Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

12月31日に

2009年12月31日 | Weblog
今日で2009年も終わりです。

今年は1月1日から1月31日まで、
出勤して頑張りました。

今年を振り返ると予想以上に業務量が増え、
9月にスタッフを増員するまで、
諸方面にご迷惑をおかけしてしまいました。

また、当初計画していた一年間の目標達成に関しては、
ちょっと不満の残る一年になってしまいました。

しかしながら、我が社の三人のスタッフもよく頑張ってくれましたし、
多くの皆様方に支えていただき、今日を迎えることができました。
心から感謝申し上げます。

先ほどオフィスの近所のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べていると、
会社を設立してから今日までのことが様々に思い出されました。

そして、

「あぁ、こうして年末にお蕎麦が食べられるって、
 何て素晴らしいのだろうと思いました。」

何もないところから立ち上げた会社が、
一歩一歩成長し、「志の教育」という、
形のないものの種をまき続けています。

困難は続いています。
しかし、一方で、大きな希望の光も見え始めています。

来年は寅年。
一月から、虎の如く猛然とチャレンジして参ります。

来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


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感動することの大切さ

2009年12月29日 | Weblog
傑作と凡作との間は紙一重の相違である。
しかもこの紙一重がなかなか破れない。
これを突き破って傑作の域に入るためには、
精神の不断の緊張を必要とする。
感激のないものには、精神の緊張がないから、
感激が傑作を作ると言ってもよい。
自ら感激して始めて人を感動せしめることができるのである。

                -北大路魯山人の言葉-

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志の教育①

2009年12月15日 | Weblog
私たちの会社のミッションは、「志の教育」を創るということです。

なかなかわかりにくい概念ではありますが、
国民教育の父と言われている森信三先生は、
「志」について次のように述べています。

「かくして今日教育の無力性は、
これを他の方面から申せば結局「志」という
根本の眼目が欠けているということでしょう。

なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、
また型どおりに試験も受けてはいます。
しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、
何ら起ち上がろうとはしないのです。

というのも志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、
急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。

今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、
結局生徒たちに、
このような「志」が与えられていない点にあると言えるでしょう。
何年、否何十年も学校に通いながら、
生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、
学校を卒業するのが、大部分という有様です。

(中略)

ところが、生徒たちの魂が眠っているとも気付かないで、
色々なものを次から次へと、詰め込もうとする滑稽事をあえてしながら、
しかもそれと気付かないのが、今日の教育界の実情です。

それというのも私思うんですが、
結局は、われわれ教師に真に志が立っていないからでしょう。」

「志の教育」をと言うからには、教師自身の「志」が問われる。
至極当然のことです。

私もまた、自らの志を形にしていくべく全力を尽くします。
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子どもの問題

2009年12月14日 | Weblog
問題のある子どもがいます。
確かにその子の言動には問題があります。

しかし、それは、
子ども本人の問題と言うよりも、
ほとんどは親の問題です。

親が、
子どもの問題は子どもの問題ではなく、
自分自身の問題だと心から気付いたときに、
子どもは良い方向に向かい始めます。

自分自身の体験からも、
また、多くのケースを見てきた経験からも、
そう言うことが出来ます。

問題は、
親が心から気付くことができるかということ。
逃げず、言い訳せず、見栄を張らず、
心から自分の姿を省みることができるかどうか。
そして、自分自身もまた、学びの途中にいるということを、
心から自覚できるかどうか。

子どもの心の問題には、
親子の心の交流、
夫婦の心の交流、
祖父母との心の交流、
さまざまな心の糸が絡んでいます。

絡んだ糸は、
じっくりと見定めて、
時をかけてほどいていかなければなりません。

もつれ方は千差万別。
マニュアルで対応できるようなものでもないと思います。

だからこそ私たちは「親心」の在り方を、
深く深く問うていかなければならない。

そう思っています。

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水栽培

2009年12月11日 | Weblog
これまで、一教師として、
また、バッカーズ寺子屋・バッカーズ九州寺子屋の塾長として、
多くの塾生、生徒、その他大勢の皆様と共に学ばせていただきました。

これまでに一人の教育者として、
多少なりとも学んできたことを、
次の世代の人たちに伝えようと思っています。

そのためにエクスプレッション・アカデミーを
来年から福岡・東京の二カ所でスタートさせます。
私の思いを本気で伝えていきます。


・・・と真剣に将来のことを私が考えつつ、
スタッフ3人と昼食を食べていると・・・。


スタッフA「今日の味噌汁のネギって本物ですよね!」

私「その通り。食は大切なので、皆さんの健康のために、せめてネギだけでもインスタントでないものをと思ってね。」

スタッフB「そういえば、ネギって水栽培できるんですよね。」

スタッフC「そうそう、水に浸けとくだけでどんどん増えていく。」

スタッフA「あ!じゃあ、社長も水に浸けといたら増えるんじゃないですか。後継者養成とか何とかで悩んでるみたいだから。」

スタッフ全員「社長の水栽培か。それいいね!!やろう、やろう!!それで増やそう!!きゃははははは。」


私「・・・」







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哲学の死んだ時代に

2009年12月11日 | Weblog
宗教が昔日の影響力を失い、
社会全体が効率を追い求めている昨今、
私の若い頃の生き方は苦しいものでした。

一つ目の大学では、人文学部で日本思想史を専攻しました。
二つ目の大学では、日本文学を学びました。
あれこれと思索にふける日々でした。

文学何ぞ学ぼうとするような輩は、
将来はきっとあまり社会の役に立たないだろうと
思われていた時代でもありました。(笑)

いや、確かに未だ社会のお役には立っていないかもしれません(笑)。

しかし、次の、安岡先生の言葉には救われました。

「・・・思想とか信念とか、信仰とかいうようなものは、他から与えられたものではだめであります。これは個人の魂、個人の人格を通じて発してくるものでなければならないのであります。どんな立派な理想・思想・信念でありましても、他人のものではだめであります。それが自分の中を通じてこなければ、決して生きた力になりません。」(安岡正篤『日本の父母に』)

教育は言葉と行動です。
そして、その言葉と行動は、
一人一人の、借り物ではない理想・思想・信念からしか生まれてこない。

悩み続けたことは無駄ではなかったのだ。
多少なりとも、自分の信念に従って生きていこうとしたことは、
決して間違いではなかったのだと最近ようやく思えるようになりました。

まだまだ未熟なものですから、
これからも考え抜き、行動し、悩み抜き、
自分の哲学を育てていきたいと思います。
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祈る心

2009年12月10日 | Weblog
「祈る心」と言うと、
確かに宗教的なニュアンスに近づくように受け取られるが、
特定の宗教に帰依しているかどうかによるものではないと思う。

「人事を尽くして天命を待つ」というが、
人として出来る限りのことを為し尽くした後に、
なお、諦めることのない「思い」が、
人智を越えた何物かに託すしかないという
敬虔な意識を生み出すのではないだろうかという気がする。

だから、
まずは、自分が人間としてベストを尽くさねばならない。
どんな困難に直面してもぶつかっていく気迫を持たなくてはならない。
次に、「思い」が利他の心に満ちた邪念無きものでなければならない。
「祈り」とは「誰かのため」に心を込めて行われるべきものであろう。

どんな宗教を信じていようと、
そうした心なき祈りは、
決して神や仏や天の道に通ずるものではない。
私はそう思っている。

自分の損得を度外視して、
子どもの幸福を、
社会の発展を、
あらゆる人々の幸福を、
心から祈ることはできているだろうか?

