一歩一歩、教育実践を積み重ねていきます。
子どもたちと共に、笑いながら過ごしていきます。
一方で激しく己の学びを深めていきます。
教育以外のあらゆることと距離を置きながら、
良寛さんにあこがれつつ、
自分の道を一歩一歩、歩きます。
一歩一歩、教育実践を積み重ねていきます。
子どもたちと共に、笑いながら過ごしていきます。
一方で激しく己の学びを深めていきます。
教育以外のあらゆることと距離を置きながら、
良寛さんにあこがれつつ、
自分の道を一歩一歩、歩きます。
結局、私はFacebookでもTwitterでもなく、
ブログに落ち着くようです。
私がやっている活動のPRとしては、
それでは不足なのでしょうが、
どうやら私は、自己顕示欲が、
あまり強くはないようです。
私が何をしたかではなく、
それを受けた人がどう受け止め、
どのような変化が生じたのかを知りたいと思います。
私が何をしているかはどうでも良いことのように
思えてならないのです。
少し内省を深めながら、
自分と向き合い、
活字に落とし込んでいく作業の方が、
私には向いているるのだと思います。
読みたい本が沢山あります。
読み直したい本が沢山あります。
後者にはゆったりとした時間が必要です。
目先のことにばかり追われていれば、
なかなかその時間をとることは出来ません。
大切なことをじっくり反復して学び直すことも
大切だと思います。
それでしか深く学ぶことは出来ないからです。
すべての仕事がそうですが、
教育も一つ一つの精度を上げていかなければなりません。
自分の言葉一つ、自分の振るまい一つ、
生活の一つ一つ、生き方の一つ一つが、
教育として滲み出てくるものである以上、
自分の生活と仕事へのこだわりと、
やることの一つ一つの精度を上げていくしかありません。
何となくやっていないか。
鈍くなっていないか。
無精になってはいないか。
自分にもっと厳しくあらねばと思います。
なぜなら、その人間の甘さは必ず伝わるものだからです。
コピーの取り方一つ、ホチキスの止め方一つ、
その人の心構えがわかりますから、
私も精度を上げ続けなければなりません。
目に見えないからといって手を抜くようでは、
生ぬるい仕事しかしていないと思われて当然です。
今、寺子屋でやっている教育は、
6・3・3の12年間と大学受験のための学びではなく、
50年近い社会人生活で活かすことの出来る学びだと自負しています。
しかし、学校教育で刷り込まれてしまった固定観念との闘いは、
所詮は多勢に無勢、
ごまめの歯ぎしりみたいなものでしかありません。
しかし、それでも私はもっと激しくやり続けます。
それが大切だとわかった以上は、
身を殺して仁を為す覚悟が必要だと思います。
大げさに聞こえると思いますが、
そうでもないかもしれません。
AIが発達していき、
人間の代わりとなることが増えれば増えるほど、
人は何のために生きるのか、
人は何のために学ぶのか、
人にとって何が幸せなのか、
といった哲学的な問いと、
「志」という社会貢献への思いを持つ目的意識が、
大切になるのだろうと思います。
また、「豊かに生きる」ということは、
結局は人との関わりの中でしか実現しないと思います。
だから、ますます人としての在り方が
問われていくのだろうと思います。
だから、結局、教育は、
「志の教育」という、
教育の原点に回帰していくことになるのではないかと
私は思っています。
私の中で、謝るとは、「ごめんなさい」と心から言うことだし、
感謝するとは、「ありがとう」と心から言うことだと思います。
「申し訳なく思っています。」という言い方は、
どこか他人事のようで、責任を感じているとは思えないし、
「感謝しています」という言い方も、
あまり心が伝わらないと感じます。
「○○と思っている」「○○している」という言い方は、
「○○」の部分は色々と主語をすげ替えて使える言葉です。
「私は○○と思っている」「彼女は○○と思っている」
「私は○○している」「彼は○○している」
一方で、「ごめんなさい」「ありがとう」は、
主語を置けない言葉です。
「私がごめんなさい」「私がありがとう」とは使えません。
つまり、自分自身の感情であることが大前提であり、
他人に思いを伝えるための、ストレートな言葉だと思います。
言質を取られないようにと気を遣わぬ生き方をしたいと思います。
言葉が消費され、力を失った時代に、
私には何が語れるのだろうと思います。
とにかく誠実に真摯に、
行動を背景とした信念と共にある言葉を
紡ぎ出すしかありません。
それしかできないし、
人生も教育も、
結局は、言葉と行動の総体でしか在りません。
私如きのやることは、
たいしたことにならないのはわかっています。
しかし、それでも一歩一歩
踏み出し続けるしかないと思っています。
昨日はバッカーズ九州寺子屋のホームカミングデイでした。
久しぶりに再会できたこと、卒塾生の皆さんが、
それぞれに頑張っていることを大変嬉しく感じました。
昨日は、父の命日でもありましたが、
教育者であった父は、私が墓参りに行くよりも、
子どもたち若者たちと共にあることを、
きっと喜んでくれているだろうと
勝手に思っている自分がいました。
コロナで少し絆が弱くなったところも感じましたので、
改めて新しいスタートをと誓ったところでした。
他人のために見返りを求めることなく、
嬉々として動く人がいます。
一方で、
他人のために自分が何かすることは、
自分の時間が失われることであり、
損をすることだと思う人がいます。
そうした心根の違いはちょっとしたところに表れます。
人としての未熟は隠しようがないのです。
与える人たちは、互いに与え合いながら、
感謝の心と共に楽しく生きていく人たちです。
与えない人たちの多くは、
与えられることも少なく、
感謝を本当の意味で理解することもなく、
奪われる不安におびえながら、
日々、生きていくことになる人たちのようです。
私は幸せな世の中になるように、
少しでも何かを与えることが出来るような
そんな人になりたいと思っています。
私は何も持っていませんが、
誰かのために時間を使うこと、
身体を使って汗を流して働くこと、
ささやかですが、できることをしようと思います。