志」という言葉だけは手渡してあげたい。
それを揺るがない信念として持ち続けようと思っています。

私は私にできることを、粛々と行い続けるだけです。
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仕事の性質

2011年02月15日 | Weblog
仕事にはそれぞれの性質がある。
人間にもそれぞれの性質がある。
森羅万象、様々な性質を持っている。

それが良いか悪いかということは一概に言えない。
しかし、あいつは良いとか、あいつは悪いとか言われる。
そうではないと思う。
ただ、違うのである。
違うものを同じように見ようとするから不満か起きる。

例えば、
列車で人や物を大量に輸送したり、
工場で物を大量に生産するような場合には、
正確さ、均質さ、コストの安さが何よりも大切になる。

しかし、
人へのサービスや教育という場合には、
個々の相手が求めるものを生み出すことが大切となるし、
その瞬間瞬間でのベストとは何かが臨機応変に求められる。

チェーン店の居酒屋では、
同じメニュー、同じ味、同じサービスが大前提であり、
当たり外れの無さが大切になると思う。
料理が出てくるのがそれなりに早くて、
味もそれなりに美味しくて、
価格が安いことが大切であり、
それが顧客満足を生むのだと思う。

これは言わば、
ビジネスとしての料理というものであろう。

しかし、一軒しかない、
キラリと光る本物の和食の店だと、
求められるものは全く異なる。

料理人の感性や、
お客様の嗜好に対する洞察力、
温度・湿度を感じる力、
素材の善し悪しを見極める目と、
それを活かす想像力が求められる。
器の美に対する審美眼や、
書画骨董、花に対する美意識、
日本と世界の芸術に関する造詣の深さなど、
様々な力が要求されるだろう。

これは言わば、
芸術としての料理というものであろう。

どちらの店が良い悪いではない。
そもそも求めていることの本質が違うのである。

「教育」もまた同じことであると思う。

私は、あらゆる芸術・文化・教育・社会を学び、
その中から本物の教育的素材を見極め、
子どもたちにとってベストのカタチで、
教育という名の料理を創り続けていきたいと思う。

私が目指すのは、そうした教育である。










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