Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

改革を

2023年09月30日 | Weblog

安芸高田市の市長と反対派議員たちのやりとりは、

【安芸高田】2年連続で決算不認定「足を引っ張る以上の動機が見当たらない」 - YouTube

これからの日本各地で起こらなければならない改革の姿を示しているのだと思います。急進的にせよ緩やかにせよ、間違いなくそうなっていかなければ、自治体も国も滅びていくような危機感を私も覚えています。

議論をするためには、一定以上の言語能力が必須です。ましてや市民の代表なのですから。「我々も立場がない」と語っていた市議の言葉が、全てを物語っていると感じます。つまり、やるべきは、市民のため、市のためであって、「一身の立場の安泰」ではないのです。そんなものは捨ててかからなければ、日本の未来はないのです。市も県も国も教育も、そして、個々人も、歯を食いしばって、自己変革を遂げていかなければ、日本の未来はないのに、なんと悠長に不遜にあぐらを掻いているのだろうかと思います。そして、そのことに気づかない、気づけないのが大きな問題です。勿論、そうした人を選んだ市民に責任があることは言うまでもありません。

明治維新というのは、ある意味では武士たちの既得権益の放棄でした。武士たちが、年貢という禄を失ってもやり遂げて下さったのが明治維新です。それを支えていたのは、侍たちの誇りであり気概であったのだと思います。勿論ひとくくりには出来ないのですが、近代化を成し遂げていかなければ西欧列強の植民地になるという危機感が、そこにはあったのだと思います。

これから2100年にかけて、日本の少子高齢化による人口急減、人口減少と教育の不備による国際競争力の低下は目に見えて進んでいきます。今の日本には「危機感無きジリ貧」という言葉がぴったりとあてはまります。それは、世の中を見ようとしないこと、厳しい現実を直視しようとしないこと、自分の頭で考えようとしないこと、プリンシプル(人としての望ましい行動の原理原則)の欠如、に端を発していると思います。

「何も持たない若者たちの無欲無限の赤心が日本の明日を創るのだ。」という歌詞が「吉田松陰」という歌に出て来ます。尾形大作 吉田松陰 歌詞&動画視聴 - 歌ネット (uta-net.com)

何も若者だけでなくて良いとは思いますが、「無欲無限の赤心(まごころ)」が大切だということは明治の改革にも、現代の改革にも共通していることだと思います。

 

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中秋の名月

2023年09月30日 | Weblog

今宵の中秋の名月は美しかったです。

写真に撮ってみたくて、

色々とやってみましたが、

うまくいきませんでした。

科学技術は確かに進展していますが、

人間の「月を美しく見る」という心には、

遠く及ばないのではないかと思いました。

また、「美しいなぁ」と思う記憶が心に残ることに、

価値があるのではないかとも思いました。

 

ま、カメラの安さと、腕の無さの問題に過ぎませんが。笑。

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V&EメールマガジンVol. 69より(一部掲載)

2023年09月28日 | Weblog

 【Vision & Educaion,Ltd. からのお知らせ】2023年9月27日

◇◆◆ 木│村│貴│志│からのご挨拶 ◆◆―――◆

ようやく朝夕が少し秋めいて参りました。皆様、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。いつも本メールマガジンをお読みいただきありがとうございます。

間もなく長月(9月)が終わり、神無月(10月)に入ります。10月は、日本の神々が、出雲の地で、縁結びの話し合いをする時期です。だから出雲地方では、10月を神在月と言い慣わしています。出雲大社の東西には、十九社というお社が建てられています。神在月に集まった神々がお泊まりになる宿としてのお社です。祭神は八百万の神(やおよろずのかみ)と書かれています。

こうしたことの一つ一つに、日本人の精神が象徴されているように思います。出雲・松江・安来のある島根県は、毎年、秋になると特に行きたいなぁと思ってしまう場所です。日本の神話、日本の文化、日本の自然、日本の歴史、素晴らしい日本の美しさと豊かさに触れることの出来る場所です。

秋は、講演・研修の季節です。おかげさまで、少しずつ話をさせていただく機会が増えています。また、教育に関する私の思いを話した動画の撮影が進んでおり、12月の中頃から、順次リリースしていく準備ができています。また、子どもたちのための寺子屋をどのように広げていけば良いのか、色々と考えているところです。

一人でも多くの方に、教育への「思い」をお伝えしたいと思います。そこには、日本の未来に対する強い危機感があります。私の思いは、「志の教育」と「学び方の変革」の重要性を、全国にお届けしたいということです。日本の教育をより良いものにするために全力を尽くします。

様々な形でいつもご支援いただき本当にありがとうございます。(志)

