Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

顔つき

2011年05月31日 | Weblog
映画を観ていていつも思うことがあります。
それは、何と人間が薄っぺらになってしまったかということです。

若山富三郎にせよ、
高倉健にせよ、
かつての映画俳優たちは、
その存在の大きさと強さが、
画面から滲み出て来るのを感じます。

それは、顔の作りや、
所作がどうのこうのといったことではなく、
もっと心の奥底にあるものが、
ふつふつと伝わってくるような感じのものです。

その生き方が破天荒で、
理不尽な言動も多々あり、
毀誉褒貶色々とあったにせよ、

やはり、人間としての深さが、
その人からは、確かに感じられるのです。

それは、例えば、時代劇をはじめ、
命のやりとりをするシーンで、
如実に表れてきます。
そこにリアリティがあるかないかが…。

私たちは、
命がけで仕事をし、
命がけで遊び、
命がけで学ぶということから、
どんどん遠ざかっていったのでしょう。

無論、本当に命を捨ててはいけません。

しかし、
命を捨てる覚悟で生きなければ、
本当の生の輝きは得られない。

それが人間存在というものだと思います。

生は光、死は影。

影を見つめる目線の深さが、
生を輝かせることになるのだと私は感じています。




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教育

2011年05月31日 | Weblog
平成元年に教師になってから、
ずっと教育をし続けてきました。

・・・と思い込んでいました。

しかし、どうもそうではないと思うようになりました。
しかも確信を持って・・・。

やはり、教育できるのは自分自身しかない。
できることは、
自分のことを自分で高めようとすることだけ。

それしかないと思うのです。

一心不乱に勉強して、
伝える力を高めていくだけしか、
自分にできることはないのです。

そして、
他人様の影響で、
多少なりとも高めていただいた自分が、

出会った人との歯車が、
たまたまうまく噛み合った拍子に、

自分の言動を通じて、
何がしかの影響を、
多少は他者に与えることができるのかもしれません。

これが冷静に見たところの私の教育力だと思います。

謙遜しているのではありません。

見定めようとしてもなかなか捉えきれなかった教育の本質が、
少しは見え始めたのかもしれないと感じています









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感性

2011年05月30日 | Weblog
現代社会では、
静かな時間が失われ、
喧噪の中での日々を
私たちは過ごさなければなりません。

しかし、時には、
静けさの中で思索を深めていかなければ、
人間として深まっていかないように思います。

また、人工的な喧噪のない、
自然の中にどっぷりとつかることも大切だと思います。

人間も自然の一部だからです。

今年、萩往還を歩いていて、雷雨に遭いました。
塾生たちの安全を最優先にしながら、
決して諦めず、歩き抜くことを実現するために、
どう判断していくかがとても大切でした。

その時のことを振り返って思うのは、
肌で感じる経験の大切さということです。

雨には打たれてみなければ、
雨の冷たさ、雨の優しさはわかりません。

照りつける太陽の暑さや厳しさは、
太陽の照りつける中を
歩き続けてみなければわかりません。

雷が止んでくれるかどうかも、
雨脚や、空や、雲の流れと
会話しながら感じ取るしかありません。

自然は人間の予測できるようなものではないと思います。
感じ取り、そして、畏れ敬い、
その懐に抱かれるしかない。

そして、理屈を越えて、
五感と第六感で感覚的に判断するしかない。

そうした経験の積み重ねが、
実は、日々の喧噪の中を生き抜いていく上での、
大きな力となっていくような気がしています。

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学びのサイクル

2011年05月29日 | Weblog
学びのサイクルとして、

気づき ←
 ↓     ↑
言語化   ↑
 ↓     ↑
関連付け→

という流れが大切なのですが、
要は、関連づけをどこまでできるかが、
とても大切なことだと思います。

多くの人たちは、
色々な話を聞いても、
「あぁ、それは医者の話ね。」
「あぁ、それは明治の話ね。」
「あぁ、それは中国の話ね。」
という具合に、自分の頭にある物差しで、
カテゴリーの中に括っておしまいにしてしまいます。
もったいないことに、比較や類推をしないわけです。

しかし、これでは、何も成長に繋がっていかないと思います。

大切なことは、
「医者の世界でそうだということは、
教育の世界にあてはめて考えてみたらどうなるのだろう?」

とか、

「明治にこういうことが起きたと言うことは、
平成の今だと、どういう可能性があるのだろうか?」

とか、

「中国が今こうだとしたら、日本はどうなるのだろう?
どうすれば良いのだろう?」

とか、色々な発想を展開することです。


そのためには、まず、己の小ささと、
無知を知らなければならないのだと思います。

その謙虚さの自覚のないところに、
成長はないのだと思います。
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偉大なる日常

2011年05月26日 | Weblog
恙なく、規則正しく日常が過ぎていくことは、
それだけで偉大なことだと思う。

日月の運行がそうであるように、
あたりまえのことが、
あたりまえになされることには、
大きな価値がある。

私の今日一日は、
価値ある一日だっただろうか?

自分の人生の目標に迫りうる一日だっただろうか?

