Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

共に学ぶ

2012年10月30日 | Weblog
志の教育をテーマに、
全国各地で教育実践をさせていただいて思うことは、
「共に学ばせていただいている」ということです。

一教師であったときに、
なぜ、あんなに上から目線でいられたのか、
今となっては不思議でたまりません。

たいしたことも教えてはいなかったし、
人間としてもたいしたことはなかったのに、
なぜ、あんなに偉そうに教えていられたのだろうかと思います。

そして、その感覚は、
今もなお、日本の教育現場に脈々と続いていると思います。
それが一番の日本の教育界の病なのかもしれません。

「志」をテーマに学んでいると、
子どもも大人も関係なく、
共に学ぶ、「同士」でしかないのだと痛感します。

子どもたちは私より遙かに優れた人間になる。
子どもたちは私より遙かに社会に貢献することができる。
そう信じています。

二度とない人生を、
同じ時代を生きる事ができるという
貴重な邂逅を果たしているのだと思えば、
自ずとその出会いに敬意を払い感謝せざるを得なくなります。

問題は、教える側がそのことに気づくかどうかだと思います。

教育をしてあげているのではなく、
教育をさせていただく尊い機会を与えられたのだと
深く実感しない限り、
たいした教育はできないのだろうと思います。



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公か私か

2012年10月30日 | Weblog
インターネットの世界をどう見るか。

私は「公」の世界だと思ってつきあっています。
相手が個人であってでもです。

まして、誰か分からない人と
コミュニケーションしようとは思わない。
本当に接触したいなら、
アポイントを取って訪ねて来れば良いのです。
話はそれからです。

少なくともまともな目的をもって、
人と人が関わりを持つということは、
そういうことだと私は思っています。

また、
私的であれ公的であれ、
故意か否かを問わず、
メールもどう転送されるか分かりませんし、
発言も内々の発言では済まないことが多いものです。

そもそも人間社会において、
「ここだけの話」などというものは、
存在しないと私は思っています。

だから、ネットでは、
いつも公に対する発信と思って、
360度注意しながら、発言していくしかありません。

それでも反発を受けることはあります。

価値観は多様ですから、
防ぎようのない誤解や、
見解の相違はあって仕方がないと思います。

言葉の難しさを、
そして、
言葉に対する自分の未熟さを
私は日々痛感しています。

だから、
とてもつぶやきの言葉などを
発する自信がないのです。

それが時代の流れに対して、
遅れていると言われればそうなのでしょうが、

それでも私は、
言葉に対する誠実さを選びたいと思います。

何年、何十年という
深い思索の時間を経て紡ぎ出された
言葉の迫力の方を私は信じたいと思います。

また、
情報ツールを使いこなそうが使いこなすまいが、
そのこと自体に価値があるのではなくて、

結果として、
人生・仕事の成果が、
社会にとってどれだけのものになったかが
大切なのだと私は思っています。

私たちは、ネット上で言葉を発することの意味は何か?
ということを明確に意識する必要があるのかもしれません。

それは自己顕示欲からではないか?
それは自己満足のためではないか?
それは孤独を癒やすためではないか?
それは欲望を満たすためではないか?
それは強迫観念からではないか?

私的な動機であれば、
一時的に意気投合したとしても、
必ずノイズは発生するものだと思います。

まずは、
ネット上であれ、現実の社会であれ、
「公私の別」という感覚をこそ、
私たちは磨いていくべきなのだと思います。

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学び続ける

2012年10月26日 | Weblog
未熟な人間が執り行う政治は、
未熟な政治にならざるを得ない。

未熟な人間が行う教育は、
未熟な教育にならざるを得ない。

あたりまえの話である。

そうすれば、なすべき事は一つ。

自らを立派な人格たらしめんとする努力を
日々、真剣に行うことである。

そして、そのためには、
自分自身がもっと学び続けなければならない
と痛感する謙虚さを常に持ち続けることが大切である。

それしかないと思う。
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新しいリーダー

2012年10月25日 | Weblog
石原都知事の国政出馬表明を受けて、
一人の知的な人物が、
「新しいリーダーは出てこないものですかねぇ」
と発言していた。

