Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

感謝

2013年03月30日 | Weblog
世の中には、
挨拶の仕方が悪いと怒る人がいます。

しかし、私は思います。

私のようなつまらない者にまで
挨拶して下さってありがとうございますと。


世の中には、
褒め方が気に入らないと文句を言う人もいます。

しかし、私は思います。

私のようなつまらない者に対して
お世辞であれ、誇張であれ、形だけであれ、
褒めて下さってありがとうございますと。


世の中には、
感謝の言葉に心がこもっていないと陰口を言う人がいます。

しかし、私は思います。
私のやったことなど大した価値もないのに、
感謝の言葉を口にして下さってありがとうございますと。


所詮は、大した価値も無く、
何とも無力な私ではありますが、

一つ一つの教育実践を、
心を込めて、
全力を尽くして、
形にしていこうと思っています。

私は、
私の心が喜ぶことを、
まっすぐやり続けるだけです。

ただ、それだけなのです。
コメント

出る杭として

2013年03月24日 | Weblog
バッカーズ寺子屋で学んだ皆さんは、
その力を発揮すればするほど、
皆さんが本物になればなるほど、
学校の中では浮いてしまう危険性もあるかもしれません。
学校の先生に疎まれる可能性だってあるでしょう。

しかし、堂々と胸を張って頑張り抜いて下さい。
苦しければ、いつでも連絡をして下さい。
必ず支援します。

皆さんが学んでいることは、
確実にこれからの社会で大切なことなのです。
それは確信をもって言えることです。

現実の社会で活躍している、
多くの経営者の皆様が、
この活動を支えて下さっていることが、
何よりの証左です。

私たちは、日本と世界の未来を
支えていく人材となっていくのです。

閉ざされた社会の論理に振り回されるのでは無く、
常に広い世界を見て下さい。

グローバルな社会の中で、
私たちは生きていかなければならないのです。

出る杭は打たれるもの。
笑って共に打たれましょう。

しかし、何が正しいかだけは、
絶対に見失ってはならないと思います。

その基準は、
バッカーズ少年教育10原則の中に書かれています。

変革の時代を生きているのですから、
当然、様々な苦難困難が待ち受けています。
前進しようとすればするほど逆風が強くなることもあるでしょう。

だからこそ、顔を上げ、前に進むのです。

そこからしか変革は生まれないと思います。





コメント

教育する心

2013年03月22日 | Weblog
薬でも教育でも、
強烈な効果をもたらすものには、
副作用が出やすいものだと私は思います。
だからといって漢方薬だけでは心許ない。

教育を考えた時には、
即効性のある指導も時として必要です。
しかし、一方でじっくりと学ぶことも大切です。

私は、新しいものを絶えず学び、
日々の教育実践に、常に活かしていきたいと考えています。

しかし、そのためには一つの前提があると思っています。

それは、教育の土台として、
古今東西の教育や哲学や文学に学び、
長き風雪に耐えてなお光を失わぬ考え方や価値観を
大切にするということです。

新しい研究成果にすぐ飛びついたり、
激烈な効果のある教育を安易に実践するのは、
どうも私には抵抗があります。
教育は実験ではないという思いがあるからでしょうか。

どんなに効果的な教育であっても、
何人かが、精神的に追い込まれたり、
自殺をするようなものであったりすれば、
それは相手を人間として尊重した教育とは言えないと思います。

教育技術云々の前に、
一人一人の人格形成への願いや、
一人一人の人間への幸福への祈りがなければならないと思います。

そして、それは哲学する心の深さによって、
はじめてわかり得るものだと思います。
コメント

教育ということ

2013年03月16日 | Weblog
結局、教育者のやるべきこととは、

目の前にいる、
一箇の魂を、
如何にかき抱き、
如何にお役に立てたかと言うことでしかないのだと思います。

そして、そのお役立ちのために、
如何に膨大な時間と手間暇を
見返りを求めず、
喜々として人様のために捨て得たか
ということでしかないのだと思います。

こうして言辞を弄するにあたり、
私は、私の言葉の強さが、
私の実践の価値を上回ることが無いよう、
常に注意を払いたいと思っています。

お役に立てたかどうかは、
相手が決めることであって、
私の決めることでは無いからです。

とにかく精一杯のことをやるだけです。
頑張ります。






コメント

道徳教育

2013年03月09日 | Weblog

「地図は、いかに精密であろうとも、
 地図自身が、その持ち主を一インチたりとも運ぶことはできない。

 法律書が、いかに公正に書かれてあったとしても、
 法律書自身が、一件たりとも犯罪を防いだことはない。」

(『地上最強の商人』より)


