Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

靴に足を合わせる?

2016年12月31日 | Weblog
足に靴を合わせるのではなく、
靴に足を合わせろというのは、
教育にとっては暴論でしかないと思います。

なぜって、
靴が小さいのに、
足が大き過ぎるといって、
足を切られてはたまらないし、

靴が大きいのに、
足を大きくしろと言われても、
それは無理な注文だからです。

子供たちがいて、
教育があるのです。

教育があって、
子供たちがいるのではありません。



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新しいことを

2016年12月31日 | Weblog
来年の構想を色々と考えています。

同じことをしていては、
同じ結果しか生み出すことはできません。

臨機応変に、
新しいことを思いついて
展開していくことが必要になります。

教育はルーティーンの仕事ではありません。

相手が居て、相手も絶えず変化する存在です。

同じテーマでも、
当然、アプローチの仕方は変わっていきます。

だから、私は「思いつき」を大切にします。

一瞬のひらめきの中に、
大切なことは詰まっているものなのだと
知っているからです。
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わかっているつもり

2016年12月30日 | Weblog
教育の本質を理解している大人が少ないことが、
大きな問題のように感じています。

だから、
教育現場においても、

教育のことではなく、、
お金のことや、効率のこと、体面のこと等が、
優先されていくのです。

そして、
教育は力を失い、

力を失ったが故に、
教育的成果も出ず、
教育者の権威もまた地に墜ちていきます。

希に教育的成果を出し得たとしても、
それは経済の論理によって相対化され、
蔑ろにされていきます。

お金に繋がらないことには価値がないと
心の底の底で思われてしまいます。

誰もが教育を受けてきていますから、
教育はたいしたことが無い
という感覚になっているのかもしれません。

しかし、
その教育だと思っているものは、
受験勉強であって本当の教育ではないのです。

勿論、その中にも学ぶべきことはありますが、
仁義礼智信といった徳目や、
謙譲の美徳といったものが、
一人一人の感覚から
すっぽり抜け落ちてしまっているのです。

その結果、
誰もが自分が一番偉いと思っています。
そして、
更にまずいことには、
そう思っていることに
気づけなくなっているということです。

だから私の声は届かない。

お前なんかの判断より、
私の判断が正しいという声が常に聞こえてきます。

プレーヤーの判断よりも、
監督の判断よりも、
観客席にいる私の判断が最も正しいのだと
言わんばかりのことが横行します。

かくして私の教育実践には、
無理解な大人との戦いというおまけが
いつもついてくることになります。

だから私はいつも自分の席を
いつでも人に譲る覚悟を決めています。

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御用納め

2016年12月30日 | Weblog
今日が御用納めでした。

しかし、
この冬期休業期間の仕込みが、
来年を左右すると思っています。

だから、
私はこの一週間を、
全力で過ごしていきます。

特に来年は変革の一年になると思っています。

あらゆることの見直し、
次のステップへの準備、
新規企画、再検討、練り直し、
一つ一つを考え抜いていかなければなりません。

それにしても、
沢山の人にお世話になりました。

心より感謝申し上げます。



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私の好きな魯山人の言葉

2016年12月28日 | Weblog
芸術家の境涯

魯山人は気難しい奴だと思っている人がいる。
変人だという人もある。
わがままな人だと思っている方もあるらしい。
うるさいおやじだという評もきく。
口の悪い先生だともいわれている。
どれ一つとして私を誉めた言葉はない。

だが、あいつはずるい奴だとか、
いやしい奴だといわれないだけありがたいと思っている。

こんなにいろいろいわれるのは当然だと
私は満足している。
私が人のことを誉めたことが殆どないのだから、
誉められる道理がない。
世の人々からよくいわれようと思えば、
いたってやさしいことだ。

だが、うまくもないものを
うまいというわけにはゆかぬ。
また、資格のないものも
高く評することもできぬ。

たいがいの人は私を嫌いだという。
私が誉めてやらぬからだ。
別にけなすわけではない。
本当のことをいっているだけなのだが、
世の中の人は本当のことをいわれると
さしつかえる人が多すぎるから、
私を敬遠してしまう。

