Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育

2015年05月31日 | Weblog
  人間の生き方には
  どこかすさまじいものがなければいけません。
  一点に凝集して、
  それを達成しなければ、
  死んでも死なないというほどの執念です。
  人を教育するよりも、
  まず自分自身が、
  この二度とない人生をいかに生きるかに真剣で、
  教育というのは、
  いわばそのおこぼれに過ぎないのです。

             森信三先生の言葉



この言葉に出会い、感銘を受けて、
教育の道を歩いてきました。

出会いから20年ほどの歳月が流れ、
益々、この言葉の持つ意味の深さを味わえるようになりました。

しかし、
まだ、今の私では理解できていない
意味の深さがあるやもしれません。

ただ一つわかったことがあります。

教育してやろうなどと思って、
教育などできるものではないのです。

自分の生き方が、
次の世代に「何か」を感じてもらえる「真剣さ」を持ち、
周囲にも伝わるような「熱」を帯びているかどうか。

それだけしかないのだということを、
本当に痛感しています。



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発心

2015年05月29日 | Weblog
発心には、

「悟りを得ようとする心を起こすこと。菩提心を起こすこと。
 仏門に入ること。」

という意味と、

「物事を始めようと思い立つこと。」
という意味があります。

仏門に志そうが、
俗世を生き抜く志を立てようが、
基本は同じだと思います。

何歳になっても、
「よし、やろう!」と発意するところから、
すべては始まります。

全国各地でいろいろな方と学びあう機会をいただく中で、
年齢や学歴など全く関係なく、
発心された方が素晴らしい成長を遂げていかれるのを
目の当たりにします。

大切なことは、発心するか、しないかです。

70歳でも、80歳でも、
発心した人は、そこから成長を始めていき、
生き生きとした人生を過ごしていけるものなのです。

それを信じられなければ、
教育に情熱を注ぐことなどできるものではありません。


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思う力

2015年05月25日 | Weblog
人は自分が思った以上の存在になることはできません。

どんなことを成し遂げたいのか。
どんな人間になりたいのか。

全ては、自分がどう思い描くかにかかっています。

その思い描く力は、
生き方を学び、
自分の言葉で考えることでしか
身についていかないものです。

惰性的な日常の繰り返しでは、
断じて育つことはありません。

私は、日本の未来のために、
思い描く力の大切さを伝えていきたいと思います。

そして、何よりも、自分自身が、
自分の成し遂げたいことを思い描き、
形にしていきたいと願っています。

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人間の進歩

2015年05月25日 | Weblog
人は要領よくやれるようになることを
成長だと勘違いしてしまうもののようです。
私も若い頃、そうでした。

しかし、愚直なまでの誠実さこそが、
大きな人としての価値なのだと思います。

子供の頃の正直な心を、
何歳になっても持ち続けている人が、
本当の意味で社会で活躍されていると思います。

ちょっとした不誠実さで、
ちょっとした得をしたと思っていても、
それは、得をしたどころか、
信頼という大きな価値を失っているに過ぎないのです。

また、その自覚が少しでもあれば、
そのうしろめたさは心の中に蓄積されていき、
快活ではいられなくなっていきます。

それはいずれ自分の心を蝕んでいくものなのです。

そうした曇りある心で、
多くの人の信頼を得て、
社会の中で活躍することは不可能です。

また、一時的に成功することはあっても、
決して長くは続かないものです。

歳を取るから人は成長するのではありません。

心を磨き、自分を高めていく意志を持って、
初めて人は美しく成長できるのだと思います。









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若気の至り

2015年05月24日 | Weblog
若者は、その若さゆえに失敗するものです。
そして、多くの失敗を経験して、
大きく成長していく存在なのだと思います。

しかし、現代は、若者が育ちにくい時代かもしれません。

過ちを犯せば、
インターネットでたちどころに知られる所となり、
その記憶としてのデータは、
なかなか消去することは難しいからです。

このような時代だからこそ、
私は寛容でいようと思います。

過ちを許し、再起を期待する心を広く持とうと思います。





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自立

2015年05月24日 | Weblog
子供は、いつか自立していくべき存在です。
いつまでも、親に甘えて暮らしていくわけにはいかないものです。

しかし、親としても、甘やかすことで、
自分の満足を得ているという場合が多々あります。
子離れできない親の存在です。

親離れできない子供も、
子離れできない親も、
やはり少々まずいと思います。

だから、

親は、「自立させよう」と思うことが大切ですし、
子は、「自立しよう」と思うことが大切です。

お互いに、
一回しか親をやったことはないし、
一回しか子供をやったことはないのです。

結局は、お互いが、
人間として自分を高めていくしか方法はないのです。
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子育ての難しさ

