未唯への手紙
未唯への手紙
世界と個人の関係
未唯へ
全てを考えるという夢を見ていた。
今日の6時の気温は0℃です。北極圏仕様で行きます。いつになった、軽装になれるのか。どこが温暖かなのか。レジ袋有料化の効果が出ているのか。
サークルKはおでんをなくしました。昨日は50円/本で片付けていました。季節はそれを裏切っています。本当に寒い。
ナチと私の違い
ヒットラーも自分の中に世界を入れ込んでいた。自分の世界だから、なんでもしようとした。私の場合は違うと言えるのか。ナチズムと私の考えと何が違うのかをハッキリさせましょう。
サファイアで考えましょう。ナチはThink Locally, Act Globallyです。個人の思いをそのまま、グローバルが行動に移した。サファイアからすると、矢印が逆になります。その部分を武力で行いました。本来は、個人の思いから、皆が行動して、全体を動かして、大きな動きになっていくものです。
それならば、ローカルから始まる、サファイア循環そのものです。つまり、新しい民主主義です。個人の思いをローカルとして、力にしていく部分があるかどうかの差です。
ナチは警察権力を政治的に手に入れて、無理矢理、グローバルに変えていった。思考しない市民はそれに従った。Think Locallyから行動することのプロセスを省いた。
これは民主主義の弊害です。価値観の異なる世界で多数決は機能しない。小が大に従う理由はない。共和制ではないけど、価値観の異なる人々を押し留める方法はいくらでもある。
同じ価値観のものでグループを作るのではなく、自分たちのグループだけで、他を排除する。
今日の予定
今日はやることが多いです。3日分あります。29冊の本を処理しました。それを展開します。因数分解は生活編を入れ込みます。今の所、これが急務です。
ICレコーダーの入力をしないと、ブログにつながらないし、雑記帳の記述が中途半端になります。デジタル化は徐々におこないます。12冊もあります。
図書館の借出し実績
今週は29冊借りたけど、3月末では1300冊をやっと越える程度です。以前のように1500冊が信じられない。リーマンショック後の新刊書冊数の減少が響いています。
今週のように、29冊借りられるのは稀です。それとブログへのアップする件数が増えていることが影響しています。その裏には去年の環境社会の考察から、政治・経済への関心がふえたことが利いています。29冊片付けるのに、日曜日一杯掛かってしまった。
フリークから図書館が変えられるか
それにしても、週ごとの新刊書の凸凹が多すぎる。10冊未満と20冊以上が順番になっている。どんな図書館がいいのかを考えるところを組織化しましょうか。
フリークで借りている人間も、借りる以上は次の世代に対して、役割を持たないといけない。
世界と個人の関係
デカルトのように、二元論では、対峙する世界がどうなっているかは関係ない。単に観察するだけです。自分はどのようにして、解を求めるか。
ウィトゲンシュタインはその世界に自分がどっぷり漬かっている感覚です。この世界をどうしようかと考える余地はない。その世界でどう生きているかです。
仏教も同じです。いかに自分を変えていくのか。キリスト教も同様です。支配者の論理です。イスラムは少し異なります。
車はやかましいですね
バス停に立っています。この時間は車がかなりのスピードで駆け抜けます。音がすごいです。なくなれば、この空間が全て使えます。少子化になっても生きていけます。
一人一人の体積をこんなにでかくして、やかましくして、社会と言えるのか。車に乗りながらの地域コミュニティはムリです。降りないと始まらない。車に乗っている人間は不遜です。自分も含めて、そう感じます。
世界に関与してほしい
多くの人が関与して、自分のこととして世界を見て、世界に関与したら、完全に変わります。そのために、自分たちがどうすればいいのかを考えれば良いだけです。今のように、世界と自分を分けていてはダメです。
車というのは、それを邪魔するものです。自分の空間だけで、モノを考えます。
車と地域コミュニティの関係
まず、道路というインフラがいります。それも地上の上に。免許というものもあるし、身一つで動けなくなる。事故するのは当たり前だから、保険が必要になる。生活費のなかに想定する。事故をすると見知らぬ人と関係ができてします。その上で得られるのは、移動することです。
それなら、論理を逆にして、移動しなくても済むようにすればいいんです。コンパクトシティとかネットワークとか、手段は色々考えられます。一番の決め手は地域での移動手段の共有化です。
人としてのつながりが持てれば、その地域での活動が主になります。コミュニティで動けば、その中で役割分担はできます。一人一人が手段を持つからややこしくなるのです。
全てを考えるという夢を見ていた。