これが今の日本を象徴していると思う。

つまり、それは、
年寄り=ダメ、若者=OKという非論理的な感情論であり、
私は行動しないけど、
誰かちゃんとやってよ!
という他力本願の発想である。


リーダーに必要なものの一つに「哲学」があると思う。

それは、時間をかけて磨き抜かれるものである。

「哲学」と言ってわかりにくければ、
人間観や国家観といったものを含んだ
「人間としての重み」と考えても良いと思う。

重みや深み、迫力を持つためには、
数多くの実体験から身につけた経験知や洞察力を持ち、
数多くの批難や批判をくぐり抜けて身につけた胆力を持たなければならない。

どんな世界でも、矢傷、刀傷を負わないリーダーはいないのである。

そんなことへの想像力に欠け、
また、敬意に欠けている言論人が多いのではないか?

自分が身を捨ててでも
批判しただけのことは実行してみせるという気迫や、

他力本願みたいなことを言いつのるのは、
人間としての品位に欠けるという含羞を持つことが、
すっかり失われてしまったのではないか。

そのことこそが日本社会の大きな問題だと私は感じる。








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真実に手が届くか

2012年10月24日 | Weblog
世の中で大きく成功を収め、
社会貢献していく人たちは一握りである。

その一握りの人たちは、
信念を枉げず、勤勉で、努力家で、誠実である。

多くの人たちは、

「いや、人間というものは、そんなに強いものではない。」
「いや、人間というものは、そんな上等な存在ではない。」

このように言う。

そして、事実、そう信じ、そのように行動する。
それもまた一つの厳然たる事実である。

しかし、
純粋に、愚直なまでに、
人類がこれまで美徳として来たことを身につけようと、
日々誠実に努力をし続けた人たちのみが、
大きな存在になっていく。

これもまた厳然たる事実である。

真実は変わらないのである。

しかし、その当たり前の真実を見る側が、
それが真実だとは信じ切れないから、

多くの人たちは、
適当なところで妥協し、
それが世の中の現実だという。

言い換えれば、

理想を夢のようにはかないものだと勘違いし

「夢のようなことばかり言ってないで現実を見ろ。」
「早く大人になれ。」

と言う。


私は、いつまでも愚直であり続け、理想を追い続けようと思う。
誠実に努力を重ね、孤独を恐れず、戦い続けようと思う。

しかし、それは、孤独でいることではない。


不思議なことに、
自分の中に衆を頼む気持ちがあったときには衆の心は遠かった。

しかし、
自分の中に衆を頼む気持ちがなくなったときに、
一人でもいいから一隅を照らす生き方をしていこうと決めたときに、
衆の心は反対に近くなった。

それもまた真実である。










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宮崎にて

2012年10月23日 | Weblog
宮崎シーガイアのシェラトンに泊まっています。

ここは、部屋のソファから海が見え、
防音もしっかりしていて、調度もしっかりしているので、
落ち着いて物を考えるのにとても良い空間です。

すっかり気に入りました。

朝早くから出かける予定でしたが、
ゆったり&部屋でお仕事のモードに切り替わりました。


昨日の講演でお会いした皆様は、
思いがあり、パワフルでした。

私自身、改めて志高く生きようと
決意を新たにしました。

また、どこかでお目にかかれますことを楽しみにしています。
ありがとうございました。
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自立する大切さ

2012年10月21日 | Weblog
私の父は、
私によく庭仕事や畑仕事をさせた。

私の生まれ育った家は、
ちょっとした丘の中程にあった。
申し訳程度に土地を切り開いて、
家を建ててあったので、
開墾作業に近いことを私も子どもの頃に体験できたのだ。

裏山では、
鋸や鎌や剪定ばさみを使って、竹や木や草を切ること。
竹の切り株を踏み抜かないように注意すること、
ハゼまけしないように長袖を着て作業すること。
アケビやムベや栗をとって食べる喜び。
蜂やムカデや毛虫への対処の仕方。