そして、祈る前に、
目の前の困難に全力で立ち向かっているだろうか?
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目的合理VS価値合理

2009年12月09日 | Weblog
「科学の目的が世俗的であるとすれば、
 宗教は非日常的なものが優先される。
 宗教の場合、目的は、効率的ではなく、
「正しく」達成されなくててはならない。」
(厚東洋輔『モダニティの社会学』)
という言葉に触れた。

世の中には様々な目標がある。

大学に合格するという目標。
弁護士になるという目標。
医者になるという目標。
スポーツ大会で優勝するという目標。
会社の売上を上げるという目標。

目標を達成するのは現世利益につながり、
また、目標を効率よく達成できれば出来るほど、
その人やプロジェクトは賞賛される。
それは、確かに大切なことだと思う。

しかし、世の中はそれだけではない。

人々が祈りの心を忘れたら世の中は荒む。
神仏を拝む心、愛する者たちへの敬虔な祈り、
それら祈りの心を非科学的で無駄なものとして省いてしまえば、
結局、科学する人々の心を荒廃させ、
科学的目標達成のアプローチを阻害する要因となっていくことだろう。

潤いのある社会を実現するためにも、
私たちは祈る心を忘れてはならないと思う。



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子どもの暴力行為が過去最多

2009年12月08日 | Weblog
子どもの暴力行為が過去最多の、
59618件にのぼったそうである。

これは2008年度の数字であり、
過去3年間、増加傾向にあるということだ。

今年2009年度はどうだったのだろう?
と思いつつ、様々なことが頭をよぎった。

こうした状況が発表されると、
おおよそ次のような論調が出てくる。

「もっと心の教育を!」
「もっと道徳教育を!」
「もっと子どもの心を理解して!」
「もっと子どもを厳罰に処すべきだ!」

どれもが正しいが、
どれもがこれまで解決に繋がった試しはあまりないようだ。
現に、毎年、子どもの暴力は増加している。

これは教育界が次の四つの傾向性を持っているからである。

①原因の分析を多角的に徹底して行わないこと。
②対策の方向性が決まっても自分の考えと違えば実行しないこと。
③実施した施策の効果を検証しないこと。
④家庭の在り方にまで踏み込みたがらないこと。


もはや現在の教育問題の背景は、
学校だけで対処できるようなものではなくなっている。

①経済的困難(貧困から来る育児放棄、育児環境の悪化)
②食の問題(軟食化、添加物、農薬、その他)
③メディアの問題(ゲーム、インターネットの過度の使用)
④自然環境の破壊(人間も自然の一部である)
⑤祈りの欠如(自然や祖先、人智を越えたものへの畏れ)

そうしたことにどう対処するかという
総合力が社会の中で問われるのだろうと私は考えている。

私たちの国の将来のためにも、
学校というシステムの枠の中にいない今、
できることを思う存分にやっていこうと思う。
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わからなかったこと

2009年12月07日 | Weblog
私には時々人の怒りがわからないことがあります。

どうやら、その原因は、同じ目にあったとしても、
私は怒らないということが多いからのようです。

それが良いことなのか、悪いことなのかはわかりません。
ただ、人の心がわからないと言われる可能性はありますので、
そういう意味ではおそらく悪いことなのでしょう。

しかし、同時に、そうして非難された瞬間に、
相手だって私の心がわかっているわけではない
ということが明らかになるのです(笑)。

だから、そう気にすることもないのかもしれません(笑)。

関連して、ふと思い出したのですが、
「自分が変わることでしか、相手を変えることはできない。」
と言う言葉があります。
確かにその通りだと私も思います。

しかし、この言葉は、口にした瞬間に、
つまり、
「いいかい、君、自分が変わらなくては、相手は変わらないのだよ。(だから、まず、君が変わりなさい。自分を改めなさい。)」と言った瞬間に、

「まずは、おまえが変われ。」という、
相手に要求するニュアンスに変質する
パラドキシカルな性質を含んでいるのではないかと思います。

だから、そう心から思うのであれば、
黙って自己変革に努めることでしか、
他者の変容は生じないということにならざるを得ない。
私はそう思います。

だから黙ってひたすら走り続けるのです。

外に発した瞬間に死ぬ言葉もあり、
心に秘めてこそ生き続ける言葉もある。

そんなことをふと考えてしまいました。


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