今日の6時の気温は0℃です。北極圏仕様で行きます。いつになった、軽装になれるのか。どこが温暖かなのか。レジ袋有料化の効果が出ているのか。
サークルKはおでんをなくしました。昨日は50円/本で片付けていました。季節はそれを裏切っています。本当に寒い。
ナチと私の違い
ヒットラーも自分の中に世界を入れ込んでいた。自分の世界だから、なんでもしようとした。私の場合は違うと言えるのか。ナチズムと私の考えと何が違うのかをハッキリさせましょう。
サファイアで考えましょう。ナチはThink Locally, Act Globallyです。個人の思いをそのまま、グローバルが行動に移した。サファイアからすると、矢印が逆になります。その部分を武力で行いました。本来は、個人の思いから、皆が行動して、全体を動かして、大きな動きになっていくものです。
それならば、ローカルから始まる、サファイア循環そのものです。つまり、新しい民主主義です。個人の思いをローカルとして、力にしていく部分があるかどうかの差です。
ナチは警察権力を政治的に手に入れて、無理矢理、グローバルに変えていった。思考しない市民はそれに従った。Think Locallyから行動することのプロセスを省いた。
これは民主主義の弊害です。価値観の異なる世界で多数決は機能しない。小が大に従う理由はない。共和制ではないけど、価値観の異なる人々を押し留める方法はいくらでもある。
同じ価値観のものでグループを作るのではなく、自分たちのグループだけで、他を排除する。
今日の予定
今日はやることが多いです。3日分あります。29冊の本を処理しました。それを展開します。因数分解は生活編を入れ込みます。今の所、これが急務です。
ICレコーダーの入力をしないと、ブログにつながらないし、雑記帳の記述が中途半端になります。デジタル化は徐々におこないます。12冊もあります。
図書館の借出し実績
今週は29冊借りたけど、3月末では1300冊をやっと越える程度です。以前のように1500冊が信じられない。リーマンショック後の新刊書冊数の減少が響いています。
今週のように、29冊借りられるのは稀です。それとブログへのアップする件数が増えていることが影響しています。その裏には去年の環境社会の考察から、政治・経済への関心がふえたことが利いています。29冊片付けるのに、日曜日一杯掛かってしまった。
フリークから図書館が変えられるか
それにしても、週ごとの新刊書の凸凹が多すぎる。10冊未満と20冊以上が順番になっている。どんな図書館がいいのかを考えるところを組織化しましょうか。
フリークで借りている人間も、借りる以上は次の世代に対して、役割を持たないといけない。
世界と個人の関係
デカルトのように、二元論では、対峙する世界がどうなっているかは関係ない。単に観察するだけです。自分はどのようにして、解を求めるか。
ウィトゲンシュタインはその世界に自分がどっぷり漬かっている感覚です。この世界をどうしようかと考える余地はない。その世界でどう生きているかです。
仏教も同じです。いかに自分を変えていくのか。キリスト教も同様です。支配者の論理です。イスラムは少し異なります。
車はやかましいですね
バス停に立っています。この時間は車がかなりのスピードで駆け抜けます。音がすごいです。なくなれば、この空間が全て使えます。少子化になっても生きていけます。
一人一人の体積をこんなにでかくして、やかましくして、社会と言えるのか。車に乗りながらの地域コミュニティはムリです。降りないと始まらない。車に乗っている人間は不遜です。自分も含めて、そう感じます。
世界に関与してほしい
多くの人が関与して、自分のこととして世界を見て、世界に関与したら、完全に変わります。そのために、自分たちがどうすればいいのかを考えれば良いだけです。今のように、世界と自分を分けていてはダメです。
車というのは、それを邪魔するものです。自分の空間だけで、モノを考えます。
車と地域コミュニティの関係
まず、道路というインフラがいります。それも地上の上に。免許というものもあるし、身一つで動けなくなる。事故するのは当たり前だから、保険が必要になる。生活費のなかに想定する。事故をすると見知らぬ人と関係ができてします。その上で得られるのは、移動することです。
それなら、論理を逆にして、移動しなくても済むようにすればいいんです。コンパクトシティとかネットワークとか、手段は色々考えられます。一番の決め手は地域での移動手段の共有化です。
人としてのつながりが持てれば、その地域での活動が主になります。コミュニティで動けば、その中で役割分担はできます。一人一人が手段を持つからややこしくなるのです。
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ハイデガーの哲学--『存在と時間』とは?
