Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

なかなか

2018年10月30日 | Weblog
ここのところ、
まとまった文章を綴るブログにしようと、
少し頑張ってみましたが、
どうもよろしくない気がしてきました。

やっぱり、
私の息づかいが聞こえる、
そんなブログであり続けた方が、
良いように思い直し始めました。

書くという作業はとても大切です。
自分の思考を整理していくことができるからです。

日記でそれをやって、
ブログは堅めのオフィシャルなもので、
というのが理想かなぁと思いつつあったのですが。

やはり、くだらないこともそのまま書いていく、
そんなスタイルの方が私らしいのかもしれません。






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手間暇

2018年10月26日 | Weblog
教育には恐ろしいまでの手間暇がかかります。

少なくとも、
よりよい時間を生み出そうとすれば、
その準備を真剣にするための、
ものすごく大きなエネルギーが必要となります。

しかし、
そこまで大変な思いをして準備をしても、
全く聴いてくれない生徒も、
理解しようとしない生徒もいます。

それは、伝える側の、
伝える力の弱さや、信念の無さも
一つの要因ではあります。

しかし、聞く側の姿勢が無いことも大きな問題です。

人間にとって辛いことは様々にありますが、
一生懸命話をしているのに、
全く聞こうとしないことや、
無視をしたり、冷笑したりされることは、
大きなストレスを感じるものです。
だから心を病む先生も多いのです。

いじめを受けている子どもたちも、
辛い思いをしていますが、
教師も実は大きなダメージを受けています。

今でこそ、
私も聴いてもらえないことは
少なくなってきました。

しかし、油断すれば、
ちょっとした瞬間に人は聴かなくなってしまいます。

そうした問題に対する私の答えは、

我が身の至らなさを顧みて、
更に深く学び続けることと、

人間の心というものの難しさに思いを致すことと、

そして、

その苦しさを乗り越えて伝えていく
祈るような思いしかありません。

やれるだけのことをやって通用しなければ、
それはそれで仕方が無いのです。

笑って受け容れるしかない。

ただ、それまでは全力を尽くす。

それだけです。


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聴く力

2018年10月20日 | Weblog
 「聴く」力をもっと磨くことができたら、それだけで私は日本の大きな教育改革になると思います。小中高の授業を通して、本当の意味で「聴く」という姿勢が、あまり育てられていないことを感じるからです。聴くことがおろそかになっている理由として、三つのことが考えられます。

 一つ目には、テレビやスマホから流れてくる情報を漫然と受け取ることに終始していて、情報に対する受け身の姿勢が育まれていることです。テレビもスマホも、その中で話している人も、聞いていないことで怒り出したりはしません。聞こうが聞くまいが知ったことではないのです。また、聞き手は聞き流すこともできますし、聞きたくなければスイッチをオフにすることもできます。聞き手は、相手の情報を遮断するところで主体性を発揮するのです。こうした中では、生身の話し手に対する聞く姿勢など育まれようがありません。

 二つ目に、学校の授業では、「正解のある勉強」ばかりしてきたということです。答えが一つであれば、家に帰って教科書や問題集や参考書で学ぶこともできますし、学習塾に行って学校以上に丁寧な説明を受けて理解することもできます。つまり、後からいくらでも学び直しがきくので、授業中に真剣に聞いていなくてもかまわないのです。また、聞いて学んだことの確認は、「記憶の正確さ」を問われるテストがほとんどで、話を聴いた後に、「自分で感じたこと、気づいたこと、考えたこと」を言語化することなどは求められません。こうしたことが日々繰り返されているから、その場で緊張感を持って真剣に聴くという態度が育まれないまま大人になっているのだと感じます。ちなみに、学校での聞き方の指導は、「先生の顔を見て。手は膝の上に置いて。」という二つに終始していることが多いようです。お地蔵さんのように黙って先生の話を畏まって聞いている状態を往々にして先生方は良しとしています。しかし、聴くことの目的は、本来、その話を元に考え、議論し、より高次のアウトプットを生み出していくことのはずです。「意見が言えるように、考えて聴く姿勢」を身につけること、つまり、「攻撃的に聴く姿勢」を身につけることこそ大切なのだと私は思います。

