Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

誹謗中傷への対策として

2020年05月31日 | Weblog
木村花さんの自殺をきっかけに、SNSでの誹謗中傷を取り締まる法律が整備されようとしています。大切なことだと思います。早急に法整備がなされると良いと思います。

しかし、法律ができても、また、人は必ず抜け道を探し、誹謗中傷をするのだろうと思います。

大切なことは、人間性の教育です。心の問題です。

罪に問われなければ、身元がバレなければ、何を言ってもいいと思う、心根の卑しさを何とかする以外に道はないのです。他者の立場に立ってものを考えることや、相手を尊重して言葉を発することを身につけなければ、何の解決にもならないのです。

電気ショックを与えれば、猛獣も人間に従います。しかし、それは、猛獣が心からの意志で動いているのではありません。

人間も法律や罰則があるからではなく、心からの意志で動けることが理想です。それは困難な道のりではありますが、やはり、法整備とは別に、やっていくべきことだと思います。


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田の神様

2020年05月31日 | Weblog
まだ、私が若い頃に骨董屋で求めた田の神様が我が家の庭にはいらっしゃいます。

日本の古来からの信仰として、山の神様が田の神様になり、また山に戻っていくという考え方があります。

これも素晴らしい体験に根ざした日本人の心だと思います。

山が豊かでなければ、洪水が起こったり、土砂崩れが起こったりします。山の豊かな養分が水に溶け込み、田んぼに水が引かれ、田畑に豊かな実りをもたらします。

実はその水は、川から海にまでも流れていきますから、山の豊かさが、川や海の豊かさをもたらしているというのが、先人たちが経験から得た知恵だったのです。

近代科学技術は、木を切る手間や運ぶ手間は減らしてくれたかもしれません。化学肥料も農薬も、病害虫を駆除し、実りを豊かにしてくれたと思います。良い面はたくさんあります。

しかし、全体としての自然の調和、永続的自然の循環までには、昔の人ほどに思いが至ってないのではないでしょうか。

昔の人は確かに科学的にそうしたことを証明することはできませんでした。自然災害やそれがもたらす飢饉の前には無力だったとも思います。

しかし、本当に大切なことはわかっていたように思えてなりませんし、科学が進歩するにつれ、そうした先人の智恵の正しさも検証されるようになってきました。非科学的だと一笑に付されていたことが、実はそうでもなかったというようなことが、明らかにされることもままあります。

山の神様が、田の神様になり、また山に帰っていくという、単純な信仰の話の中に横たわっている、膨大な民族の叡智に、いつか少しでも触れてみたいと私は思います。

それこそが本当に次の世代に手渡すべき大切なものなのかもしれません。

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隗より始めよ

2020年05月30日 | Weblog
中国から見た日本人の感想めいたことがWEB上にあった。最後の一言が目にとまった。別に誰が言っているかは問題ではない。

「私は日本人が悪であると言いたいわけではない。彼らは極めて誠実で善良だ。ただ、彼らの骨身になんら明確な正義の概念がないだけである。彼らはなにが正しくてなにが間違っているといったことを明言することができないのだ(以下略)。」

この問題。プリンシプルがなく、自分の意見がないというのが、日本人の問題であり続けていると思う。

自分の意見を持つためには、質の高い情報収集能力が不可欠だ。これは私にも足りない。もっと何とかしたいものだと思っている。

いつも感じているのは、誤った情報や、根拠のない話を信じて、意見を言う人たちの多さだ。これは悪気はない普通の人たちだ。これを何とかするには、エビデンスを大切に、ロジカルにものを考えるトレーニングが必要だと思う。

そして、信念を持たなければならないと思う。目の前の不利益に屈することなく、自分を貫いていくこと。そういう日本人でありたいと思う。これは、心を鍛えなければ、なかなかできないことが多い。

隗より始めよ。自分がまずそうであろうと思う。
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人間を生きる

2020年05月30日 | Weblog
ブログ開設から4815日。徒然なるままに思いを綴ってきました。

人生は時間です。ふり返ってみて、たいしたことのない人生だったなぁと思います。しかし、最後の呼吸がおわるまで、何とか頑張って、世の中に一つだけ小石を積んで人生を終えたいと思います。きっと4815日もないのだろうと思います。