134.9ナカ『現代ドイツ思想講座』より
ハイデガーはご存知のように、『存在と時間』(一九二七)で、「現存在 Dasein」と「存在 Sein」の関係をめぐる分析を行ない、それによって当時のドイツの若者に大きな影響を与えたとされています。漢字で「現存在」と書くと、いかにも概念概念した硬い感じになりますが、ドイツ語の〈Dasein)は、日常的にも使われる言葉で、「そこにあること」、あるいは単に「あること」「存在すること」という意味です。「存在すること」と訳してしまうと、「存在」を意味する〈Sein〉と区別が付かないので、「現存在」という硬い訳語を使っているわけです。
ドイツ語の授業のような話を少ししておきましょう。〈?F〉の頭文字の〈S〉を小文字で書いて、〈SF〉とすると、英語のF動詞に相当する動詞になります。「~がある」とか「~である」という意味です。〈Sein〉は、それを名詞化した言葉です。英語だと〈Being〉に当たります。
〈Dasein〉の〈da〉というのは、日本語では説明しにくいですが、英語の〈there〉に相当すると思って下さい。「あそこ」という意味ではなくて、〈There is an apple on the table.)とか、〈Is somebody there?)というような場合の、〈there〉です。強いて言うと、「現にある」とか、「そこにある」と言う時の「現に」とか「そこ」に当たる言葉です。「現に」というのは、「今此処に」と言い換えることもできますね。そういう意味合いを持っている〈da〉と、〈Sein〉が合わさって、「現にあること」とか「そこにあること」という意味の〈Dasein)という言葉が出来上がっているわけです。
〈Sein〉も〈Dasein)も、わりと普通に使われる言葉ですが、いろいろと哲学的にひねった解釈を加えることができそうですね。例えば、〈Sein〉それ自体は無規定で曖昧模糊としているけど、〈手(そこに)〉という限定を付けてやると、規定(限定)された存在になる、とか。その場合の「規定された」、というのは、具体的な内容を持ち、概念的に把握することが可能になるということです。ヘーゲルは、〈Dasein)を、弁証法的な過程を通して規定された「存在」という意味で使っています。ヘーゲル用語としての〈Dasein)は、「定在」とか「定有」と訳されます。
ハイデガーの場合、〈手〉に、「今、此処に(有る)」という意味を読み込んで使っています。「今、此処」性の究極の形態は、「私」自身です。私自身が、「今、此処に=現に」あるというのは、最も確実なことでしょう。大雑把に言えば、「現存在-私」、と考えてもいいでしょう。
それだったら、普通の哲学のように、「自我 das Ich」と言ってもよさそうなものですが、敢えて「自我」と言わないところがミソです。「自我」と言ってしまうと、「私」という〝もの〟が実在していることが、前提になっているかのような話になります。デカルト以来の近代哲学では、「我、有り」という命題から出発しますが、ハイデガーは、「私」とは言わないで、「現にあること=現存在」という言い方をし、「あること」という部分に意味を持たせようとします。「(私が)現に有る」と言う時の「有る」とは、そもそもどういうことなのか? デカルト以降の哲学は、「有ること=存在」の意味を深く掘り下げて考えず、「私」が存在することを自明の理としてきたけど、「存在」の意味を堀り下げて考えてこなかったので、「私」と「存在」との繋がりが分からなくなり、あたかも、「私」がこの世界の中に単独で〝ある〟かのような、独我論的な話になってしまう。ハイデガーは、「現存在」が「存在」するとはどういうことか、という問いを起点として、「存在」の意味の解明を行なおうとしたわけです。
ハイデガーに言わせると、「現存在」というのは、自分自身の「存在」について問いを発するという意味で、特別な「存在者 das Seiende」です。特権的な地位にある「現存在」には、自らの「存在」について問うことを通して、「存在」それ自体を探求するよう定められている……。こういう言い方をすると、いかにも意味ありげに聞こえますね。
「存在者」というのは文字通り、個々の「存在しているもの」のことです。英語だと、「存在している(個々の)もの」も、それら個々の存在者の根底に〝ある〟「存在」それ自体も、同じ〈being〉という言葉になってしまうので区別しにくい。ドイツ語も基本的にはそうなのですが、〈sein〉の現在分詞形である〈seiened〉を名詞化した、〈das Seiende)という言葉が、哲学用語として一応あります。ハイデガーは、その〈das Seiende〉と、〈Sein〉を対置する表現を多用して、個々の「存在者」の単なる寄せ集めではない、「存在」それ自体が〝ある〟ことを強調します。
「存在」それ自体というと、抽象的でピンと来にくいかもしれませんが、「存在」というのは、神に繋がる言葉です。旧約聖書の出エジプト記で、神がモーゼに対して、「私は有って有るもの」だと宣言したという話が出てくるのは有名ですね。他の何かによって、「有らしめられている」のではなくて、神自身が神の存在の根拠になっている、という話です。英語だと、〈I Am Then I Am.)もしくは〈I Am the Being.)と表現します。ドイツ語だと、〈Ich Bin, der ich Bin.)とか〈Ich Bin, was ich Bin.)などとなります。ドイツ人が、〈Sein〉そのものについて問う、というような表現を見ると、すぐに神を連想するはずです。ただハイデガーは、「神」という言葉はなかなか使いません。「神」と言ってしまうと、キリスト教などの、特定の神のイメージに限定してしまうことになるので、慎重に避けているわけです。
ハイデガーは、日常的に使われている言葉をいろいろいじって、変形・造語したり、意味の深読みをしたりしながら、独自の哲学を展開するのを得意とする人です。言葉から「哲学」を引き出す達人であるわけですが、悪く言えば、ドイツ語じゃないとできないような議論をこじつけているように見えなくもない。
ただ、ダテに言葉遊びをしているわけでもありません。「私=自我」を、「現存在」と言い換えることによって、哲学的思考の軸がシフトします。分かりやすく言うと、それまでの近代哲学では、世界の中心に「私」が〝存在〟していて、その「私」が様々な「私」と同じくらい確実に存在していると言えるかどうか曖昧な--対象を認識し、それらに働きかけ、関係を持つという形で展開していたわけです。その『私』の代わりに「現存在」と言うことで、「私」自身ではなく、「私」を「有らしめている」もの、「存在」に魚点をシフトさせ、自我中心ではない形で、哲学を展開しようとしたわけです。「存在」への遡及という形で、自我中心主義から離脱しようとするハイデガーの戦略は、不安の中で、「私自身の内に、私の生きる意味を見出すことはできない。私の生の意味を教えてほしい、与えてほしい」、という〝実存的〟な願望を抱いているドイツ人たちの心情にフィットし、大きな影響を発揮することになったわけです。
『存在と時間』の論理展開はかなり複雑で、デカルト、カントだけでなく、現象学などの基礎知識も必要なので、そんなに多くの人がちゃんと理解できたとは思えませんが、「現存在」の自己自身の「存在」についての問いかけとか、「存在」それ自体が問題である、というようなキーセンテンス的な部分は、文学プラス哲学的な表現にある程度慣れている人たちには、ピンと来やすかったのではないかと思います。哲学書って、そういうところがあるでしょう。全体の論理構造が難しいし、ヘンテコな用語も多いので、なかなか全体像が頭に入ってこないけど、何かインスパイアしてくれるような、文学的で高尚な感じのキーセンスが随所に出てくると、そこだけで分かった気になれる。分からなさと、かっこよさそうな専門用語のバランスが絶妙なのが、ベストセラーになるわけです。