◆◆ 先人の言葉に学ぶ ◆◆――――――――――――◆

今月は少し長い引用をさせていただきます。また、様々な所でお伝えしている言葉でもあるので、ご存じの方も多いのではないかと思いますが、森信三先生の『修身教授録』の一節です。

なぜ、紹介させていただくかというと、改めてこの言葉を皆様と共有したいと強く願っているからです。私は本当に、この言葉に共感し、共鳴し、「志の教育」を実践してきました。私の心に深く刻まれているメッセージです。私自身が魂の眠っている生徒であったけれど、今は、志をもって全力で生きることができているからこそ、より共感できるのだと思います。

「かくして今日教育の無力性は、これを他の方面から申せば結局「志」という根本の眼目が欠けているということでしょう。なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、また型どおりに試験も受けてはいます。しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしないのです。

というのも志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。

今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、結局生徒たちに、このような「志」が与えられていない点にあると言えるでしょう。何年、否何十年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。

ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなと言っても歩き出さずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。

しかるに今日の学校教育では、生徒はいつまでも眠っている。ところが、生徒たちの魂が眠っているとも気付かないで、色々なものを次から次へと、詰め込もうとする滑稽事をあえてしながら、しかもそれと気付かないのが、今日の教育界の実情です。それというのも私思うんですが、結局は、われわれ教師に真に志が立っていないからでしょう。すなわち、われわれ自身が、真に自分の生涯を貫く終生の目標というものを持たないからだと思うのです。」(森信三)

私はこの言葉に突き動かされて、「志の教育」に邁進してきました。

勿論、この言葉だけではなく、吉田松陰や橋本左内や佐藤一斎など、多くの人たちが「志」の大切さを語っていたことを学び、確信を持ってその大切さを理解し、教育実践に落とし込んでいくことが出来ました。あと10年ほどの時間の中で、何とかして更に深めていきたいと考えています。日本の未来のために、お役に立てるものを生み出せたらと思っています。(志)

◆◆ 本の紹介 ◆◆――――――――――――◆

今月は慌ただしく過ぎて読書があまりできていませんので、申し訳ないことに紹介すべき本がありません。そんな中でも、3つの寺子屋では『論語抄』を読み続けています。紀元前に生きた孔子という人物の言行録が『論語』ですが、当時(春秋時代)、市場では義足が最も売れていた血で血を洗うような時代でした。そうした中、「力」によって世の中を治める「覇道政治」ではなく、「徳」によって世の中を治める「王道政治」を説いた孔子の教えは、未だに輝きを失ってはいません。

考えてみれば、紀元前の孔子の教えもブッダの教えも、キリストの教えも未だに残っています。テクノロジーが進化し、イノベーションが進んでも、人間自体はそれほど立派な存在には進化できていないのかもしれません。また、こうした書物は作者や語った人の人生を理解して初めてその言葉の意味が深く納得されるものだと思います。

孔子は多くの門人たちが出世するのに、なかなか仕官の道が開けませんでした。55歳からは流浪の旅に出て、陽虎という人物に間違われて襲われ、命からがらの目に遭ったり、一週間ほど食糧も水も手に入らず餓死しそうになったりもします。

それなのに、次のような言葉を語っているのです。

「人知らずして慍(いきどお)らず、亦た君子ならずや。」(いくら勉強しても、この自分を認めてくれない人が世間にはいるもの。そうした人がいたとしても怨まない。それでこそ学徳ともにすぐれた君子ではないか。)

「人の己を知らざることを患(うれ)えず。人を知らざることを患うなり。」(他人がこちらの真価を知ってくれなくても気にかけることはない。それよりも自分が他人の真価を認めないことを心すべきだ。)

孔子が68歳の時には息子の鯉(り)が亡くなり、70歳の時、後継者と考えていた優秀な弟子の顔回が41歳の若さで亡くなり、72歳の時には、若い頃から孔子に使えていた武人の子路も64歳で亡くなります。紀元前479年、73歳で孔子は息を引き取ります。悲しみと失意の中での死であったかも知れません。ただ、その人生から生み出された言葉は不朽の輝きを放ち、現代を生きる私たちの心にも届いています。言葉はその人の人生を背景として紡ぎ出されてきます。孔子の言葉、そして、人生にも是非触れていただきたいと思います。(志)

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講演研修に思う

2023年09月27日 | Weblog

話をする機会をいただくことができています。有り難いことです。

私に何が伝えられるかはわかりませんが、全力を尽くすだけです。

話をする瞬間だけではなく、その準備もありますし、日々の生活そのものがその人間性となりますから、手を抜くことはできません。懸命に働き、学び、遊び、楽しみ、充実した日々にするだけです。