心にもない誉め言葉をいって、
北大路は善人だといわれるよりは、
ひとりぼっちで坐っている方が安らかだ。
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規格外

2016年12月28日 | Weblog
私の使命は、
規格外の人物を育てる
ということだと思っています。

そのためには、
「かくあらねば」とか、
「かくあるべきだ」という
常識に縛られないことが大切になってきます。

しかし、

規格外の人物は、
強固な規格の中に閉じ込められたが故に、
強烈な反発のエネルギーをもって
生まれてくると言うのも、
また一つの真実です。

かくして、

私は私の直感を信じて揺るがず、
瞬間瞬間に、思いつくまま、
自由闊達な教育を行うことを志向するのが
最善の選択ということになります。

しかし、その背景として、
死ぬほど勉強しておくことが必要です。

少なくとも、
そうした背景をもって生まれた思いつきは、
マニュアルによって作られた硬直化した教育より、
多少はマシなものだと私は思います。

なぜなら、
これまでも、
そこに天の啓示が宿るということを
多々感じてきましたし、

少なくともそこには、
私という人間が存在していると思えるからです。

上っ面で耳障りの良いことを言う善人より、
上っ面でない悪人でありたいと私は思います。

その方がよほど正直で、
よほど教育的だと思うからです。






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良いところを見る心を持つ

2016年12月27日 | Weblog
教育には、
人の良いところを見ようとする心が
とても大切なのです。

人はすぐ他人の悪いところに目を向けて
何かしらを非難しようとします。

それは、
当たり前の日常風景ですが、

教育においては、
伸びるものも伸びなくしてしまう、
有害な姿勢です。

信じ続ける力、
それ無しに人は伸びていかないものです。

裏切られても、騙されても、
信じる力が大切なのです。

ネガティブな物の見方や発言は、
ネガティブな方に人の意識を巻き込んでいきます。

だからこそ、
良さを見続け、信じ続けていかなければならない。

簡単に人格や行動の矯正ができれば、
苦労はありません。

私にとっては、
その本人の問題よりも、

自分では教育実践をできもしないのに、
人の批判を安易にする人が存在していることの方が
むしろ大きな問題なのです。

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素心臘梅

2016年12月25日 | Weblog
久しぶりに自宅に戻れた。

朝、出勤する時に、
庭の素心臘梅が一斉に花開いて、
香気を放っているのに気が付いた。

早速、一枝切り取って、
会社に持参した。

会社までの道中、車の中に香気が充満した。
毎年、恒例のことだが、やはり心地良いものだ。

豪華でも華やかでもないが、
人工的に作られた香りとは違う、
嘘偽りのない、素直な香りだ。

父の遺してくれた財産である。

私の教育も、
そうしたものであり続けたい。

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いじめによる自殺

2016年12月23日 | Weblog
いじめによる自殺が後を絶たない。

なぜ、いじめられる側は、
誰にも言えずに
ひっそりと死んでいくかと言えば、

「ちくった」と言われて、
更にいじめられることを恐れるからだ。

相手によって言葉を変える人間は実に卑劣だ。
陰口というやつだ。

貧しくとも、
私はそんな人間には成り下がりたくない。

私は本人に対しても、
世の中に対しても、
同じように言っていこうと思う。

このブログも、
100人を超える人たちが、
毎日見て下さっている。

私の日々の徒然の思いなので、
深読みしていただく必要は無いけれど、

私の嘘偽りのない思いを、
裏表無く言い続けていこうと思う。

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即興劇としての教育

2016年12月22日 | Weblog
私の教育は、
即興劇のようなものです。
アドリブでやっていくことが
大切なのだと思っています。

なぜなら、
常に自分も相手も環境も
揺れ動く存在だからです。

その変化を無視して
台本通りに進行して得られる教育の成果など、
たかがしれているとしか私には思えません。

少なくとも私が生み出す教育においてはそうです。

それを場当たり的と言うのは、
愚の骨頂としか私には思えません。

台本通りの、
マニュアル化された教育がお望みなら、
それをやっていけば良いだけです。
ただ、そこに私は関わりたいとも思いません。

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