Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

5月4日

2016年04月27日 | Weblog
産経新聞「解答乱麻」に寄稿しています。

今回は、
「聴くこと」について掘り下げてみようと思いました。

「話すこと」と「聴くこと」は、
表裏一体の関係にあります。

そのことを教育者が深く自覚することの大切さを
問いかけてみようと思いました。

詳しくは、5月4日の新聞紙上にて。


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バッカーズ寺子屋

2016年04月15日 | Weblog
バッカーズ寺子屋、
そして、
バッカーズ九州寺子屋の学びは、
日本の教育にとって大きな財産になると思います。

しかし、まだ、
その真価を理解してくださっているのは、

直接ふれあっている、
塾生・卒塾生の皆さんと、
保護者の皆様方。

そして、近くで見て頂いている、
数人の経営者の皆様でしかありません。

もっともっと時が経って、
少しずつでもそれが伝わっていき、
全国各地で同じような取り組みが広がっていくことを、
心から願っています。

この学び舎で何が起きているのか。

それは、
共に時を過ごしつつ見てくださる方にのみ、
目に見えてくるものだと思います。

私は企業勤務を経験し、
高校教師を経験し、
自分自身の子育ても経験してきました。

だからこそ、
この取り組みの価値の大きさを実感します。

この教育の構造を、
是非、日本の財産にしていきたいと思います。


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和を以て貴しと為す

2016年04月14日 | Weblog
和を以て貴しと為すと言うのは簡単ですが、
なかなかそうもいかないのが人の世です。

あれだけの快進撃を続けてきた
セブンイレブンにしてそうです。

それぞれに、
思いや誇りや意地や実績や将来ビジョンが
あるのだと思います。

人の和が永続的に続くのは至難の業だと思います。

だからこそ、人間を磨く以外にはないのだと思います。

私が教育の世界に身を置いている以上、
富とは無縁の人生をおくることになるとは思いますが、

それでも、いや、だからこそ、
大切なものを貫いていこうと思います。
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温順恭謙

2016年04月13日 | Weblog
「慇懃無礼」という言葉があります。

言葉や態度などが丁寧すぎて、
かえって無礼であるさま。

あまりに丁寧すぎると、
かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま。

また、表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、
実は尊大で相手を見下げているさま。

その対義語は何かと思ったときに、
ふと思い浮かんだのは、

「恭謙」でした。

「温順恭謙」これが対義語で良いように思います。

「温順」 穏やかで素直なこと。また、そのさま。
「恭謙」 慎み深く、へりくだること。また、そのさま。

私は、そのような人でありたいと思いますし、
そのような人たちと共に、人生を歩んで行きたいと思います。



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雑用

2016年04月13日 | Weblog
「雑用」という言葉を久しぶりに耳にしました。

「雑草」という名の草がないように、
「雑用」という名の用事もないと私は思います。

その考えを、
知らぬ間に私の回りでは共有できていたから、

「雑用」という言葉を久しく耳にしていなかったのだと思いました。


キング牧師の言葉を思い出します。

「もし君たちの運命が道路の清掃人になることであるなら、

ミケランジェロが絵を描いたがごとく、
一所懸命に道路を清掃しなさい。

ベートーベンが作曲したがごとく、
一所懸命に道路を清掃しなさい。

レオンティン・プライスがメトロポリタンオペラ
の前で歌うがごとく、
一所懸命に道路を清掃しなさい。

シェークスピアが詩を書いたがごとく、
一所懸命に道路を清掃しなさい。

道路をよく清掃すると、
すべての天と地の人たちが立ち止まってこう語ることでしょう。

「ここに、己の仕事を見事になしとげた偉大な清掃人がいた」と。


一つ一つの小さな事に存在する
大きな価値を見いだす目を持たなければ、

それは雑用に見えてしまうのです。

その程度の物の見方では、
魂のこもった仕事は決してできないであろうと思います。

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深遠なる

2016年04月08日 | Weblog
教育という営みは、
実に深遠なる世界です。

表面的な知識の授受をもって
教育を為しているという人も居ますが、

それは新渡戸稲造の言う、
教育屋の類いであって、
教育者ではないのです。

世の中には、
善もあり、悪もあります。

一人の人間の中にさえ、
光があり影があるのだと思います。

一人一人の子供の生育歴は違い、
その過程で身につく価値観も違います。

自分の価値観を唯一の基準とするのではなく、

一人一人の子供と親の痛みや悲しみを、
我がことのように感じ取れば、

単純な善悪の物差しが、
いかにちゃちなものかは直ぐにわかります。

何が正しいかと言うことを明確にするには、
大きな困難が伴うことがわかってきます。

しかし、それでも、正しさを追い求めなくてはなりません。

だからこそ、
教育者は、
その深遠なる淵の前に立って、
恐れ謹む心がなければならないのだと思います。

そして、
世のすべての人々の幸福という、
大きな世界を見据えた視点を
持たなければならないのだと思います。



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二項対立からの脱却

2016年04月05日 | Weblog
私たちは、

善か悪か、
右か左か、
〇か×か、

という二項分類の罠に絡め取られているようです。

これは、
クイズのような〇✕式の勉強にばかり、
力を注いできたせいだと思われます。

わかりやすさにとらわれ、
深い思考を避けてしまうようになっているのです。

受験勉強の中にも人間教育の可能性はあり、
人間教育が非人間的な教育となりうる可能性だってあるのです。

善の中にも悪の芽は内包されているかもしれないし、
悪の中にも善の芽が内包されているかもしれない。

自分で体験し、自分で考え、
自分で答えを見いだそうとしないから、
色々なことが他人のせいに思えてくるのです。

そして、答えを与えられてばかりだったから、
自分の考えたことに、いつまでも自信が持てないのです。

全ての常識を疑ってかかることも大切です。





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