庭の作業では、
土地をよく見て、
雨水がうまく流れていくように溝を作ること。
雨水に土が流されていくので、よく土を踏み固めること。
時にバラスや砂を入れること。
ツルハシやスコップ、鍬も三つ叉もよく使った。
一輪車で土を運ぶこともあったし、
木や竹を切って燃やすこともよくあった。

セメントも捏ねた。
足の悪い父に代わって庭石も配置した。
筧も作って蹲いに落ちる水音を楽しんだ。

庭の木々は、
実生のものが多く、
梅、杏、栗、胡頽子、ザクロ、イチジク、サクランボ、フェイジョア、
様々に食べて楽しんだ。

家の周りの溝には、野生の芹が生えていて、
芹ご飯を作ったりした。

土筆やヨモギも生えていた。
父は土筆の卵とじや、ヨモギ団子も好きだった。


何が言いたいのか。

私の時代には、
私が自立できるような教育を受けていたということである。

自分で何でもやってみて、考えて、自分の力で食べていく。
いつも自然は偉大な先生だった。
そして、その自然に向き合い、
克服しようとする父の姿もまた偉大な先生だったのだ。
何よりそれが私たちの日常だったのだ。

現代は、バーチャルな時代、
何でもアウトソーシングできてしまう時代になった。

しかし、人間も自然の一部でしかない。

危険を感じ、汗を流し、不快感を感じ、
それを乗り越えて生きていく生活は、
本当に私たちを血の通った人間にしてくれた。

私たちは貧しかったし、苦しかった。
暑かったし、寒かった。
不便だったし、辛いことも多かった。

だが、そのために人間らしい人間として育つことができた。
それを忘れてはならないと思う。

今日の私の旺盛な自立心は、間違いなくそこから来ている。

多くの若者たちが自立できなくなった今、

私たちは人間が人間として、
自立して生きていくことの価値と大切さを
伝えなければならないのだと思う。










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衝撃の!

2012年10月19日 | Weblog

ラジオ体操第4。



http://www.youtube.com/watch?v=Ep4JAf8hECE





・・・ぜったい、無理。

てゆーか、誰がやるの???


第1を10000回やっても、
できるようにはなりません。

あ~、びっくりした。








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あたりまえのこと

2012年10月18日 | Weblog
約束を守る。
時間を守る。
正直である。
努力をする。

私たちは子どもの頃から当たり前のことを習う。

しかし、
この当たり前のことは、
一生かかってもなかなかできないものである。

そして、
その大切さを
本当に心の底からわかるということも
なかなかできないものである。

こうした目新しくもない
当たり前のことを
日々実行し続けた人が、

素晴らしき人となるのだと思う。



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自分の影に怯える人々

2012年10月12日 | Weblog
自分の影に怯える人々が多くなった。

自分の過剰な自意識による、
善意、愛、謙虚さ、自負、正義、正直は、

悪意、憎しみ、傲慢、嫉妬、悪意、嘘として、
鏡のように正確に自分に返ってくる。

そして、己が投げた物と、
返ってきた物とのギャップに恐れおののく。

しかし、実はそれは、
正確に自分の元へ返って来ているだけなのである。

自分の自意識が、
鏡を歪めていることにこそ気づくべきなのである。

自分のところに返ってきた物を投げ返そうとするその刹那に、
自分が今まさに、投げ返そうとしている物をよく見てみるがいい。

それこそが、本当に自分が投げたものの正体だったのである。

鏡の歪みを正すには、
自分の心をまっすぐにするしかない。

それは、つまり、自分のなすべき事を、
粛々と成し遂げていくと言うことである。

誰も見てくれなくてもいい、
誰からも認められなくていい、
誰にも褒められなくていい。

ただ、ただ、一つ一つの小石を
しっかりと積み上げていくと言うことである。
そして、そこに喜びを見いだすと言うことである。

自分の人生の喜びを、
友人でもなく、
自分の幸せを願うでもない他人に左右される必要はどこにもない。





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