ハイデガーはご存知のように、『存在と時間』(一九二七)で、「現存在 Dasein」と「存在 Sein」の関係をめぐる分析を行ない、それによって当時のドイツの若者に大きな影響を与えたとされています。漢字で「現存在」と書くと、いかにも概念概念した硬い感じになりますが、ドイツ語の〈Dasein)は、日常的にも使われる言葉で、「そこにあること」、あるいは単に「あること」「存在すること」という意味です。「存在すること」と訳してしまうと、「存在」を意味する〈Sein〉と区別が付かないので、「現存在」という硬い訳語を使っているわけです。
ドイツ語の授業のような話を少ししておきましょう。〈?F〉の頭文字の〈S〉を小文字で書いて、〈SF〉とすると、英語のF動詞に相当する動詞になります。「~がある」とか「~である」という意味です。〈Sein〉は、それを名詞化した言葉です。英語だと〈Being〉に当たります。
〈Dasein〉の〈da〉というのは、日本語では説明しにくいですが、英語の〈there〉に相当すると思って下さい。「あそこ」という意味ではなくて、〈There is an apple on the table.)とか、〈Is somebody there?)というような場合の、〈there〉です。強いて言うと、「現にある」とか、「そこにある」と言う時の「現に」とか「そこ」に当たる言葉です。「現に」というのは、「今此処に」と言い換えることもできますね。そういう意味合いを持っている〈da〉と、〈Sein〉が合わさって、「現にあること」とか「そこにあること」という意味の〈Dasein)という言葉が出来上がっているわけです。
〈Sein〉も〈Dasein)も、わりと普通に使われる言葉ですが、いろいろと哲学的にひねった解釈を加えることができそうですね。例えば、〈Sein〉それ自体は無規定で曖昧模糊としているけど、〈手(そこに)〉という限定を付けてやると、規定(限定)された存在になる、とか。その場合の「規定された」、というのは、具体的な内容を持ち、概念的に把握することが可能になるということです。ヘーゲルは、〈Dasein)を、弁証法的な過程を通して規定された「存在」という意味で使っています。ヘーゲル用語としての〈Dasein)は、「定在」とか「定有」と訳されます。
ハイデガーの場合、〈手〉に、「今、此処に(有る)」という意味を読み込んで使っています。「今、此処」性の究極の形態は、「私」自身です。私自身が、「今、此処に=現に」あるというのは、最も確実なことでしょう。大雑把に言えば、「現存在-私」、と考えてもいいでしょう。
それだったら、普通の哲学のように、「自我 das Ich」と言ってもよさそうなものですが、敢えて「自我」と言わないところがミソです。「自我」と言ってしまうと、「私」という〝もの〟が実在していることが、前提になっているかのような話になります。デカルト以来の近代哲学では、「我、有り」という命題から出発しますが、ハイデガーは、「私」とは言わないで、「現にあること=現存在」という言い方をし、「あること」という部分に意味を持たせようとします。「(私が)現に有る」と言う時の「有る」とは、そもそもどういうことなのか? デカルト以降の哲学は、「有ること=存在」の意味を深く掘り下げて考えず、「私」が存在することを自明の理としてきたけど、「存在」の意味を堀り下げて考えてこなかったので、「私」と「存在」との繋がりが分からなくなり、あたかも、「私」がこの世界の中に単独で〝ある〟かのような、独我論的な話になってしまう。ハイデガーは、「現存在」が「存在」するとはどういうことか、という問いを起点として、「存在」の意味の解明を行なおうとしたわけです。
ハイデガーに言わせると、「現存在」というのは、自分自身の「存在」について問いを発するという意味で、特別な「存在者 das Seiende」です。特権的な地位にある「現存在」には、自らの「存在」について問うことを通して、「存在」それ自体を探求するよう定められている……。こういう言い方をすると、いかにも意味ありげに聞こえますね。
