Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

力不足

2018年09月29日 | Weblog
ブログ更新がすっかり滞ってしまいました。

バッカーズ寺子屋・バッカーズ九州寺子屋卒塾生への
バースデーカードも、今夏は滞ってしまい、
申し訳なく思っています。

でも、10月から、改めて仕切り直しをしていきます。

このブログも、以前のように徒然なるままの戯言でなく、
少し、しっかり書きたいと思って何度か書きましたが、
ちょっとここのところ力尽きていました。

こちらもまた仕切り直しです。

とにかく発信力を高めていこうと思います。
日本の教育をよりよいものにするために、
全力を尽くします。

う~ん。
それにしても、
今月は本当に余裕がなかったのはなぜだろう?

サボってなかったのに・・・。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朗報

2018年09月11日 | Weblog
私は萩往還を歩きながら、

「この植物は何か。この昆虫は何か。
写真に撮ったら表示してくれるソフトができたらいいね。」

と言っていました。

「鳥の声も、音声を拾って、表示してくれたらいいね。」

とも言っていました。
でも、開発しても誰が買うかを考えたら、
ビジネスにならないかなと思っていました。

しかし、今日のニュースに出ていました!
スマホをかざすだけで、
すぐに生き物の名前が分かる「図鑑アプリ」!

水族館の9割の魚に対応しているということで、
私がイメージしていたものとは違いますが、
いずれそうなっていくのだろうと思うと嬉しくなります。

Linneという会社が出していて、
そこの杉本社長は「世界中のあらゆる動植物を
認識するエンジンを作ろうと。そこが夢ですね。」と
語っていらっしゃいます。

その夢応援します!
というか、そのアプリ買います!
もう少し精度が上がったら。

一年先あたりが楽しみです!









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横山大観の画業に思う

2018年09月11日 | Weblog
 日本の近代は、科学技術にせよ、絵画にせよ、鎖国が終わり、諸外国との関わりの中で、日本という自己を確立するための苦闘の連続でした。「日本画」という言葉も「西洋画」という概念に対して生まれたもので、それまでは、琳派や狩野派といった流派の名前しかありませんでした。
日本画は様々な鉱物を使った岩絵具が主として使われ、胡粉などの顔料や膠、墨が使用され、絹本、和紙などに描きます。襖絵や屏風絵といったものもあります。日本の自然が生み出した素材を使って、日本の風物や古典文学に題材を求め、描かれています。
米国人アーネスト・フェノロサは、日本の美に大変な関心と理解を示しましたが、彼が1882年に龍池会で行った講演『美術真説』で使った Japanese painting の翻訳が「日本画」という言葉の初出だそうです。この講演でフェノロサは、日本画の素晴らしさとして、「写真のような写実を追わない。陰影が無い。鉤勒(輪郭線)がある。色調が濃厚でない。表現が簡潔である。」という点を挙げています。
 日本画は、日本の自然や歴史を背景に生まれてきたものだからこそ、そこには日本の心があり、画家たちの言葉にも日本の精神の深さが宿ります。写真のような写実ではなく、写実を超える写実を追い求め、光や空気といった描けないものを描こうとするからこそ、芸術家の境地は、それを観るものに感じ取らせる深い精神の境地に達していきます。そうした境地が言葉として紡ぎ出されたのが、次の横山大観の言葉です。
 「富士の名画というものは昔からあまりない。それは形ばかりうつすからだ。富士を描くと言うことは、富士にうつる自分の心を描くことだ。心とは、ひっきょう人格にほかならぬ。それはまた気品であり、気魄である。富士を描くということは、つまり己を描くことである。己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描かなければならぬ。私の富士もけっして名画とは思わぬが、しかし、描くかぎり、全身全霊をうちこんで描いている。富士の美しさは季節も時間もえらばぬ。春夏秋冬、朝昼晩、富士はその時々で姿を変えるが、いついかなる時でも美しい。いわば無窮の姿だからだ。」
 「筆をもつて絵を習うことはさう大騒ぎしなくてもよいのです。それよりも人物をつくることが大事で、それを土台にしないことにはいくらやつても駄目なことです。人間が出来てはじめて絵が出来る。それには人物の養成といふことが第一で、先づ人間をつくらなければなりません。歌もわかる、詩もわかる、宗教もわかる、宗教は自分の安住の地ですから大事なものですし、哲学も知ってゐて、さうして茲に初めて世界的の人間らしき人間が出来て、今度は世界的の絵が出来るといふわけです。世界人になつて、初めてその人の絵が世界を包含するものになると思ひます・・・。作家はどこまでも創造していくことが貴いので、人の真似はいけません。自分の今日の作品と、明日のそれとは変わつてゐてよいのです。またその変化のない人は駄目です。只一つ我は日本人であるといふ誇りをどこまでも堅持して貰ひたい。」横山大観の言葉「大観画談」(昭和二十六年)
 教育にも通じるこの精神を私も真摯に学び取っていきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネバーエンディングストーリー

2018年09月02日 | Weblog
『ネバーエンディングストーリー』という映画があります。滅び行くおとぎの国「ファンタージェン」を、『果てしない物語』を読んでいる一人の少年が救うという物語です。「ファンタージェン」は人間の夢や希望によって作られている世界ですが、人間が「虚無感」に支配され、夢や希望を持たなくなったために滅びつつありました。この物語の主人公である、『果てしない物語』を手に取った人間の少年バスチアンは、自分がファンタージェンを救うことなどできないと思っていますが、それもまた一つの「虚無感」です。所詮は本の中の話だから自分に関係なく、もし関係があったとしても、自分にはどうせ無理だ、世界を救うことなどできるわけがないと思い込んでいるのです。
 映画の終盤、ファンタージェンが滅び行く中、女王陛下(幼心の君)の言葉が続きます。「人間の子供は自分が果てしのない物語の主人公だってわかってないのよ。」「自分のような小さな子供に、ファンタージェンを救う力があるとは考えていないんだわ。」これは大きな可能性があるのに、その可能性を信じられない子供たちの姿、ひいては大人たちの姿を示唆していると思います。
 とうとうファンタージェンは滅びてしまいます。しかし、バスチアンは、間一髪のところで幼心の君に新しい名前を付け、彼女の手にはファンタージェンの最後の一粒の砂が残ります。現実の世界からファンタージェンへと行ったバスチアンは、幼心の君と闇の中で言葉を交わします。「なぜこんなに暗いんだろう?」「始まりはいつも暗いものなのよ。」「それ何なの?」「一粒の砂よ。これだけが残ったの。」「ファンタージェンはすっかりなくなってしまったの?」「ええ。」「じゃあ、全て無駄だったのですか?」「いいえちがうわ。ファンタージェンは新しくまたよみがえるのよ。あなたの夢と希望の中からね」。幼心の君はバスチアンの手のひらにファンタージェンの最後の一粒の砂を手渡し、促します。「何か願い事をしなさい。」「わからないよ。」「それじゃあ、ファンタージェンは生まれないわ。いつまでも。」「望みはいくつ叶うの?」「いくつでもいいのよ。望みが多ければそれだけファンタージェンは大きくりっぱになるのですもの。」そこでバスチアンは沢山のことを願い、無限の想像力によってファンタージェンは再び広大で豊かな世界を取り戻していきます。これが映画『ネバーエンディングストーリー』の概要です。
 おとぎの国ファンタージェンは、現実の世界のことだと私は思います。実は私たちの生きる現実の世界も、私たちの想像力や夢や希望によって生み出されてきたものです。科学技術の進歩も、文化・芸術の豊かさも、スポーツも、全ては私たちの想像力と希望(こんなことができたらいいなぁという思い。)が生み出したものです。あきらめや、虚無感との戦いは、今も続いています。「どーせ無理。」「自分なんて。」といった虚無感に打ち克ち、夢や希望を失わない人生を歩むことの大切さをこの映画は語りかけてくれます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする