Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

さようなら2022年

2022年12月31日 | Weblog

2022年が終わります。

明日から2023年です。

一度しかない一年。

一度しかない一日。

一度しかない人生。

天に授けていただいた

この二度と無い人生を、

喜びに充ちたものにしたい。

そのためには、志高くあらねばと思います。

それが、愚痴や批判などから自分の心を遠ざける、

唯一の道だと思います。

低く狭い視野では、

低く狭い世界の問題にしか反応しないからです。

それにしても還暦を過ぎると、

一年との別れが惜しくなります。

遺された時間がそう多くはないからですし、

それ故に一年を丁寧に生きたからだと思います。

来年も、今年以上に一日一日を、

丁寧に力強く生きていこうと思います。

感謝の気持ちを大切にして。

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君子もとより窮す

2022年12月30日 | Weblog

 

「子曰く 君子もとより窮(きゅう)す。小人は窮すれば、ここに濫(みだ)る。」《論語・衛霊公篇》

孔子とその門人が各地をめぐる間、孔子一行が戦乱に巻き込まれ、全く身動きがとれず、食物も尽きて七日間飲まず食わずの
窮地に陥ります。
弟子の子路がたまらず、「君子も窮することがあるのですか」と孔子に言葉をぶつけます。学問をして世の中のために尽くそうとしている孔子がなぜこのような目に遭わなければならないのか。立派な人間(君子)になろうと己を磨き続けても、この有様じゃないか。そう思うのもわかります。それに対して、孔子は先の言葉を述べます。「君子といえども窮することはあるのだ。しかし、君子は窮しても平静な自分を守る。小人は窮すれば心が乱れ、自暴自棄となってしまう。」こう諭します。立派な人間だから苦難に遭わないようになるわけではありません。立派であるが故に、足を引っ張られたり、誹謗中傷に遭うことも多いものです。人はなかなか思いがけない苦難を避けることは出来ない。だったら、立派な人間になることに意味はないのか。そうではありません。心取り乱し、感情的になる人には、その後、人はついては行かないでしょう。しかし、平静でいられれば、次のより良い一手も生まれるでしょうし、それを周りの人たちも見ています。乱れるのはやはり、小さな自我に囚われているからではないかと思います。感情的になるのは弱さでしかない。窮地に立たされても、心乱さない自分であろうと思います。
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楽しく生きる

2022年12月27日 | Weblog

自分で考え行動せぬ者は、あらゆることは強要されるものであり、他人は色々なことを自分に強要しようと手ぐすね引いている存在だと誤解しているかのようです。

自分の志を立てることも、その実現のために自己研鑽を怠らぬ事も、決して強要されるべき事ではありません。

すべては自分がどうしたいか、どうなりたいかであり、どう判断し、何をするか、どのように生きるかでしかありません。

強要されない人間は、常に自由ですから、24時間、365日仕事をしたところで、やらされることはありません。だから、過重労働だ何だと他人に文句を言うこともありません。楽しくわくわくしながら仕事をするだけです。それが人々の喜びに繋がるのならなおさらです。

結局は、価値観の違いであり、人生に於いて学んで来たことの違いなのだと思います。

どちらが善い悪いと言うつもりはありません。

ただ、私は、私の楽しみを邪魔されたくはないと思います。

それだけです。

 

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国家観なき個人

2022年12月27日 | Weblog

本当に心から私を支えて下さる方々がいらっしゃいます。

そうではない方々もいらっしゃいます。

自分や自分の家族の得になるかどうかしか見ていない人と、そうでない人は、実によくわかるものです。

何が違うのかを考えたときに、結局は、「日本の教育の未来、日本の未来を、より良きものにしたい」という願いが、あるかないかのように感じます。

偉そうに言っているわけではありません。

やはり地域や国の未来を考える視点が欠けていれば、私利私欲という損得の視点でしか物事を見ることは出来ないと言うことです。

そうした人たちにとっては、教育に対して無私の心で向き合うなど、愚の骨頂でしか在りません。

しかし、私は、私が死んだ後の、子々孫々のためにも、良き教育を遺していきたいと思います。

福沢諭吉も言った、「自分たちの今日があるのは先人の辛苦の賜物であって、その恩に報いるためには、更に辛苦を重ねて子孫に役立つことをしなければならない」という視点が、今日ほど必要な時はないと思います。

私は私を理解して下さる方と共に歩んでいこうと思います。いや、所詮は、それしかないのだと思います。

多くの人たちが、個人主義を謳歌していますが、健全な国家無きところに個人の幸せもないと私は思います。

健全な国家とは、福沢の思いをどれだけの人間が共有しているかに他ならないのだろうと思います。そこにあるのは、過去への感謝と、未来への責任という思いであり、それが、人間を人間たらしめるものだと思います。なぜなら、禽獣にはその思いはないからです。

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皮肉や嫌み

2022年12月27日 | Weblog

私がよかったなぁと思うことは、皮肉や嫌みを言うこと、心に思うことが、ほとんどないことです。思ったとしても、それは面白半分というか、相手にわかるようにというか、裏表のない気持ちでしかありません。

皮肉や嫌みを言う人は、相手もそういう思いで言っていると思うから、相手の真意を理解できずに、ミスコミュニケーションが多くなります。

また、この人は皮肉や嫌みを言う人なのだと思われてしまうと、次からも、あぁ、これはきっと皮肉や嫌みでまた言っているのだろうなと、相手に読まれてしまうことになりますから、その人と心から関わろうという気は失せてしまいます。

かくして私は誤解の中に生きていくことになりますが、それもまた修業であろうと思っています。

心は裏表無く、真っ直ぐな方が良いと思います。

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「思無邪」

2022年12月24日 | Weblog

「思無邪」(おもいよこしまなし)という言葉があります。

これは、四書五経の一つ『詩経』の詩全体を最も良く表す言葉として、孔子が語ったものです。

精選版日本語国語大辞典によれば、次のように書かれています。

『「詩経‐魯頌・駉」に見え、「詩経」の詩全体の性格を最もよく表わす一句として、孔子が「論語ー為政」で言った「詩三百、一言以蔽レ之、曰、思無レ邪」から) 私心なく、公平である。思うことをそのまま言い表わして偽ったり飾ったりしない。』という意味です。

吉田松蔭の「至誠通天」(しせいてんにつうず)と相通ずる思いを感じる言葉でもあります。

『至誠通天』とは、元は孟子の言葉で、「まごころを尽くして行動すれば、いつかは必ず天に通じ、道は拓けるものだ」という意味で す。

現実には、誤解され、曲解されることが多いし、期待とは違った反応が返ってくることが多いものですが、それでも私は「まごころ」を込めて、私心無く人と関わっていこうと思います。

所詮は、人事を尽くして、天命を待つしかないのだと思います。

 

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価値観

2022年12月24日 | Weblog

私は大したことはまだできていません。

しかし、あと10年で、少しは他人様のお役に立てるようなことを成し遂げていこうと思っています。

元を正せば、人間は、何も持たずにこの世に生まれてきています。

人生という時間をどのように使い、何を遺せるのかは、心がけ一つ、努力次第だと感じます。

しかし、目標がなければ、努力の方向は定まりません。

だから志が大切なのです。

志を立てるかどうかは、全て自分にかかっています。

日々、何をどう選択していくのか。

それだけなのです。

人は、どのような自分にするのかは、自分で決めるしかないのです。

そして、人は自分の考えた通りの人間になっていくだけなのです。

しかし、そう思わない人にとっては、生まれや、育ちや、運などによって決まるとしか思えないもののようです。

私もかつてはそう思っていたのだと思います。

しかし、学び続け、行動し続けていくうちに、様々な人との出会いがあって、そうではないことに気づくことが出来ました。

己の心願こそが、道を開いていく原動力だったのです。

願いを持ち、利己心から離れていくうちに、それが次第に見えてくるのだと思います。

でも、こんなことを言っても、わからない人にはわからないものです。

何でも他人のせいにして、文句や、批判や、悪口を言っていた方が、気楽な人生になると思う人にとっては、それが世の中の真実なのです。

かくして、私もまた、同じ価値観を持つ人を探し、共に生きていこうと思うことになります。

 

 

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ICTの普及に思う

2022年12月23日 | Weblog

ICTの普及が教育現場でも推進されています。

基本的には歓迎すべき事だと思います。

しかし、ICTとは、「Information and Communication Technology」(インフォメーション・アンド・コミュニケーション・テクノロジー)の略で、所詮は「情報通信技術」でしかないということです。

ICTは、デジタル化された情報の通信技術であり、インターネットなどを経由して人と人とをつなぐ役割を果たしています。

しかし、ここで問題なのは、 人間にとっての「Communication」とは何かが深く考えられていないことです。

「人と人とがつながる」ことをコミュニケーションと考えるとして、未熟な人間が技術を使って繋がれば、当然、未熟なコミュニケーションの中で、誤解や諍いが起こると思います。

ICTの普及だけでは、いじめ一つなくすことはできないのです。 

テクノロジーもそれを使う人間の意識次第だと私は思いますし、生身の人間の、意識や心、考えは、デジタルで育てられるものではないと感じています。

私たちは技術が進むと人間が偉くなったように思いがちですが、紀元前の孔子やブッダやキリストの教えをすら、未だに身につけることの出来ぬ存在に過ぎないのです。

人間とは何か。人間を育てる教育とは何か。深い人間観無きところに、良い教育が生まれるとは、到底私には思えないのです。

あまりに、人間を、教育を、軽く考えていやしないかと思います。

ま、焼きが回った爺は、そろそろ退場するのが良いのかもしれませんが。

 

 

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危機感の無さ

2022年12月23日 | Weblog

危機感の無さが問題なのだろうと思います。

もう日本という国の足下は崩れかけているというのに、自分が何をすべきかを、自分で情報収集し、自分の頭で考えないから、相変わらずのお気楽な批判・評論の意識です。

働き方改革といっても、何をどう改革するのか、何のための改革なのかわからぬままやるから、結局、上からの指示を待つ受け身の姿勢は基本的に変わらぬままのようです。

受け身の姿勢は、「やらされている」という意識と、「してやっている」という意識を生み出しますから、非生産的な批判と非難を生み出し続けます。

今ほど、自分の頭で考えることが求められる時代はないと思うのですが、勉強とは、「暗記することと問題を解くこと」だと学校で習っているので、自分の頭で考えることが何かも、自分という人間を磨くということもよくわからぬまま大人になるしかありません。

わかっているようでも、まさか、自分が行動しなければならないとは思わない。

テレビとネット情報を鵜呑みにして、自分の頭で真偽を見きわめようとしなければ、ものの見方を誤ることにもなります。

危機感はあっても、自分のことしか考えなければ、より良い未来を築くアクションは生まれません。

私も私の力不足を悲しく思います。私の能力では大したことはできないのです。

しかし、それでも今の状況下で、日本の未来にとって何をすることが最善なのかを考え、行動します。今まで以上に、更なる努力を積み重ねていきます。

未来の子どもたちのために。

 

 

 

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バッカーズ寺子屋18期生・募集開始

2022年12月21日 | Weblog

バッカーズ寺子屋・第18期生の募集を開始致します。

来期は久しぶりに20名の定員に戻していきたいと思っています。

まずは入塾説明会にご参加下さい。

お申込を心よりお待ち申し上げております。

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