Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

沖縄

2015年06月30日 | Weblog
沖縄にある専門学校の職員の皆様と
共に学ばせていただく機会を得て、
沖縄に来ています。

沖縄は2回目ですが、
色々な名所旧跡を回ったことがありませんでした。

ひめゆりの塔にも行き、
首里城にも行きました。

多くのことに気づくことができました。

この島は、
沖縄の方のみならず、
多くの県の方々の命が失われた場所であるということ。

この島は、
日本と中国の間にあって、
独自の歴史と文化をもって歩んできた場所であるということ。

なんとなくしかわかっていなかったことが、
多少、リアリティを伴って、感じられるようになってきました。

特に、宗教というか、お墓の形というか、
死語の世界観というか、うまく言えないのですが、
原初の形のようなものを感じることができました。

リゾート地をカッターシャツとスーツで歩くという、
実に間抜けないでたちにはなっていますが、

今回は、やはり慰霊と鎮魂の念の方が勝っているようです。
読み切れないほどの、たくさんの本も買い込みました。

学び続けるだけです。








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疑心暗鬼を生ず

2015年06月24日 | Weblog
疑心暗鬼を生ず。

人は、疑心があると,
何でもないものにまで恐れや疑いの気持ちを抱きます。

私自身、
そうした見方をされることがありますし、

私の尊敬する方々も、
時としてそうした見方をされていることに遭遇します。

しかし、

もうそうしたことには振り回されなくなりました。

人は自分の物差しでしか、
他人を見ることができないということが、
痛いほどわかってきたからです。

正しく物を見ると言いつつ、
所詮は、自分の物差しでしか見ることができないのです。

私自身もそうなのです。

だからこそ、
自分の心を真っ直ぐに保っておこうとすることや、
裏表のない生き方を貫こうと努力することが、
とても大きな意味を持つようになるのだと思います。

そして、その前提として、
相手を信じる力が自分の中に必要なのだと思います。

また、
相手を忖度することや、
天地自然の理法を知ることが必要なのだと思います。

自分自身が心の闇を抱えているから、
自分の心が鬼を生み出している。

ということは、

如何にして自分の心の中に闇を作らぬよう
心を磨く努力をするかということの中にしか、
安らかに生きる道筋はないのだと思います。
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志の大切さ

2015年06月24日 | Weblog
志の本当の大切さは、
志を持って生きてみて初めてわかるものです。

志について、
評論家のように話してみても、
そこには何の価値もありません。

そして、

志が年々確固たるものになっていって初めて、
以前の自分の志が、
如何に脆弱であったかということに気づくものです。

だから、日々の成長がなければ、
本当の意味で志が立ったとは言えないものです。

志は、
確固たる不動のものであるが如き存在感を放ちつつ、
一方で、
日々、生成発展する姿を見せ続けていくものでもあると思います。

言わば、無窮なるものだと思います。




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感謝し更なる前進を

2015年06月22日 | Weblog
私の今日があるのは、
多くの方々に支えていただいてきたからです。
本当に感謝に堪えません。

ただ、私自身の意志も
少なからずそこには反映されています。

会社を辞めて、大学に行き、
教職を取ろうとしなければ、
今日の私はありませんでした。

そうまでしてなった、
県立高校の教師を辞めるという決断をしなければ、
今日の私はありませんでした。

捨てなければ得られないのです。

ただ、一部上場企業の社員の地位、
教育公務員の地位を捨てていくのは、
当然に不安が伴うものでもありました。

特に二度目の決断は、
さまざまな要因が絡み合ったものであり、
逆境の中での決断であったと言えるでしょう。

しかし、最後は、自分で決断し、行動するしかないのです。

人生は一度限りです。
どんなに知識を得ても、財を為しても、
あの世に持って行くことはできません。

だから、無私の心で、得た物も、
次の世代に手渡していくしかないものなのです。

それが教育の根底に流れている心だと思います。

だから、本当の教育とは、
惜しげも無く、
自分の持てるもの、得てきたものを、
与え続ける営みだと思います。

しかし、
それは決して失い続けているのではありません。
むしろ、多くのものを皆様から頂いているのです。

そして、与え、与えられる人生は、
豊かであり、幸せです。

失うことを恐れ、少しでも損をしないようにと、
得た物を守ってみても、決して心は豊かにはなれません。

私は経済的には豊かでなくとも、
豊かな心で多くの人たちに向き合っていきたいと思います。


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夢を思い描く力

2015年06月19日 | Weblog

夢のようなことを実現させていき、
素晴らしい人生を生きるためには、

「夢を思い描く力」を持つことが大切です。

「夢を思い描く」ということを、
私たちは言葉によって行います。

他の動物と違って、
人間が夢のようなことを実現していくことができるのは、
この「優れた言葉の力」を持っているからにほかならないと思います。

夢は、まず思い描かなければなりません。
それは、楽しい心で、利他の心で、大きな夢を思い描くことです。

それが私たちに大きな力を与えてくれ、
社会変革の大きな力となっていきます。

私利私欲に生きる人生、
楽しい夢を思い描かない人生は、
私の求めるものではありません。

私たちにとって大切な学びとは、
偏差値を上げるための勉強ではなくて、
夢を思い描く力を磨く学びではないかと思います。
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学は