2015年05月18日 | Weblog
社会的に地位のある方は、
確かに人として立派で有り、
社会全体に大きな貢献をされています。

しかし、社会人として立派だということと、
一人の親として立派だということは、
必ずしも両立し得ないものなのです。

なぜなら、
子どもの将来よりも、
自分の体面の方がついつい気になってしまうからです。

そこに悪意があるわけでもありませんし、
愚かなわけでもありません。

しかし、どうしても、無意識のうちに、
色々な物が邪魔をして、
子どものそのままを受け入れてあげられなくなっているのです。

そうした人たちには、下村湖人の次の言葉を
お贈りしたいと思います。

この言葉の意味が本当に腑に落ちたときに、
親は再び子どもと心を通わせられるようになるでしょう。


「よき親でありたいと願う人々のために、
私の用意している助言がただ一つある。

それは、子供をその善悪に拘わらず
常にいたわってやるということである。

むろんそれは単なる技術であってはならない。

それは、人間共通の弱点について十分な知識を持ち、
自分自身そうした弱点の持ち主であることを
深く自覚するところから、
自然に発散される感情の香気でなければならない。

愛撫や、賞賛や、叱責や、教訓や、
その他親としての一切の努めは、
そうした感情の香気に包まれてのみ真に生かされるであろう。

この助言は、だから、つぎのようにいいかえることもできる。

人間性に無知な親は親ではない。
人間として傲慢な親は親ではない。
自己をいつわる親は親ではない。
親もまた子供と共に
一生不断の修行者でなければならないのだと。」

                 『心窓去来』(下村湖人)
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久しぶりに

2015年05月15日 | Weblog
久しぶりに喉を腫らしてしまいました。

手洗い、うがいと、
こまめに防御しているのですが、

オーバーワークになっていると、
一瞬の隙を突かれます。

およそ一年ぶりに、
隙を突かれましたが、
明日には復活です。

それにしても、
熱を計らなくなりました。

熱があろうがなかろうが、
やることは何も変わらないからです。

スペアのない仕事とはそうしたものです。

だから、意味の無いことはしない。
作業効率が落ちるのは辛いところですが・・・。

志を持ち、覚悟を決めて事に当たる。
肉体を支えているのは、精神だと痛感します。

若い頃の自分は決して強くはありませんでした。

これから、もっと強靱な心身を持ちたいと思います。
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枠を超える

2015年05月15日 | Weblog
一つの組織にいると、
どうしてもそこの価値観や文化に
埋没してしまいます。

その立場からしか、
物を見られなくなってしまう状態に
陥りがちなものです。

だから、
様々な異業種の視点に学ぶことが
大切になってくると思います。

そして、さらに、
その業界全体を良くしようと思えば、

全てを捨て去って、
全体を俯瞰して見る立ち位置を得ることも
必要なのだと感じます。

もちろん現場を何年も経験した上での話です。

着眼大局とは、
結局、そうしたことにならざるを得ないのだと思います。
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人生は時間

2015年05月03日 | Weblog
人生とは時間である。
これは、一つの事実です。

ぼんやりと思索に耽る時間、
物思いに耽る時間も欲しいものです。

しかし、そこに埋没していても、
何も生み出すことはできません。

時間をどう使うのかという判断と決断に、
私たちはいつも迫られています。

しかし、それは、
時間を切り売りして、
主体的に生きることをやめ、
思考停止して流されていく人生よりも、
はるかに意義のある生き方のような気がします。

どんな人生を生きようとも、
その時間の終わりは必ず来ます。

その後で、
人は悠久の歴史という名の時間を
生き始めるものなのかもしれません。

さて、どのような人生を生きていきましょうか。
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