何が伝えられるかは、私の知るところではありません。

全身全霊をかけて力を尽くすことだけが私にできることです。

 

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たわいのない話

2023年09月26日 | Weblog

昨日、カッターシャツの腕まくりをして、デスクワークをしていたら、何か落ちた音がしました。何を落としたのか気になったので、少し探してみましたが、何も見当たりませんでした。

夜、カッターシャツを脱いでいると、片方のカフスがないことに気づきました。どこに落としたのだろうとその時は思っていました。

今朝、昨日付けていたカフスがないので、カフスを入れているケースを見ていると、私がかつて気に入っていたカフスを見つけました。ただ、これは、片方を無くしていたので、以来、ずっと付けることはありませんでした。

ところが、よく見ると、両方あるではありませんか! 喜んで、昔よく付けていた、そのカフスを付けました。

オフィスに行くと、椅子の下に、昨日無くしたカフスがありました。

なんと言うこともないたわいのない話でした。

しかし、一つを失ったように思ったけれども、実は以前失ったと思ったものも、失っていないことがわかり、今回失ったと思ったものも失っていなかったという、何とも幸運な話でもあります。勿論、単なる愚かな勘違いと言うことも出来ます。

実は、私はこの二種類のカフスをとりわけ大切にしていて、何度も落としたことがあるのですが、ふと、駐車場でそれを見つけたりすることが何度もありました。しかも、数日を経て見つけるということも何度かありました。

大切にしようと思う心は、何か目に見えない力を持つのかも知れません。

 

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先人の言葉

2023年09月24日 | Weblog

先人たちの言葉に触れていると、

深く考えさせられることが多々あります。

吉田松陰先生の言葉。森信三先生の言葉。下村湖人先生の言葉。

それぞれに深い真理に気づかせてくれる言葉です。

そして、30代に出会った言葉を、

40代、50代、60代と読み返すことが大切で、

少しずつその魂に触れられるように思えてくることが、

大切な学びなのだと思います。

一度読んだら終わりという本も多いものです。

しかし、不朽の志、不朽の精神をもって

二度と無い人生を生きた人たちの言葉は、

読み返すほどに深い味わいのあるものだと思います。

私はそうした学び方の大切さを知ることができて幸運でした。

 

 

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祈り

2023年09月23日 | Weblog

人間は、自分のレベルでしか、物事を見、理解することができないと言うことは確からしい気がします。

しかし、それならば教育には意味がないことになります。

自分のレベルを上げるものとは何かを知り、それを伝えていくことが教育なのだろうと思います。

しかし、それもまた自分のレベルでしか理解することができないという現実を如何に突破するか。

それはもう、論理を超えた、情熱、熱意、思い、といったものしかないのではないかと思います。

最後に行き着くのは、自分の中に、祈りがあるかどうかでしかないのだと思います。

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戯言

2023年09月21日 | Weblog

もっと教育の精度と力を高めたいと思います。

そのためには、

自分自身が学ぶ時間を確保することが大切です。

また、お金も必要です。

本を買ったり、映像を見たり、現地に赴いたり、

様々な体験をしたり、

あらゆることに時間とお金は必要です。

まずは自分の力をつけることが先で、

その先に仕事は付いてくると信じています。

本物であることを目指し続けたいと思います。

そして、その成果をひけらかしたりすることは、

できるだけしたくないと思っています。

古い人間の戯言であり矜持です。

 

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断絶

2023年09月18日 | Weblog

志の教育の大切さは、

数多の先人たちが語り尽くしています。

しかし、私たち後の世代の者が、

それらの書物を読まなければ、

それは無いも同じです。

先人たちとほぼ断絶した現在にあって、

少しでも過去と未来をつなぐことのできる、

そんな教育が出来たらと思います。

 

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細い一筋の道

2023年09月17日 | Weblog

教育についての真実を見極めようと試行錯誤してきました。

私は幸いに頭が良くありませんでしたから、

愚直に一つ一つを積み上げてきました。

偉い学者の言うことも、文科省の言うことも、

常に自分の実際の経験と較べなから考えてきました。

どうすれば子どもは成長するのか。

親御さんとも、経営者の方とも、共に過ごし、

総合的に考え抜いてきました。

市井の一教師の実践など、

取るに足らぬ事にしか思われないことはわかっています。

しかし、それが、本当に子どもの成長に繋がり、

未来の日本への大きな財産になるとわかった以上、

私はこの細い一筋の道の歩き方を

何とか次の世代に手渡して死にたいと思います。

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