 三つ目に、「話すこと」を訓練されないから「聴くこと」が身につかないのだと思います。話の聴き方の重要性は、実は、何度も話す側に立ってみて初めてわかるものです。聞き手がどれほど話し手に影響を与えているかは、話し手の立場に立ってみなければ、なかなかわかるものではありません。しかもそれは、日本の学校教育で主流を占めている「原稿を読むスピーチ」ではなく、相手の目を見て、相手の心に自分の考えや思いを伝えるスピーチです。「読むこと」と「書くこと」は表裏一体のものです。「聴くこと」と「話すこと」も同じです。「書くこと」で「読むこと」が磨かれ、「話すこと」で「聴くこと」が磨かれるということを、どれだけ教師が深く理解しているかが問われるのだと思います。
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一所懸命

2018年10月17日 | Weblog
日本の社会では、定年退職の年齢が60歳から65歳と次第に先延ばしになり、生涯現役として働いていく社会になろうとしています。西洋的に一稼ぎしたら、リタイアして第二の人生を楽しむという生き方も良いと思います。しかし、日本的に、仕事そのものに、人生のやりがいと生きがいを見つけて働くのも、私は良いと思いますし、私自身そうありたいと思っています。

 「働き方改革」というスローガンが掲げられてはいますが、私はどんなに時代が変わり、働き方が変わろうとも、誠実に「一所懸命」働くことが何よりも大切だと思います。働く人を、「仕事ができる人、仕事ができない人」に分けることもできますが、「仕事に一所懸命に取り組む人、一生懸命に取り組まない人」に分けることもできます。「一所懸命」というのは、心構えの問題であり、人間性の問題ということでもあります。そして、その人と働いて心地よく思えるか、思えないかという問題にもなります。困難を共に背負える仲間であるかどうかという判断にもつながっているからです。

 仕事に対する自分の知識やスキルや能力が不足していて、自分が十二分に仕事の成果を出し得ていないことを自覚できれば、「申し訳ない」という心が生まれるはずです。そして、今以上に「一所懸命」の努力を重ねようと思います。それは、常に「何か自分にできることはないだろうか」と考え行動することでもあります。また、ある程度の成果を出していたとしても、自分が更に仕事における高みを目指そうと思えば、今の自分と目指す姿との乖離に気づき、自分の力不足をもどかしく思うことになります。そして更に「一所懸命」の努力を重ねようと思い、行動し始めます。それは謙虚さや素直さという心が生み出すものです。本当に自分にプライドを持つということは、自分と真摯に向き合い、結果を残すということでしかないと私は思います。

 与えられた仕事に一所懸命になれない人は、どこで働こうが、一所懸命にはなれないものです。一所懸命になれない人は、成果を出せていないことに気づけない人でもあります。気づかなければ改善のしようもありません。また、気づけたとしても自分が一所懸命でないことが問題の原因だと思えなければ、自分を正当化するために、言い訳をしたり、周囲を批判したりするようになります。いずれにしても自分の成長にはつながらない心の持ち方です。

 どう考えるにせよ、何を言うにせよ、他人は良く人を見ているものですから、誤魔化しようはありません。うまく誤魔化せていると思っているのは、本人だけでしかありません。 私はとにかく、妥協することなく、こだわりを持ち続け、いくつになっても「一所懸命」であることを忘れないようにしたいと思います。二度とない人生。どこまで自分を磨き続けていけるのか試してみたいと思います。
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大切なこと

2018年10月04日 | Weblog
やはり、
自分の信念を曲げずに生きることが、
私にとっては大切なことだと思います。

自らの教育的信念に基づいて行動することが、
後悔のない人生を生きることになると思います。

その結果、
色々なものを失ったとしても、

やはり、大切なのは、
自らの信念と誇りだと思います。

それは、
共に学んでくれた子供たちの、
未来を大切にすることでもあります。

独りよがりではなく、
節を曲げずに生きること。

そして、
それが自分の人生のためだけではなく、
多くの人の人生のためであること。

そこを見失うぐらいなら、
ひとりぼっちで、生きていようと思います。



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