結局、人生とは、
この一日一日の積み重ねでしかない。

今日の一日が充実していないのに、
その人の人生が充実するはずはない。

人生は有限である。
明日、命が尽きるかも知れない。
一年後に命が尽きるのかもしれない。
五年後、十年後かもしれない。

48歳の私にとって、
百年後ではないことは明かである。
否、五十年後ですらないだろう。

私自身、
少しでも人生の志に迫りたいと思う。

そのためには、今日一日を
悔いのないものにし続けるしかないのだと思う。
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誤解

2011年05月26日 | Weblog
誤解というけれども、
それは、人生の経験と、
そこから培われた価値観の相違から来る、
解釈の違いであって、
誤解と呼べるかどうかは怪しいものだと思います。

誤解であれば、
必ずそれは解けるけれども、
価値観の相違であれば、
それは決して交わることはないのかもしれません。

しかし、長い時を経た結果、
あるいは、幾多の経験を経た結果、
一瞬、価値観が交わることも出てくるのが、
人の世のようです。

ただし、その価値観は、
無限のグラデーションから織りなされていて、
なかなか明確になってはくれないこともあります。

映像のグラデーションなら、
1と0のコンピュータの世界でも表現できますが、

人間の心のグラデーションは、
なかなかそう簡単にはいかないもののようです。

でも、それで良いのだと思います。

理解も良し。
誤解も亦良し。

大切なことは、自分の信念を曲げないこと。
そして、決して人を非難しないこと。

そう思います。

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リーダーとは

2011年05月24日 | Weblog
世の中でリーダーと呼ばれている人たちと接してみて思うことは、
「リーダーとは闘い続ける者である」ということです。
もちろんこれは、リーダーの多様な側面の一つを言っているに過ぎません。

リーダーとは、
無気力や嘲笑、虚無感や皮肉、
ありとあらゆるネガティブな感情と
闘い続ける者のことだと思います。

それらの感情は、
常に他人の心の中に存在し、
リーダーの心を脅かしますが、
同時に、それらの感情は、もちろん、
リーダーの心の中にも存在しています。

しかし、リーダーたちは、
常にそれらの感情と戦い、
常にそれに打ち克ち、
己の心を奮い立たせると共に、
人々の心をも奮い立たせていく存在のように思います。

それがリーダーの使命だと思います。

それを崇高だと捉える人もいれば、
逆に、皮相な見方をし続ける人たちも
少なからずいるのだと思います。

どんなに頑張ったところで、100%の賛意は得られないし、
悪意ある人々は、心ない嘲笑や皮肉を投げつけ続けるのだと思います。

しかし、リーダーは、
それすらも笑って背負い続け、
いつの間にか多くの人たちに
支えられ続ける存在になっているもののように思えます。

今、そういう人たちと接していて、
私もまた、そのようになれたらと心から願っています。
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教師に必要な感覚

2011年05月22日 | Weblog
教師に必要な感覚として、
「同じ事に対して、常に新鮮に向き合える感性を持つ」
ということがあげられると思います。

例えば、教師という仕事は、
同じ教材を使って、
何度も同じ内容の授業することがあります。

また、同じ話を何度も繰り返し、
繰り返し、話すことがあります。

この時に、いかに新鮮な気持ちで、
その話の中身と向き合い、
それを語ることができるのかが
問われているのだと思います。

おそらく授業が面白くない先生というのは、
この感覚が弱いために、
マンネリに陥るのだと思います。
そして、改善の歩みが、
常にそこで止まってしまうのだと思います。

それは同時に、
自分自身が、同じ話を何度聞いても、
新鮮な発見をし続けられる感性を持っている人がどうか
という問題でもあると思います。

一度聴いたことのある話に接したとき、
「あぁ、もうそれは知ってるからいいや」と、
耳をふさぐ方向で意識が働く感性の持ち主ではだめなのです。

同じ話を何度聞いても、
その都度、新たな発見があると、
心を躍らせ、
常に真摯に話しに耳を傾けることのできる
感性の持ち主でなければならないのだと思います。

きっと頭の良い人ほど、
その「事柄」を分析し、理解することは、
簡単にできるのだと思います。

しかし、その理解の先に、
まだまだ奥深い世界が横たわっていることに
気づくことができるのは、

愚鈍なまでに、一つ事に向き合う姿勢と
そのことに価値があると感じる
感性をもった人なのだろうと思います。
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親心の学舎②

2011年05月21日 | Weblog
受講して下さった方から
感想レポートをいただきました。

嬉しかったのは、
早速、講座を通して気づいたことを
実践して下さった結果、
子どもとの関わりに変化が生まれ、
ご自身も、お子様も楽しくなった!!
というメッセージを多くいただいたことです。

本当に素晴らしいお母様方だと思います!!

私は学者ではありませんし、
幼児教育のプロでもありません。

しかし、子どもを育ててきた一人の親として、
(ただし、よい父親ではありませんでしたが…。(笑))
皆様に心を込めて、
気づきに満ちた楽しいひとときを
過ごしていただきたいという思いを持っています。

大きな変化が生まれるということが、
そして、みなさんが、
とても素敵な笑顔になっていかれることが、
私の大きな喜びであり手応えとなっています。

また、次回、お目にかかれますことを楽しみにしています。









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親心の学舎

2011年05月20日 | Weblog
親心の学舎が新たなところでスタートしました。

知識ではなく、
「心」で感じ取る学びをと思っています。

気づき、感じることが大切だと思うのです。

一人でも多くの方のお役に立てれば幸いです。



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