Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

メールマガジン

2022年02月26日 | Weblog

Vision&Education,Ltd.では、毎月1回メールマガジンを配信しています。

大したことは書いていないのですが、教育に関心がおありの方は、是非、読んでいただけたら嬉しく存じます。

毎月、27日前後に配信しています。無料です。

ささやかではありますが、毎回、手を抜かずに、地道な一歩を残していくように自分で書いています。

定期配信するようになって、5年目に入り、今月で50号を迎えることができました。

読んで下さっている方に心からの感謝を申し上げると共に、お知り合いの方にも転送していただけたら幸いに存じます。

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あわてうさぎ

2022年02月21日 | Weblog

『ジャータカ物語』に「あわてうさぎ」という話があります。「地面が壊れる!」と身の危険を感じた一匹のウサギが「地面が壊れる!」と叫び、走り出します。何万匹ものウサギたちも走り出します。逃げるウサギの大群を見て、シカ、サイ、水牛、シマウマ、トラ、ゾウたちも、「何事か?」と尋ねては、一緒に走って逃げ出します。獣たちの列はとうとう10㎞にもなってしまいました。このままではみんな崖から海へ飛び込んでいってしまいます。
 この時、丘の上からこの様子を見ていた菩薩の生まれ変わりのライオンが、ものすごい早さで駆けだし、みんなより先回りして大声でうなり声をあげて獣たちを制止します。
 ライオンは「なぜこんな馬鹿なことをしているのだ」と怒鳴ると、「地面が壊れるところだからです!」とみんなは答えます。「では、誰が地面の壊れるのを見たのだね。」と尋ねると、「へえ、ゾウがそのことを知っています。」と言います。するとゾウは、「いえ、私たちは知りません。トラが知っています。」今度はトラが、「いいえ、シマウマが知っています。」だんだん聞いていくと、最後はウサギだということになり、ウサギの中でも、はじめの一匹だったことがわかりました。
 そのウサギにライオンが問いただし、地面が壊れているという所に行ってみると、良く熟したパパイヤの実が落ちていました。ウサギは「地面が壊れたらどうなるんだろう」と妄想して不安になっていたところに、パパイヤの実が落ちてきたので、地面が壊れる音だと勘違いをし、あわてて走り出したのです。
 獣たちは、戻ってきたライオンに、「原因がわかったよ。実はな。」と見てきたことを詳しく説明されて、ようやく安心して、それぞれ自分の家に帰っていきます。
「もし、この時、菩薩のライオンが助けてやらなかったら、獣たちはみんな海の中に駆け込んで、死んでしまった事でしょう。」という言葉でこの話は締めくくられています。

 私たちは、高度に情報化された社会に生きています。しかし、昔に較べて本当のことをどれほど知り得ているのか、私にはわかりません。信じるに足る言葉がどこにあるのかもよくわかりません。

ロシア・ウクライナ情勢についても、新型コロナウイルスによるパンデミックにしても、そこで使われている写真が真実を伝えるものかどうかを検証する術はありませんし、見せられている映像の説明が真実かどうかを知る術もありません。

 世界の抗しがたい潮流を見ていると、私たちは、あわてもののウサギに引きずられているのではないかと近頃よく思います。あわてもののウサギならまだかわいいものですが、悪意のあるウサギであれば困ったものだとも思います。そして、菩薩の生まれ変わりのライオンがいない時代の悲哀を感じます。

 高度情報化社会で、私たちはいったい何を手に入れたのでしょうか。あわてうさぎに振り回された獣たちと、メディアやSNSに振り回される私たち現代人は、大して変わらないような気がしてなりません。そう思うのは愚鈍な私だけだと信じたいところです。

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教育という名の事業として

2022年02月21日 | Weblog

時代の変化を読み、具体的にアクションを起こしていくことが事業には不可欠です。

私も私の教育を事業として捉えた場合、もっと広げていく努力をしなければならないのだと思います。

今までは、とにかく職人のように、自分の技を磨き、一芸に秀でることを求めてきました。それで終わる気でいました。「生涯、一教師」を心に決めていました。

しかし、そろそろ広げることと、誰かにバトンを渡すことを意識しなければならないのかもしれません。

やはり価値を世の中に遺していくためには、どうしても事業として考えていく必要が出て来ます。私一人で作ってきたものではありませんから、私を支えて下さった多くの方の思いを形にしていくべきかとも思います。

今までその方向に封印をして、深く深く、掘り下げようとしてきましたが、深く穴を掘るためには、やはり、広さが要るのです。わかってはいましたが、ようやく向き合い始める時が来たのかもしれません。

ただ、これはとてつもなく大きなテーマです。日本の教育をより良いものにするために、何をすべきなのか。今まで創り上げてきた強みを活かし、既存の教育の枠組みを変えていくために、どのように仕掛けていけば良いのか。

