かつては、
君子が国家や政治に対する志を述べた
「四書五経」のことを「大説」と言っていました。
それに対して、
日常の出来事に関する意見・主張や噂話など
虚構・空想の話を書いたものを「小説」と言います。
これは、今日も生きている言葉です。
昔の人たちは、
「大説」と「小説」という対比の中にも、
「志」と「夢」とを対比させていたのです。
「夢」と「志」とは、異なるものとして
はっきりと認識していたということでしょう。
今、「大説」という言葉は死語になっています。
「小説」という言葉に対概念があったことすら、
私たちは民族の記憶から抹消してしまっていたのです。
それは、
私たちが、「志」という言葉を使わなくなり、
「夢」との区別を失ったことと全く同じことのように思います。
国家や政治に対する志を持つことを忘れ、
虚構と空想の中で漂うように生きている。
つまり、
「大説」としての人生を生きることを忘れ、
「小説」としての人生しか生きられなくなってしまった。
私たちが実践している「志の教育」とは、
ひょっとしたら、
「大説」という言葉に、
命を取り戻すという取り組みになるのかもしれません。
君子が国家や政治に対する志を述べた
「四書五経」のことを「大説」と言っていました。
それに対して、
日常の出来事に関する意見・主張や噂話など
虚構・空想の話を書いたものを「小説」と言います。
これは、今日も生きている言葉です。
昔の人たちは、
「大説」と「小説」という対比の中にも、
「志」と「夢」とを対比させていたのです。
「夢」と「志」とは、異なるものとして
はっきりと認識していたということでしょう。
今、「大説」という言葉は死語になっています。
「小説」という言葉に対概念があったことすら、
私たちは民族の記憶から抹消してしまっていたのです。
それは、
私たちが、「志」という言葉を使わなくなり、
「夢」との区別を失ったことと全く同じことのように思います。
国家や政治に対する志を持つことを忘れ、
虚構と空想の中で漂うように生きている。
つまり、
「大説」としての人生を生きることを忘れ、
「小説」としての人生しか生きられなくなってしまった。
私たちが実践している「志の教育」とは、
ひょっとしたら、
「大説」という言葉に、
命を取り戻すという取り組みになるのかもしれません。