私のやりとげたいこと。それは、多くの人のためになる教育を残すことです。

今回の新型コロナ禍でより実感を伴ってわかったことは、人生は時間だということ。そして、人には生きがいが必要だということ。それは志ある人生において得られるものであり、利他の心とともにあるものだということです。

そして、心の持ち方が大切です。

怯懦であってはいけないのです。
なぜなら、誇り高く生きるためには、堂々と信念と勇気を持って生きること、正しい主義主張を持ち、貫くことが大切だからです。

しかし、自らを誇る気持ちがあってもいけないのです。
なぜなら、人は嫉妬や勘ぐりをしたい生き物だからです。そうした邪なものを引き寄せないためには、何も言わないことも時として大切なのです。

しかし、誤解を恐れない強さも必要です。誤解は仕方の無いことだからです。

結局、ひとりぼっちでも生きていく覚悟と、みんなと一緒に生きる覚悟の両方を持たなければならないように思います。

人間を生きるということは、そういうことなのだと思います。



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無明

2020年05月30日 | Weblog
「人の悪(にく)む所を好み、人の好む所を悪む、是(これ)を人の性に拂(もと)ると謂(い)う。菑(わざわい)必ず夫(そ)の身に逮(およ)ぶ。」(『大学』)

人が嫌がることを好み、人が好ましく思うことを嫌う。こういう天邪鬼な人間は、どうにもならないもので、良くないことが必ずその人に起こるというのです。その通りだと思います。

問題は、人が嫌がることが分からず、自分が好むところが正しいと思ってしまえば、この言葉の本質は永遠に理解できないということです。

「己の欲せざるところは、人に施す勿れ」(『論語』)

この言葉も黄金律として人口に膾炙しているものですが、「自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じなのだから、他人にすべきではない」という言葉も、他人の置かれた立場や状況を考えることができなければ、やはり意味を持たない言葉になります。

人がして欲しいと望むことをどれだけしていくことができるのか。人が嫌だと思うことをどれだけしないようになれるのか。

そんな単純なことが、できない人が、世の中には少なからずいます。そんなときに、教育の無力を感じます。

そして、仏教の「無明」という言葉を思い起こします。

Wikipediaには、以下の説明があります。

「十二因縁では、すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説いています。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。」

儒仏混在する考え方になってしまいましたが、何が正しきことかを知ることは、なかなか難しいことのようです。

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問われるメディアの品位と倫理

2020年05月27日 | Weblog
The Page の記事に、タイトルの言葉がありました。
そして、次のように書かれていました。

「しかし、メディアには真実を伝える一方で、弱者に配慮した「書かなくていいことは書かない」「報じなくてもいいことは報じない」の品位、倫理がなければならないと考える。それは決して独立性の放棄でも、自主的な言論、報道規制でもない。」

それは大いに賛成です。

しかし、問題はそれだけではありません。

品位と倫理の失われた報道の原因は、それを好む、品位と倫理の失われた人たちが多く存在するからです。誰も見たくないし、聴きたくないし、読みたくないと思えば、そもそも、そうした報道は存在できないはずだからです。

報道する前の企画や取材の段階でも、「いや、これは品位がないし、人の道に悖るからやめておこう」という会話が交わされれば、そこで終わっている話です。

しかし、そうではありません。人間の劣情や悪しき欲望に油を注ぐような面白さを追求すれば、視聴率が上がるから、それで良いのだと思っているのでしょう。人間の弱さにつけ込んだ、良識のない価値観ですが、それが世の主流なのです。

反論しようものなら、「何堅いこといってるんだ」「まじめぶっちゃって」と非難されていくだけなのでしょう。そうして、私たちがそういう方向に社会を作ってきたのです。勿論、私もそれに加担している一人です。強烈に異を唱え続け、反発し続けなかったのですから。

明治の人たちからすれば、いったいいつから日本人はこうなったのだと叱られそうです。私たちは、自由だの権利だのと主張して、品位や倫理などはみんなで置き去りにしてきたのです。「いや、人間も動物だ。そんな高尚なものではない。」という言に惑わされながら。

確実にメディアの毒は回ってきました。抗う力はありません。司法、行政、立法の三権と並ぶ「第四の権力」と言われるぐらいですから。

しかも、司法・行政・立法は国家として責任を追う立場ですが、マスメディアは大衆を誤導したところで、あるいは、他人の人権を踏みにじったところで、何ら責任はとりません。

そうしたやっかいな存在に、教育はどう立ち向かうのか。私の課題でもあります。



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エクスプレッションアカデミー2020

2020年05月26日 | Weblog
エクスプレッションアカデミー2020のお申し込みを、早速何人もの方からいただき、誠にありがとうございます!

