自分ができている些細なことを、他人ができていないから、その人格を否定するようなことが世間ではよくあります。
私は、それは間違っているし、愚かだなことだと思うので、そんな考えはしたくありません。
なぜなら、人はそれぞれに強みや、良い所は違うからです。瑕疵だけを見て、他にできることや、良い所が沢山あることを見ようとしないのは哀しいことです。
自分が常識と思っていることも人によっては違います。
この社会には、経済的にものすごく豊かな人もいれば、ものすごく貧しい人もいます。品行方正な人もいれば、反社会的な人たちもいます。
そうした様々な人たちに出会う機会が無ければ、私もそのことを気づかなかったかもしれません。
大人になった今が豊かでも、ひょっとしたら、貧しい暮らしをして苦労をしてきた人かもしれません。それぞれのバックボーンがありますから、私は、共に過ごしてくださる全ての人たちに、深い敬意と感謝の気持ちを持っていたいと思います。
他人に対して「基本的なことが出来ていない」と否定するのであれば、自分が教育をしてみたら良いのです。
「いったいどんな教育を受けたのか」などと無責任に言っていますが、自分が教育をしてみれば、いかに人が何かを身につけていくことや、習慣にすることが難しいかということはすぐにわかります。
他人に対して、教育が悪い、躾が悪いと言っても何も変わりはしません。そう言うのであれば、自分がその人を変える努力をすれば良いのです。
でも多くの人は、次の瞬間に、「なんで私がやんなきゃいけないんだ。」と言います。自分の子どもでもないのにと。
しかし、みんながそう思っていれば、確実に、社会全体のモラルや教養や教育力は低下していきます。
他人を変えるなどということは容易なことではありません。子どもでも、大人でもそうです。それどころか、自分自身を変えることも、そのために自分自身が学び続けることも容易なことではありません。
だから私は、日々、自分の無力さに絶望的な気持ちになります。
本当に大したことなどできないのです。祈るような気持ちで共に学ばせていただくだけです。
そして、無力さを痛感しつつも、また、大したことないと非難されつつも、それでもやり続けていくだけです。それが教育を変えていくということだと私は思います。
私も人の子ですから、やらない人にとやかく言われたくない気持ちも無くはありませんが、それは仕方の無いことだと思っています。
だって、やったことないからわからないだろうし、視野が狭いから、自分の常識が全ての常識だと思うしかないだろうと思うからです。
もっと多くの人たちに、想像力の大切さと、人を愛する気持ちの大切さを伝えられたらと思います。これもまた、私の力不足です。
まずは、自分を成長させるために、必死になって、一日、一日を過ごしていくことから始める以外に道はないと思っています。