多くの人たちの叡智をお借りしながら前に進んで行けたらと思います。

 

 

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心境の変化

2022年02月19日 | Weblog

あと五ヶ月ほどで還暦を迎えます。吉田松陰先生(享年30歳ということは満29歳)や、高杉晋作(享年29)や、橋本左内(享年26)に較べて、もうかなり十分長生きしたと思います。ただし、先人たちのようには、何も成し遂げられていないので、及ばずながらもこれからの10年を全力で駆け抜けていこうと思っています。

多くの人との出会いと支えによって、私は、バッカーズ寺子屋、バッカーズ九州寺子屋という教育の場を与えていただきました。学校の教師をやり続けていたら、決してできなかった教育を、私はさせていただくことができました。

開塾して、東京で17年、九州で14年という時間が経過しました。その間に、『志の教科書』『学び方が変わると人生が変わる』という2冊の本を書かせていただきました。特に、『学び方が変わると人生が変わる』は、バッカーズ寺子屋塾長だから書くことができた一冊ですし、子どもたちのレポートが沢山載っていて、子どもたちが何を掴んだかを理解することができる一冊だと思います。教育評論ではなく、教育実践の記録です。

これから10年は、この教育を次の世代にどう手渡していくかが私の大きなテーマです。メディアにも出ることはなく、年間20人ぐらいの塾生たちとしか共に学ぶことのできない学び舎ですから、大河の一滴のようなささやかな取り組みです。世間の耳目を集めることもないでしょう。しかし、大きな手応えを感じる教育でもあります。

最近、Facebookでも発信しようと思ったのは、一人でも多くの人に思いを届けるしかないのではないかと思い始めたからです。

これまでは、自分の未熟さや力不足を考えた時に、なかなか私の思いや考えを理解していただくことは難しいだろうし、いちいち反対する人たちと事を構えるのも面倒だから、とにかく、脇目も振らずに自分の教育実践に全力を尽くそうと思ってやってきました。

その姿勢は基本的には変えるつもりはありません。しかし、少しずつ、ボールを投げていかなければ、私の後を受け継いでくれる人も見つからないのではないかと思い始めました。そして、何より、残された時間には限りがあることを考え始めました。

新しいページを開いていく意志を持たなければと思い始めている私がいます。

 

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教育とは②

2022年02月17日 | Weblog

「教育とは流水に文字を書くような果ない業である。
だがそれを巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ。」(森信三)

この言葉に出会って本当に良かったと思います。

なぜなら、いつも心の杖となって支えてくれる言葉だからです。

子供でも、大人でも、私が全身全霊でぶつかって、大切と信ずることを伝えたところで、受け取って下さるかどうかは相手が決めることでしかありません。

思いを届けられない我が身の不甲斐なさと力不足に打ちのめされることもしょっちゅうです。

そんなときに、いつもこの言葉に励まされます。

森信三先生にしてこのような思いにならざるを得なかったのですから、まして、私如きが自在に思いを届けられるはずがありません。

しかし、それでも真剣に心を込めてやり続けるのです。

はかない業と知りつつも、川の流れに筆で文字を書いても、所詮は流れ去るだけだと知りつつも、尋常ならざる真剣さで、巌壁に鑿を振るい続けて岩に文字を刻みつけるような思いで、子どもたち大人たちに思いを届けていくしかないのです。

誰のせいでもありません。問われているのは自分の本気度でしかありません。

 

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教育とは

2022年02月15日 | Weblog

「人間の生き方にはどこかすさまじいものがなければいけません。一点に凝集して、それを達成しなければ、死んでも死なないというほどの執念です。人を教育するよりも、まず自分自身が、この二度とない人生をいかに生きるかに真剣で、教育というのは、いわばそのおこぼれに過ぎないのです。」(森信三)

「教育などできない」というのが、かつて教師だった私の結論です。

単なる知識の授受ではなく、「人間としての在り方を共に修める」ということが、教育の本質だと気づけば、問われているのは自らの生き方だと気づかざるを得ないのです。

ほんとうは、自分で実際にやってきて、掴み取ったものしか、他人様にお伝えすることなどできないのです。やったこともなく、本当に納得していない知識の受け売りなど、本来、教育の名に値しないのです。

「人を教育するよりも、まず自分自身が、この二度とない人生をいかに生きるかに真剣で、教育というのは、いわばそのおこぼれに過ぎないのです」。この言葉は、本当に教育の本質を鋭く突く言葉です。

この真実に気づけば、「教授は能はざるも、君等と共に講究せん」という吉田松陰の言葉の意味が深く理解できます。

「教えることはできない。ただ、君たちと共に学ぶことはできる。」この姿勢しか、親や教師が取るべき姿勢はないのです。なぜなら、「教育はおこぼれに過ぎない」からです。

自分自身が高い志をもって、自分の人生を生きていくことこそが、唯一、他人様に何かをお伝えし、教育まがいのことをさせていただくことへと繋がる一筋の道だったのです。

「(子供や生徒に対して)教育をしています」などという言葉が出て来ていたのは、自分の未熟さであり、傲慢さであり、思い上がりでしかなかったのだと、過去の自分を恥じ入るばかりです。

 

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試されているのは?