「存在者」というのは文字通り、個々の「存在しているもの」のことです。英語だと、「存在している(個々の)もの」も、それら個々の存在者の根底に〝ある〟「存在」それ自体も、同じ〈being〉という言葉になってしまうので区別しにくい。ドイツ語も基本的にはそうなのですが、〈sein〉の現在分詞形である〈seiened〉を名詞化した、〈das Seiende)という言葉が、哲学用語として一応あります。ハイデガーは、その〈das Seiende〉と、〈Sein〉を対置する表現を多用して、個々の「存在者」の単なる寄せ集めではない、「存在」それ自体が〝ある〟ことを強調します。
「存在」それ自体というと、抽象的でピンと来にくいかもしれませんが、「存在」というのは、神に繋がる言葉です。旧約聖書の出エジプト記で、神がモーゼに対して、「私は有って有るもの」だと宣言したという話が出てくるのは有名ですね。他の何かによって、「有らしめられている」のではなくて、神自身が神の存在の根拠になっている、という話です。英語だと、〈I Am Then I Am.)もしくは〈I Am the Being.)と表現します。ドイツ語だと、〈Ich Bin, der ich Bin.)とか〈Ich Bin, was ich Bin.)などとなります。ドイツ人が、〈Sein〉そのものについて問う、というような表現を見ると、すぐに神を連想するはずです。ただハイデガーは、「神」という言葉はなかなか使いません。「神」と言ってしまうと、キリスト教などの、特定の神のイメージに限定してしまうことになるので、慎重に避けているわけです。
ハイデガーは、日常的に使われている言葉をいろいろいじって、変形・造語したり、意味の深読みをしたりしながら、独自の哲学を展開するのを得意とする人です。言葉から「哲学」を引き出す達人であるわけですが、悪く言えば、ドイツ語じゃないとできないような議論をこじつけているように見えなくもない。
ただ、ダテに言葉遊びをしているわけでもありません。「私=自我」を、「現存在」と言い換えることによって、哲学的思考の軸がシフトします。分かりやすく言うと、それまでの近代哲学では、世界の中心に「私」が〝存在〟していて、その「私」が様々な「私」と同じくらい確実に存在していると言えるかどうか曖昧な--対象を認識し、それらに働きかけ、関係を持つという形で展開していたわけです。その『私』の代わりに「現存在」と言うことで、「私」自身ではなく、「私」を「有らしめている」もの、「存在」に魚点をシフトさせ、自我中心ではない形で、哲学を展開しようとしたわけです。「存在」への遡及という形で、自我中心主義から離脱しようとするハイデガーの戦略は、不安の中で、「私自身の内に、私の生きる意味を見出すことはできない。私の生の意味を教えてほしい、与えてほしい」、という〝実存的〟な願望を抱いているドイツ人たちの心情にフィットし、大きな影響を発揮することになったわけです。
『存在と時間』の論理展開はかなり複雑で、デカルト、カントだけでなく、現象学などの基礎知識も必要なので、そんなに多くの人がちゃんと理解できたとは思えませんが、「現存在」の自己自身の「存在」についての問いかけとか、「存在」それ自体が問題である、というようなキーセンテンス的な部分は、文学プラス哲学的な表現にある程度慣れている人たちには、ピンと来やすかったのではないかと思います。哲学書って、そういうところがあるでしょう。全体の論理構造が難しいし、ヘンテコな用語も多いので、なかなか全体像が頭に入ってこないけど、何かインスパイアしてくれるような、文学的で高尚な感じのキーセンスが随所に出てくると、そこだけで分かった気になれる。分からなさと、かっこよさそうな専門用語のバランスが絶妙なのが、ベストセラーになるわけです。
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うつ病患者に「頑張れ」と励ましてはいけない根拠は?
