Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

子どもをどう見るか

2013年02月28日 | Weblog
バッカーズ寺子屋で教えるようになってから、
「子どもを敬う」ということが自然になった。

教師が物のわかっていない子どもに、
道理や知識を教え込むのが教育ではない。

子どもたちは実に鋭く感じ、
考える力を持っている。

私にできることは、
ほんの手助けになるか、
ならないかといった些細な事でしかない。

なぜ、
私の中に、
子どもを敬う心が生まれたのか。

それは、

「この子たちは必ず、私以上の素晴らしい存在になる。」

と確信できるようになったからだ。

そのことを、
私が共に学んでいる、
子どもたち全員に対して思う。

それは「信じる力」が私の中で力を持ち始めたからであり、

そうした考えは、
真剣に、ゼロベースで教育について考え抜き、
それを実践し続けることを通して徐々に得られたもののように思う。

教えている子どもたちが、
自分を超えていくと確信しているからこそ、
本当に子どもたちはそうなっていくのだろうと思う。

反対に教える側の人間が、
子どもの未熟さを拠り所として、
子どもを低く見ていけば、
子どもは期待通り、それほど伸びないだろう。

子どもをどう見るか。

それは子どもの問題では無く、
教える側の問題なのである。






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あてにされる人に

2013年02月25日 | Weblog
あてにならない人は、あてにされません。

あてにされないと仕事は回ってこないから、
その方が、楽で良いと思う人もいるでしょう。

しかし、
あてにされないことは寂しいことだと思います。
それは、信頼が無いと言うことだからです。

同時に、あてになる人になることは、
大変に難しいことでもあります。

なぜなら、あてにされるということは、
コンスタントに期待に応えられているということだからです。

それは、ひとえに良き習慣を身につけられるか否かにかかっています。

習慣には、生活習慣と心の習慣がありますが、
そのいずれもが、安定していなければなりません。

あてにされないことに不平不満を持つ人は、
自分の一番良い状態のことを基準にして、
「なぜ周りは私のような力のある人間をあてにしないのだろうか」
と思いがちです。

しかし、周りから見れば、
それは最大瞬間風速に過ぎず、
確率的に考えても、
そこを基準として、
その人を頼りにするわけにはいかないのです。

あてにならないから、あてにされない。
ただ、それだけのことなのです。

私自身、何とかして、あてにされる人になっていきたいものです。




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志の教育

2013年02月21日 | Weblog
「志の教育」を実践していくことが
これからの時代にはとても大切なことになると思います。

しかし、
「志の教育」の実施には、
大きな困難が伴います。

その実施が最も困難な理由は、
教える教師に「志」があるかどうかが、
厳しく問われるということです。

残念ながら、このことについては、誤魔化しがきかないのです。
なぜなら、子どもも大人も同じ土俵に立つことになるからです。

ここでは、形骸化した大人の尺度である、
地位や、肩書きや、資格や、収入や、外見などは、
あまり意味を持たないのです。

不器用でも、あまり賢くなくても、
本当に自分の人生を考え抜き、
自分の仕事に誇りを持ち、
本気で自分の人生と向き合っていることから紡ぎ出される
迫力のある言葉こそが輝きを放ちます。

