「世襲は良くない」という声を耳にすることがあります。政治の世界でも二世議員、三世議員への批判が大きくなることもあります。確かにどこの世界でもあまりよろしくない二世、三世も沢山いると思います。二代目、三代目が会社を潰したという話もよく聞きます。しかし、創業者以上に立派な二代目、三代目が数多く存在していることもまた事実です。創業と守勢、いずれも難きものであり、それぞれに違う苦労がありますから、それを乗り越えて成功し続けている人たちの努力は、大変に敬服すべきものだと思います。
また、能・狂言・茶道・華道などの伝統芸能や伝統文化は、第何代家元がいて、脈々と受け継がれているからこその重みがあります。個人の一生では到底生み出し得ない深い世界を、世襲によって、何代もかけて受け継ぎ、磨き上げ、祖先の叡智と共に創造し続けることができるのです。個人の才能の燦めきも素晴らしいと思いますが、時代と共に受け継がれ、熟成されている芸術や文化もまた素晴らしいものだと思います。
そもそも私たち人間は、過去や未来と断絶した存在ではありません。多くの先人たちが築いてきた過去の尽力の上に今があり、今を築いている私たちの後に、未来の人たちが存在します。世襲の否定はともすれば、そうした祖先の努力や次世代への思いの否定ともなり、過度の個人主義へとつながります。エドマンド・バークは、「祖先を顧みようとしない人々は、子孫のことも考えまい。」という言葉を遺しましたが、今の世相はまさにそのような姿ではないでしょうか。過去や未来の軽視とは、親や先祖の軽視と、子や子孫の軽視に他ならず、自分の個人的損得や自己愛だけを価値判断の中心に据えてしまえば、それはいずれ、親子の断絶、世代間の断絶を招くことにつながります。
問題は、世襲か否かではなく、あくまでもその本人の考え方と生き方がどうであるかです。社会のリーダーたちへの批判も必要なことだとは思いますが、それが故なき批判になってはならないし、批判する側の囚われや思い込みや偏見であってはならないと思います。
今の自分があるのは、自分の力だけではなく、多くの祖先たちの努力の上に成り立っているのだという、感謝と謙虚な気持ちを忘れぬ世襲であれば、それは善きものになる可能性が高いと思います。個人であれ組織であれ、良きものが受け継がれていくことは、素晴らしいことですし、従前のものをさらに良きものになるよう磨いていけば、一世代では到底成し遂げられなかった大きな財産を世の中に残すことができます。
政治にせよ、教育にせよ、芸術にせよ、子供の頃からその分野に触れていれば、それは大きなアドバンテージとなります。友人にしても、父祖の代からの家族ぐるみの交流である方が、友情も信頼もはるかに厚みのあるものとなる可能性がでてきます。そうした個人と個人の良きつながりは、家族と家族の良き結びつきとなり、やがては国と国との良き結びつきとなるのだと私は思います。そう考えていくと、有権者としての学びには、社会的知識のみならず、人間観・社会観を磨くことも大切なのだろうと思います。