492.9『ケアの根拠』より
私は「頑張れ」という言葉は好きで、気持ちを鼓舞する言葉として自分自身に向けて使っています。「こんなことでくじけてどうする。頑張れ、頑張れ!」というふうに。また精神を病んで入院されている患者さんに対してもよく使っています。「頑張っているね。この調子だと元の生活に早く戻れそうだね」「ちょっと頑張りすぎだね。休み休みやったほうがいいよ。からだもこころも疲れちゃうからね」など。私が患者さんに使う「頑張れ」には、これ以上無理しないでリラックスしてという願いが込められています。言うなれば“期待"ではなぐ労い"とでもいうべきでしょうか。ただこれは自分自身に向けて使う「頑張れ」とは異なり、私と患者さんとの関係ができているから言えることであって、初対面の人にいきなり「頑張れ」とは言えません。「いったい何を頑張れというのだろう」とマイナスの印象を与えてしまうことになってしまいます。「頑張れ」という言葉はややつき放したような印象があるため、っらい思いをしている人には「頑張れ」ではなく「頑張ろう」と言ったほうがいい、と1995年に発生した阪神淡路大震災以後、いわれるようになりました。「頑張ろう」には「共に」という意味が含まれており、「頑張れ」よりは柔らかな表現であるために、っらい状況にある人や被災者を応援する言葉として使われるようになっています。うつ病患者に対して「頑張れ」という言葉を使ってはいけないといわれます。他に「絶対治るよ」「大丈夫」「元気だして」「大変だね皿代わってあげたい」という言葉も使ってはいけないといわれています。何とか励まそうという思いが、多くの言葉を使わせてしまうのでしょう。そのように精神科領域のみならず一般診療科においても、落ち込んでいる人を励ます言葉としで頑張れ"は使ってはいけないと広く浸透しています。それは「頑張れ」という言葉に過度のプレッシャーが含まれるからなのです。
実際にうつ病の患者さんに聞くと、「落ち込んでいるときの頑張れは、さすがにきついね。まだ頑張れというのかって感じだね。まあ、頑張れって言いたい気持ちはわかるけど」なんて返ってきます。では、「頑張れ」ではなく「頑張ろう」ならいいのでしょうか。「頑張ろう」ならば、回復してほしい思いが患者さんのこころに届くのでしょうか。実は「頑張れ」でも「頑張ろう」でもうっ病患者にとっては同じなのです。「頑張れ」という言葉が禁句なのではなく、「週度の励まし」がやってはいけない行為なのだと考えてください。うつ病はちょっと落ち込んでいる程度の状態ではありません。脳の機能が低下して、こころもからだもすべてのパワーを使い果たしている状態です。何もしないでゆっくりと休ませることが治療では優先とされます。しかしそこでの励ましは休ませることを阻害させてしまいます。だから「頑張れ」という励ましの言葉を使ってはいけないのです。
私が落ち込んでいるときに、どんなふうにされたいかと考えてみると、「頑張れ」と励まされるよりも、ニコッと笑顔で接してもらえるほうが、何十倍も気持ちいいです。笑顔は緊張をほぐし、こころを安定させる効果があります。そして接してもらえるということは、関心を寄せられていることにつながり、決して1人ではないことを意識づけてくれます。人とつながっている、誰かが関心を寄せている、そう思うことで安心感が生まれます。その安心感が最大の励ましになるのではないでしょうか。
私は「頑張れ」という言葉は好きで、気持ちを鼓舞する言葉として自分自身に向けて使っています。「こんなことでくじけてどうする。頑張れ、頑張れ!」というふうに。また精神を病んで入院されている患者さんに対してもよく使っています。「頑張っているね。この調子だと元の生活に早く戻れそうだね」「ちょっと頑張りすぎだね。休み休みやったほうがいいよ。からだもこころも疲れちゃうからね」など。私が患者さんに使う「頑張れ」には、これ以上無理しないでリラックスしてという願いが込められています。言うなれば“期待"ではなぐ労い"とでもいうべきでしょうか。ただこれは自分自身に向けて使う「頑張れ」とは異なり、私と患者さんとの関係ができているから言えることであって、初対面の人にいきなり「頑張れ」とは言えません。「いったい何を頑張れというのだろう」とマイナスの印象を与えてしまうことになってしまいます。