 そして、
道徳の教科書自身が、
正義を行うことも、
いじめをなくすこともないし、
年長者を敬ったり、
親孝行をすることもないだろうと思います。

 つまり、
 その価値を真に理解する人が、
 それを用い、具体的に行動を起こすことによってのみ、
 航海は成功し、犯罪は防がれ、正義は行われるのだと思います。

 道徳の教科書を作って、
 中途半端な価値観で教え、
 結果として道徳の価値を貶めるより、

 私は、世界の名作文学をただじっくりと読んだり、
 世界の偉人の生き方や言葉に触れたりする方が、
 余程教育的だと思います。

 余計な解釈など要らないのです。

 小賢しい現代人の知恵よりも、
 歴史の風雪に耐えた、
 文学の言葉の力の方を私は信じます。

 道徳教育の教科書を作り、
 義務化することには、
 私は一種の不道徳の臭いを感じます。

 それは、善しかない人間の物語はないからです。
  
 善があり悪がある狭間で、
 如何に判断するかを私たちは問われているのです。

 教える側の人間性が、
 社会の波にもまれ、
 善悪の狭間に立って
 なお善を希求するという強さを持たなければ、

 道徳において語られる言葉は、
 どうしても嘘くささを隠すことはできず、

 その偽りと矛盾とを子どもたちは鋭く感じるはずです。

 子どもに教えようとしていることを、
 まずは自分自身が本当にできるのか?

 そのことが問われるのだと思います。

 

 



 

 






コメント

教育の怖さ

2013年03月07日 | Weblog
知識の授受ならば、
技術で何とかできるでしょう。

いや、それだけなら、
コンピュータだってできる時代です。

わかりやすい先生の授業を
録画して勉強したっていい。

しかし、
人格を育てようと思えば、
己の全人格をかけて、
直接相手に向き合うしかありません。

自分の話しが相手の心に迫る力を持たないのは、
教育技術が未熟なためではなく、

己の人格が未熟なのだという現実に、
真摯に向き合って、
はじめて道が開けてくるのだと思います。
そこで技術も生きてくる。

教育基本法には、
教育の目的は「人格の完成」であると定められています。

「人格は人格によって磨かれる。」

この事実に本当に心の底から気づけば、
己の人格の未熟さが申し訳なく思えてならないはずです。

子どもの人格を尊重するということは、
そういうことだと私は思っています。

知識や技術だけを教えているつもりでも、
同時に己の人格を伝えているところに
教育の怖さがあるのだと私は思います。


















コメント

自由

2013年03月01日 | Weblog
私はあらゆる組織を辞めたことで自由になれました。

そのことで、
私は、教育に対する新しい視点を
いくつも持つことができるようになりました。

学習指導要領、教科書、学年、校務分掌、職員組織、
ありとあらゆる既存のものから自由になることができました。

常に既成概念にとらわれることなく、
0から教育を考えられるようになりました。

そして、子どもたち、若者たちの、
素晴らしい成長を目の当たりにすることが多くなりました。

おそらく、
私が実践の中で掴み取ってきた視点は、
ほとんど理解されないのかもしれないと思っています。

別にお高くとまるつもりもありませんし、
教育に携わっている人たちの素晴らしさを
信じていないわけでもありません。
むしろ、全力で学んだことをお伝えしていきたいと思っています。

しかし、私にはわかるのです。

かつて、
私がそうであったように、
その中にいては決して見えてこない世界があるということが…。

それを伝えきれず、
共有できないということに、
とてつもなく深い悲しみを私は感じています。

それを突破できるとすれば、
それは、私自身が、もっともっと、
自分自身を磨くことで、
新しい一つの可能性を生み出していく以外にはないと思っています。

日本の教育をより良いものにするために、
私にできることを、
私は全力でやり続けていきます。


コメント