2015年06月18日 | Weblog
「学は人たる所以を学ぶなり」(吉田松陰)

学問の目的は、

何故この世に人として生を受けたのかを
知ることだと思います。

それは、つまり、
自分のミッションに気づくことであり、
志高く生きるということです。

偏差値に一喜一憂するのが教育ではないのです。

人間の生き方に、行動に、変革をもたらすのが
教育なのだということが、やっとわかってきました。

「教育とは何か」

この答えの無い問いに、
ずっと向き合ってきて、
本当に良かったと思います。



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経営と教育

2015年06月15日 | Weblog
経営には迅速な判断が求められます。
今の環境の変化にも敏感でなければなりません。
変化への対応力が必要です。

一方で、

私の教育は、思想や哲学の分野にまで踏み込み、
深く深く思索に耽って、言葉を紡ぎ出していくことを、
非常に大切なものと考えています。

勿論、流行の部分も見定めていきますが、
不易なる部分をこそ大切にしなければなりません。
人間教育というのは、
人間の不易なる部分に光を当てたものにならざるを得ないと思います。

会社として経営と教育の両方を実践して行くには、
効率と非効率の極みの両者に
左右の手を引っ張られながら生きていくしかありません。

ただ、幸いにして、私の優先順位は明快です。

一人の教育者として、深く学び続けていくこと。
そして、次の世代に、大切なことを伝え続けていくこと。

それが最優先事項です。

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自分というフィルター

2015年06月11日 | Weblog
人は、
自分というフィルターを通してしか
物事を見ることはできません。

ゴシップがたまらなく好きな人たちにとっては、
世の中はそうした事ばかりで
動いているように見えることでしょう。

しかし、

良き理想を掲げ、
勤勉や誠実や努力といった価値を信じる人たちにとっては、
世の中はそうした価値観で動いているように見えます。

どちらが正しいかではありません。

どちらの生き方を自分が信じるかということです。

私は後者を信じます。

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教育の大切さ

2015年06月05日 | Weblog
人の人生は、その人の「心の持ち方」に大きく左右されます。

人として如何にあるべきか。
どのような心の持ち方をし、
どのような習慣を身につければ幸せになれるのか。

そうしたことは、学習できる部分も多分にあると思います。
私自身もそうした経験をしてきました。

しかし、
今の学校教育の中では、
どれぐらいの時間をそこに割くことができるのか?
誰がそうしたことを教えるのか?

教育者が学ぶべき事は多岐にわたります。
心の問題は、様々なことによって影響されるものだからです。

そのことを教育に携わる私たちは、
死ぬほど真剣に考え続け、学び続け、理解を深め、
行動を起こし続けなければならないと思います。

それほど重要な役割を私たちは担っているのです。

悲しむべきは、
そのことを教育を授ける側が、
ほぼわかっていないということです。

私自身も以前はそうでした。

子供たちが立派に育っていないのは、
子供たちのせいではありません。

大人たちがどう学んでいき、
どのような生き方を示していくのか。
示している姿勢や後ろ姿が問われているのです。












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一人歩く

2015年06月04日 | Weblog
私は多くの方々に支えられて教育をしています。

それでも一人歩くことを思うのは、
いつも一つの言葉が、
心の中にこだましているからでもあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本の教育を進めるには、
必ずしも大臣になり、
あるいは文部の役人となる必要はない。
また県の教育課長、視学官になる必要もない。
真に教育を理想とするなら、
学校の教師になる必要もないくらいである。(中略)

むかしの立派なる教育家貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等は
みな塾を開いたことはあるが、
今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。

藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。
人そのものが教育である。

人が真に教育家なら笑っていても教育になる。
寝ているのも教育になる。
一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。

われわれの目的および理想が教育であるなら、
全身その理想に充ち満ち、
することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。


        新渡戸稲造「自警録」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして、

萩往還を歩く研修も、
20年の時を経て、
ようやく多くの方に
その意味を理解して頂けるようになりましたが、

私の心の中には、
夏の暑い日に、
炎天下を一人歩き続けた自分の姿があります。

一人で歩いてみて、
この道を歩こうと思ったのです。

今、幸せなことに、
大勢の仲間と共に歩いています。

私の仕事も人生も同様に、
大勢の人たちに支えられて成り立っています。

しかし、一人である覚悟を
決して忘れてはならないように私は感じています。

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