一人でも多くの大人たちが、
そうした意識に目覚め、
子どもたちに良い影響を与えていくことを願います。

ラッキーなことに、
今は、教育が本当に変わらなければならない時代なのです。

「教育が変われば良いとずっと思っていたけど、
まさか、自分が変わらなければならないとは夢にも思わなかった。」

こんな感じで嘆く先生が多いようだと、
前途は厳しいと言わざるを得ません。














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人生には色々なことがあるもの

2013年02月19日 | Weblog
人生には色々なことがあるものです。

その多くを些事として、
笑って受け止めていきたいものです。

どのような原因によって
引き起こされた状況であっても、

自分にできることは自分でやる。
裏切られても水に流す。

そして、明日を大切にする。

目の前の損か得かは、
人生という名の大きな尺度においては、
損か得かはわからなくなるものだと思います。

自分の心が爽快であればそれで良い。
そう思います。

禍福はあざなえる縄のごとし。

至言だと思います。




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祈るような思い

2013年02月19日 | Weblog
日本の教育をより良いものにしたいと思います。

そのためには、
自分自身が学び続け、
在り方・生き方を磨き、
そこから紡ぎ出される
言葉と行動の力を上げていくしかありません。

方法は、それしかなかったのです。

正直、若い頃には、その事がよくわかりませんでした。
もっと違う方法があるように思えてなりませんでした。
言うなれば、愚直を愚かだと勘違いしていました。

今は違います。

愚直ほど、賢明で、力のある生き方はない。
そう思います。

そうした生き方を重ねていくうちに、
いつの間にか、言葉に魂が宿るのだと思います。

そして、思いもよらなかった
大きな力が働き始めるのだと思います。








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いま求められる志の教育

2013年02月18日 | Weblog
2月16日付けの産経新聞に
拙稿「いま求められる志の教育」が掲載されました。

今、「志」という言葉や「志の教育」という言葉が
ようやく日の目を見るようになってきました。

それはそれで大変嬉しいことなのですが、
それを実践している県や学校の先生・生徒の皆さんと言葉を交わすと、

「ああ、良くわからないけど、何かやってますよね。だいたい志って何ですかね?」

「志の教育って、夢を持てって言ったらいいんですよね。」

と、こんな感じの反応ばかりが返ってくるので、
これは少々まずい方向に事が進んでいるのではないか?
そんな心配もあって、書かせていただきました。

もちろん、これから更に、様々なところで、
志の教育を実践していこうという決意の表明でもありますが…。

言葉の定義を明確にしておくことは、
とても大切なことだと改めて思っています。

私は、みんなで、何となく、
「空気」に左右されて漂っていくような教育を行うのではなく、
もっと地に足の付いたものにしていきたいと考えています。

そして、私の今の言論活動におけるルールは、

①他人の批判をしないこと。
②実践を通してつかみ取ったことだけを述べること。
③自分がやりもしないことは書かないこと。

それを念頭に書き綴っています。

一人の人間が、言葉と行動で教育をしていく以上、
そうならざるを得ないのだとつくづく思います。

やはり、大人の生き方や美意識が問われるのだと、
覚悟を新たにしています。








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バッカーズ寺子屋・入塾説明会開催

2013年02月18日 | Weblog
バッカーズ寺子屋(東京)第9期生

バッカーズ九州寺子屋(福岡)第6期生

それぞれの募集を開始致します。

詳細は、各ホームページをご覧下さい。

経営者の方々が日本の未来のために、
心を込めて作った学び舎です。

私も塾長として、
全身全霊で、
大切だと思うことを伝えていきたいと
決意を新たにしています。

手作りの小さな学び舎ですが、
魂は入っています。

是非、入塾説明会にお運び下さい。
心からお待ちしています。





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ネバーランド

2013年02月14日 | Weblog
ネバーランドとは、
ピーターパンに出てくる
永遠に子供のままで過ごせる、
子供ばかりが住む架空の国のことです。

日本の初等教育を考えたとき、
ネバーランドを作りたいのかな?
と思うことがあります。

しかし、子どもは、
あまり子ども扱いされない方が、
人間的に大きく成長していくと言うことを
私は体験的に感じ取って来ました。

また、子どもと大人の明確な境界線など無く、
大切なことを心を込めて伝えていけば、
それが大きな種まきとなり、
将来の大きな成長を促すものになると思っています。

さらには、
社会の現実の厳しさや、
人生には限りがあり、
だからこそ、
素晴らしい価値のあるものだと伝えることも、
大切な学びになると私は思っています。


国民教育の父と称される森信三先生は、
13歳の時に、頼山陽の漢詩を
祖父に与えられ深く感ずるところがあったと言います。

「述懐」

十有三春秋
逝ゆく者は已に水の如し
天地始終無く
人生生死有り
いずくんぞ古人に類して
千載青史に列するを得ん  

【通 釈】
十三歳となって、
これまでの人生を振りかえってみると、
月日は川の流れのように過ぎ去ってゆき、
もう二度とかえっては来ない。
天地は永遠であり、始めも終わりも無いが、
人間には必ず生があり、死がある。
ならば何とかして歴史上の偉人のように、
自分も歴史の上に名を連ねたいものだ。


このメッセージが、
心に響く子どももいれば、
響かない子どももいるでしょう。

確かに難解ではあるでしょう。

しかし、
それが心に響くかどうかはまた別の話です。

それもこれも
伝えていかなければ、
何も生まれてはこないのです。

日本人の精神の幼児化を食い止めるためには、
こうしたメッセージの発信が、
非常に大切になると思っています。

もはや、情報を遮断することなどできない時代に入ってきました。
大人も子どもも同じ情報を手にすることができる。

ならば、あとは、知恵の深さや、思考力、人間性、社会性で、
大人は勝負していくしかないのだと思います。

そして、少なくとも私はそうしていきたい。
子どもたちと共に学び合いたいと思っています。

常にフェアな勝負を子どもたちも望んでいるのだと思います。

そして、そうした日々の中で、
泥臭く格闘し続けることを通して、
ようやく敬意や信頼を得る道が、
少しは開けてくるのではないかと感じています。



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歪みを正す

2013年02月03日 | Weblog

多くの人たちは、
自分の眼鏡が曇っていないか、
汚れていないを気にすることは知っています。

そして、汚れを落とそうとレンズを磨き続けます。

そして、思います。

こんなに物を見るレンズを磨いているのだから、
私の物の見方は正しいのだと。

周りの人たちこそがおかしいのだと。


しかし、本当にそうでしょうか?

レンズそのものが歪んでいれば、
どんなに磨いたとしても、
物事は正しくは見えないものです。

レンズの歪みは、
過去に受けた心の傷によってもたらされます。


人々の嘲笑や冷笑、皮肉や罵声。

それらは自分の気づかぬうちに、
レンズそのものに歪みを作ってしまうものです。


歪みを直す一番の薬は、

「ゆるす」ということです。

自分を苦しめた人たちや、
その人たちの言動は、既に過去の物ですから、
「ゆるし」と共に葬り去るのが一番です。


そして、他人をゆるしたら、
今度は自分の番です。

過去の心の傷にこだわった自分、
自分を傷つけた人たちを許せない自分、
様々な苦しみにとらわれる醜い自分、弱き自分を、

心の底からゆるしてあげたら良いのです。

そこから新しい人生が始まるのだと思います。













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