【Vision & Educaion,Ltd. からのお知らせ】2023年9月27日
◇◆◆ 木│村│貴│志│からのご挨拶 ◆◆―――◆
ようやく朝夕が少し秋めいて参りました。皆様、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。いつも本メールマガジンをお読みいただきありがとうございます。
間もなく長月(9月)が終わり、神無月(10月)に入ります。10月は、日本の神々が、出雲の地で、縁結びの話し合いをする時期です。だから出雲地方では、10月を神在月と言い慣わしています。出雲大社の東西には、十九社というお社が建てられています。神在月に集まった神々がお泊まりになる宿としてのお社です。祭神は八百万の神(やおよろずのかみ)と書かれています。
こうしたことの一つ一つに、日本人の精神が象徴されているように思います。出雲・松江・安来のある島根県は、毎年、秋になると特に行きたいなぁと思ってしまう場所です。日本の神話、日本の文化、日本の自然、日本の歴史、素晴らしい日本の美しさと豊かさに触れることの出来る場所です。
秋は、講演・研修の季節です。おかげさまで、少しずつ話をさせていただく機会が増えています。また、教育に関する私の思いを話した動画の撮影が進んでおり、12月の中頃から、順次リリースしていく準備ができています。また、子どもたちのための寺子屋をどのように広げていけば良いのか、色々と考えているところです。
一人でも多くの方に、教育への「思い」をお伝えしたいと思います。そこには、日本の未来に対する強い危機感があります。私の思いは、「志の教育」と「学び方の変革」の重要性を、全国にお届けしたいということです。日本の教育をより良いものにするために全力を尽くします。
様々な形でいつもご支援いただき本当にありがとうございます。(志)
◆◆ 先人の言葉に学ぶ ◆◆――――――――――――◆
今月は少し長い引用をさせていただきます。また、様々な所でお伝えしている言葉でもあるので、ご存じの方も多いのではないかと思いますが、森信三先生の『修身教授録』の一節です。
なぜ、紹介させていただくかというと、改めてこの言葉を皆様と共有したいと強く願っているからです。私は本当に、この言葉に共感し、共鳴し、「志の教育」を実践してきました。私の心に深く刻まれているメッセージです。私自身が魂の眠っている生徒であったけれど、今は、志をもって全力で生きることができているからこそ、より共感できるのだと思います。
「かくして今日教育の無力性は、これを他の方面から申せば結局「志」という根本の眼目が欠けているということでしょう。なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、また型どおりに試験も受けてはいます。しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしないのです。
というのも志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。
今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、結局生徒たちに、このような「志」が与えられていない点にあると言えるでしょう。何年、否何十年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。
ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなと言っても歩き出さずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。
しかるに今日の学校教育では、生徒はいつまでも眠っている。ところが、生徒たちの魂が眠っているとも気付かないで、色々なものを次から次へと、詰め込もうとする滑稽事をあえてしながら、しかもそれと気付かないのが、今日の教育界の実情です。それというのも私思うんですが、結局は、われわれ教師に真に志が立っていないからでしょう。すなわち、われわれ自身が、真に自分の生涯を貫く終生の目標というものを持たないからだと思うのです。」(森信三)
私はこの言葉に突き動かされて、「志の教育」に邁進してきました。
勿論、この言葉だけではなく、吉田松陰や橋本左内や佐藤一斎など、多くの人たちが「志」の大切さを語っていたことを学び、確信を持ってその大切さを理解し、教育実践に落とし込んでいくことが出来ました。あと10年ほどの時間の中で、何とかして更に深めていきたいと考えています。日本の未来のために、お役に立てるものを生み出せたらと思っています。(志)
◆◆ 本の紹介 ◆◆――――――――――――◆
今月は慌ただしく過ぎて読書があまりできていませんので、申し訳ないことに紹介すべき本がありません。そんな中でも、3つの寺子屋では『論語抄』を読み続けています。紀元前に生きた孔子という人物の言行録が『論語』ですが、当時(春秋時代)、市場では義足が最も売れていた血で血を洗うような時代でした。そうした中、「力」によって世の中を治める「覇道政治」ではなく、「徳」によって世の中を治める「王道政治」を説いた孔子の教えは、未だに輝きを失ってはいません。
考えてみれば、紀元前の孔子の教えもブッダの教えも、キリストの教えも未だに残っています。テクノロジーが進化し、イノベーションが進んでも、人間自体はそれほど立派な存在には進化できていないのかもしれません。また、こうした書物は作者や語った人の人生を理解して初めてその言葉の意味が深く納得されるものだと思います。
孔子は多くの門人たちが出世するのに、なかなか仕官の道が開けませんでした。55歳からは流浪の旅に出て、陽虎という人物に間違われて襲われ、命からがらの目に遭ったり、一週間ほど食糧も水も手に入らず餓死しそうになったりもします。
それなのに、次のような言葉を語っているのです。
「人知らずして慍(いきどお)らず、亦た君子ならずや。」(いくら勉強しても、この自分を認めてくれない人が世間にはいるもの。そうした人がいたとしても怨まない。それでこそ学徳ともにすぐれた君子ではないか。)
「人の己を知らざることを患(うれ)えず。人を知らざることを患うなり。」(他人がこちらの真価を知ってくれなくても気にかけることはない。それよりも自分が他人の真価を認めないことを心すべきだ。)
孔子が68歳の時には息子の鯉(り)が亡くなり、70歳の時、後継者と考えていた優秀な弟子の顔回が41歳の若さで亡くなり、72歳の時には、若い頃から孔子に使えていた武人の子路も64歳で亡くなります。紀元前479年、73歳で孔子は息を引き取ります。悲しみと失意の中での死であったかも知れません。ただ、その人生から生み出された言葉は不朽の輝きを放ち、現代を生きる私たちの心にも届いています。言葉はその人の人生を背景として紡ぎ出されてきます。孔子の言葉、そして、人生にも是非触れていただきたいと思います。(志)