自分が休みたい、遊びたいという気持ちよりも、
未来の子どもたちに何かを遺したいと思う気持ちの方が強くなるようで無ければ、
本当の教育などできるものではないと思います。
そして、教育は、していますとひけらかすものではなく、ただひたすらに実践していくものだと思います。
志にしても、私の志はこうですよとひけらかすものではなく、ただひたすらに、思いを深め、胸に刻み、学び続け、一歩を踏み出し続けるものだと思います。
自分が休みたい、遊びたいという気持ちよりも、
未来の子どもたちに何かを遺したいと思う気持ちの方が強くなるようで無ければ、
本当の教育などできるものではないと思います。
そして、教育は、していますとひけらかすものではなく、ただひたすらに実践していくものだと思います。
志にしても、私の志はこうですよとひけらかすものではなく、ただひたすらに、思いを深め、胸に刻み、学び続け、一歩を踏み出し続けるものだと思います。
人間にも物事にも重みというものがあります。
その人や物事から受ける重厚な、また厳粛な感じです。
しかし、これはなかなか数値化できないし、理論的に説明しにくいものです。
この軽重が理解できない人が多くなったと私は感じます。
木を見て森を見ぬ議論もそうですし、鼎の軽重が問われるという場面においても、何が重いのかわからなくなっているように感じます。また、重箱の隅をつつくような批判や議論も目立ちます。
教養というものはそうしたところで物を言うものなのだろうと思います。
そうした教養につながる教育を軽視したツケはいつか必ず回ってくるのだと思います。
日本の自然や文化や歴史を軽んずる教育は、祖先の苦労を忘れる忘恩の徒を生み出すように思います。
しかし、そうした人たちも、悪気の無い、普通の良い人たちなのだろうと思います。
ただ、そうした人たちは、本当に深いところで感謝の心を持つことも、未来への責任を考えることもできぬ人たちなのかもしれません。
過去・現在・未来は繋がっています。
現在だけを考えて生きると言うことは、やはり、自分のことしか考えてないと言われても仕方が無いのだろうと思います。
過去の先人たちの中には、少なからず未来を生きる私たちのことを考えてくださった方たちがいたと感じます。
それは、私が、自然・文化・歴史を学ばなければ、感じることのできないものであったと思います。
味方であれ、敵であれ、死を悼み、いなくなったことを寂しがったり、懐かしがったりするのが、日本人の人情であったと思います。
戦っても、戦い終わればノーサイドで、互いをたたえ合うのがスポーツマンシップであり、武士道精神であったと思います。
人の死に対して、いつからこんなに醜悪な振る舞いが目立ち始めたのだろうかと思います。
それ以前に、醜い戦い方(足の引っ張り合い、人を人とも思わぬような非道など)が常態化していることが残念です。
そして、そうした大人の振る舞いは、必ず子どもたちも真似ていくものだと思います。
キャリアオーナーシップセミナーを熊本で開催します。
「志の教育」の一環です。
漂うように生きないために、活力ある生き方をするために何が大切か。
全力でお伝えします。
何歳になっても、夢を持つこと、理想を追い求めることを放棄しない人間でありたいと思います。
また、気高く生きることを放棄しない人間でありたいと思います。
何も遺せないかもしれないけれど、せめてその思いだけでも遺せたらと思います。
やはり本当に遺るのは、本当に心を込めたものだけだと学んで来たからです。
他人と較べることを怖れてはならないと思います。
なぜなら、他と比較しなければ、自分の強みも弱みもわからないからです。
しかし、その前提として、自己を確立しておかなければならないと思います。
なぜなら、自分が無ければ、人は比較の中で、劣等感に苛まれたり、不安に陥りがちになってしまうこともあるからです。
自分の信念は、学び続け、鍛え続けなければ確立されるものではありません。
そうした視点が前提になければ、
較べることにも、較べないことにも、良き意味は生まれないと思います。
安倍元首相の葬儀が行われます。
哀悼の意を表したいと思います。
反対のデモがあるのは政治家として仕方の無いことかもしれません。
特に、あたりさわりなくやってこられた方ではないので、已む得ないのでしょう。
しかし、私は1人の日本人として、亡くなった方へ哀悼の意を表することや、
日本のリーダーとして多くの成果を生み出した方に敬意を表することは、
とても大切なことだと思います。
亡くなった方の、政治的信条が異なろうと、
仮に何か大きな瑕疵があろうと、私は「人の心」を忘れたくはないと思います。
死者をむち打つような人情酷薄な社会を目の当たりにして、これではいけないと思います。
誰であろうと、人の死は、敬意と悲しみと共に、静かに送り出すことが、
人としての礼儀だと私は思います。
スーパーで買ってきたちりめんじゃこを食べていて、
ふと、「あぁ、子どもの頃も食べていたなぁ」と思い出しました。
子どもの頃の食の記憶というものは、
それほどまでに残るものなのかと思いました。
何十年も記憶の表層に出てくることが無かったものが、
なぜか今日の夜、ひょっこり出て来たのです。
私たちは、その場で子どもにわからせることを
教育だと勘違いしているのではないかと思います。
そうではなく、何の見返りも求めずに、添加物の無い、自然で新鮮な食を与えられていたことも、実は大きな教育だったのです。
そして、それは何十年か後にしか、思い出されないようなものかもしれません。
しかし、それはしっかりとその人間の一部になって残っているし、次の世代へと伝えていくことができるものなのです。
これほど大きな教育はないと私は思います。
当たり障りのないことを言ったり、やっていた方が、その場はうまくいくのだろうと思います。
確かに当たり障りのないことを言っていた方が、多くの人に受け入れてもらうことができますし、反対して足を引っ張る人も出て来ないと思います。
しかし、信念のないところに、教育の発展も、世の中の進歩もないのだろうと思います。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
と詠んだ、吉田松陰先生の境地には、遠く及びませんが、やはり、妥協をしてはいけないと思います。
心を尽くして、角が立たぬように心を配りつつも、言うべきことは言わなければならないと思います。
ただ、それ以上に、私はやるべきことを黙ってやり続けていようと思います。
最近、色々な人のコメントを読んでいて思うこと。
「その通りですね。で、どうするの?」
分析や論評は的確でも、そこから先がないのが気になる私です。
「で、どうするの?」
今日も、この言葉を胸に突きつけながら、一歩一歩前進します。