ちょっとここで申し訳ないお知らせです。
6月の岡山ツアーの旅程にある「大原美術館」からお電話いただき、この際、空調設備も全て改修するので、八月中旬まで休館させていただきますとのこと。

「大原美術館」抜きでこのまま岡山ツアーにするか、別の目的地に変更するか、ちょっと検討致します。

確定次第、連絡致しますので、しばらくお待ちください。


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教育とは

2020年05月26日 | Weblog
教育という仕事は、共に笑い、共に悩み、共に喜び、共に悲しみ、という仕事です。決して、事務的にはできないものです。一緒に前に進んで、一緒に後退して、また、一緒に前に進んで、共に成長していく歩みです。だから、いいとこ取りなどはできない仕事です。

伝えたいことが伝わらないのは自分の力不足ですし、届けた思いに返事がないのも、自分のせいですし、そもそも、見返りを求めるようなこともない仕事です。いや、仕事と言って良いかどうかも怪しいものかもしれません。

それでいて、人の成長には様々な要因が複雑に絡み合っていますから、私のやっていることなどは、ほとんど意味のないことである可能性が極めて高いのです。

ただ、それでも全力を尽くして悔いることのない仕事です。
きっと人間が人間を育てると言うことは、そういうことだと思います。

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十悪

2020年05月25日 | Weblog
仏教では十悪という言葉があります。
身口意(しん・く・い)それぞれを使って悪しきことを為すことです。

・身による悪
 殺生 生きものの生命を奪うこと。
 偸盗 人の物を盗むこと。
 邪婬 よこしまな男女の付き合いをすること。

・口による悪
 妄語 嘘をつくこと。でたらめを言うこと。 
 綺語 無意味、無益なことを言うこと。
 悪口 他人を傷つける言葉を言うこと。陰口を言う。誹謗中傷すること。
 両舌 他人の仲を裂く言葉を使うこと。

・意(心)による悪
 慳貪 財物などをむさぼり求める欲。
 瞋恚 いかり憎むこと。
 邪見 誤った見方をすること。

新聞を見ても、TVを見ても、ネットを見ても、この世は十悪に満ち満ちています。ブッダの生きた時代から、人間は立派なものにはなれてはいないのです。

十悪をなくすには、まず、この十悪を知らねばなりません。そして、全てに「不」をつけることが、十善への道です。(不殺生、不偸盗、・・・)
してはいけないことが何かを知り、それをしない意志を持たねばならないのです。

私たち一人ひとりが、こうした悪を乗り越えて行く以外に、世の中を良くする手立てはありません。



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おかしな逆転

2020年05月24日 | Weblog
戦後、日本の総理大臣は、日本で一番たくさんの誹謗中傷を受けている人だろうと思います。

本来、みんなに選ばれた人であり、重い責任を有している人ですから、最も尊敬と感謝を集めても良い人のはずです。

しかし、現実はそうではありません。

自分が代わりが務まるとも思っていないのに、多くの人たちは、罵詈雑言を浴びせかけます。
それが、何か価値を生み出したりはしないし、国益にかなうとも思えません。

国会議員たちは、立場が違う人、意見が違う人には、何を言ってもいいとばかりにヤジを飛ばします。子どもたちはきっとその姿を見て、学んでいることでしょう。選ばれた立派な人たちのすることだから、意見の違う奴にはきっと何を言っても良いのだろうと。

人間の本質はなかなか変わりません。だから、紀元前に語られたような、孔子やブッダやキリストの教えなどは、もう古いから、もっと新しく立派な教えを受けたいものだ、ということにはならないのです。

人格をいかに磨いていくかという修行を重ねていく以外に、世の中がより良くなる術はないのだろうと思います。

遠い、遠い、道のりです。









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