2022年02月14日 | Weblog

振り返って見ると、親は子供に色々と試されているように思います。

子供は無意識なのでしょうが、色々とやらかしていくことで、親の愛情や力量を測っていたのではないかという気がします。

そして、それが親としての「研修」だったのだと思います。子供が一歳なら、親としても一年生ですから、共に学んでいくしかないのです。人生を何年生きていようと、子供が一歳なら、親としては一年生。そうして謙虚になることを親は求められているのだと思います。

そこで子にどのように向き合っていくことができたかで、親子の未来も変わっていくのだろうと思います。

なかなか世の中甘くないというか、神様は試練を与えて下さるものです(笑)。

反抗期など特にそうです。大きな試練です。しかし、考えてみれば、これも良くしたもので、かわいい時期があって、それから反抗期を迎えるという順番になっているから凌げるのだろうと思います。これがもし逆だったら、もう、子育てなど放棄してしまえっ!という感じになるのかもしれません(笑)。

子育てに奮闘中のみなさん、頑張りましょう!

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オンラインと対面

2022年02月13日 | Weblog

オンラインの講義をしていて思うことは、理解の幅が狭まり、記憶の定着が弱い感じがするということです。

それは受講者のみならず、講話者の方にも言えることだと感じます。

やはり、人間の記憶は、その時のちょっとした会話の拡がりや、表情や、空気感などと共に記憶されているもののようです。

ですから、オンラインの場合、自分が話したことを記憶している期間があまり長くない感じがします。

また、同じ話を何度もする場合、相手が違えば、その場その場での空気感や、コミュニケーションの内容も違います。だから、それぞれの場合の記憶が、よりしっかりと残っている感覚があります。

オンラインだと、ハンドルの遊びがないというか、聴き手に委ねたり、聴き手から言葉を引き出して膨らませたりという部分がかなり少なくなります。

つるつるした感じの、とっかかりがない感覚ですから、記憶の消滅が早いのだと感じます。

しかし、人間の五感でのコミュニケーションが成立している対面だと、ざらざらした、とっかかりのある感覚で、記憶に残りやすいように感じます。

デジタルネイティブの若者たちがどうなのかはわかりませんが、アウトプットしたレポートを読んでいると、やはり、対面の方が色々なことを考え、また、多くの情報を吸収してアウトプットしている感じがあると私は思います。

なにはともあれ、コロナ禍だからできることにチャレンジし、そこで何が起こっているのかを、私は見定めていきたいと思います。そして、より良い教育実践ができるように改善を重ねていきます。

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子育ての悩み

2022年02月13日 | Weblog

子育てに悩む親御さんは多いものだと思います。

悩み苦しんだ経験のある私は、その悩み苦しみを軽くしてあげるお手伝いができたらと思っています。

しかし、同時に、悩み苦しむことこそが、親としての大切な修業であり、親としての役目なのではないかとも思います。

ですから、たとえ取り除けたとしても、あまり軽々しく取り除いてはいけない悩みや苦しみなのかもしれないとも思います。

でも、それも程度問題ですから、状況次第では、緊急発進をすることにためらいはありません(笑)。

悩み苦しみすぎて、親子共に倒れてしまってはいけないからです。苦労はあっても、楽しかったと思えるのが子育てであって欲しいと思います。

大したお手伝いはできませんが、ちょっと違う角度からボールを投げることぐらいならできますし、かつての親戚のおじちゃん的な役割ぐらいなら、少しだけ果たせるような気もします。

ただ、良き関係性を、お子さんとも、親御さんとも作れていなければ、それはできない相談になります。

だから私も日々、全力で生きていきます。

 

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親として

2022年02月12日 | Weblog

子供の問題を、

親が子供の問題だと思っている限り、良い方向に改善されることはありません。

子供の問題は、親自身の在り方と、心の持ち方の問題なのです。

やっかいなのは、社会人として立派であるということと、親として立派であるということは違うということです。

更に言えば、親として立派である必要も無いし、立派でない方が、子供にとって良い場合がいくらでもあるのです。

独善的な親には、それが見えません。

そのことに気づいて始めて、子供は良い方向に育ち始めていくと思います。

偉そうに説教しているつもりはありません。単に私の話です。

 

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