「頑張れ」という言葉はややつき放したような印象があるため、っらい思いをしている人には「頑張れ」ではなく「頑張ろう」と言ったほうがいい、と1995年に発生した阪神淡路大震災以後、いわれるようになりました。「頑張ろう」には「共に」という意味が含まれており、「頑張れ」よりは柔らかな表現であるために、っらい状況にある人や被災者を応援する言葉として使われるようになっています。うつ病患者に対して「頑張れ」という言葉を使ってはいけないといわれます。他に「絶対治るよ」「大丈夫」「元気だして」「大変だね皿代わってあげたい」という言葉も使ってはいけないといわれています。何とか励まそうという思いが、多くの言葉を使わせてしまうのでしょう。そのように精神科領域のみならず一般診療科においても、落ち込んでいる人を励ます言葉としで頑張れ"は使ってはいけないと広く浸透しています。それは「頑張れ」という言葉に過度のプレッシャーが含まれるからなのです。
実際にうつ病の患者さんに聞くと、「落ち込んでいるときの頑張れは、さすがにきついね。まだ頑張れというのかって感じだね。まあ、頑張れって言いたい気持ちはわかるけど」なんて返ってきます。では、「頑張れ」ではなく「頑張ろう」ならいいのでしょうか。「頑張ろう」ならば、回復してほしい思いが患者さんのこころに届くのでしょうか。実は「頑張れ」でも「頑張ろう」でもうっ病患者にとっては同じなのです。「頑張れ」という言葉が禁句なのではなく、「週度の励まし」がやってはいけない行為なのだと考えてください。うつ病はちょっと落ち込んでいる程度の状態ではありません。脳の機能が低下して、こころもからだもすべてのパワーを使い果たしている状態です。何もしないでゆっくりと休ませることが治療では優先とされます。しかしそこでの励ましは休ませることを阻害させてしまいます。だから「頑張れ」という励ましの言葉を使ってはいけないのです。
私が落ち込んでいるときに、どんなふうにされたいかと考えてみると、「頑張れ」と励まされるよりも、ニコッと笑顔で接してもらえるほうが、何十倍も気持ちいいです。笑顔は緊張をほぐし、こころを安定させる効果があります。そして接してもらえるということは、関心を寄せられていることにつながり、決して1人ではないことを意識づけてくれます。人とつながっている、誰かが関心を寄せている、そう思うことで安心感が生まれます。その安心感が最大の励ましになるのではないでしょうか。
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マクドナルドの責任
マクドナルドの責任
テレビでマクドナルド戦略を放映していた。1500億円増えたことで、何が社会から減ったのか。16万人のアルバイトは幸せになれたのか。そのアルバイトの存在が社会に与えた影響をどこまで感じているのか。
大きなパティにすることで日本のエネルギーはどうなったのか。栄養はどうなったのか。
「業績を上げることが一番の目的」それでトップ企業は成り立つのか。エネルギー問題、環境問題、幸せの問題とか、本当に考えているのか。
OT38秒を30秒に縮めることで、人間とのつながりができるのか。アルバイトのモチベーションは効率だけになってしまう。スタバのバリスタは忙しそうにしながらも、話をしてくれるし、寄ってきてくれる。マクドナルドのコーヒーとの争いから生まれた、シュルツの答がサードプレイスに戻ることであった。
マクドナルドの環境で育った、16万人をどういう環境に持っていくのか、その社会的な責任の方が気になります。
パートナーの持っているもの
パートナーはあなたたちが持っていないものを持っている。それを知っているのは、私だけです。それを活かしていくのが私の役割です。
マクドナルドと吉野家は似ている
ロッテリアも単品で630円のバーガーを売り出している。高い商品を出したのはロッテリアの方が早かった。マクドナルドはそれを真似て、やってみるとうまくいくと、あたかも、自分のところがやったことで、社会が変わったと言う宣伝を行う。
吉野家は松屋などの戦略を真似ている。その点でよく似ている。吉野家の方向は見えなくなっています。ユーザーの好みの多様化を捉えられなくなっている。「これが牛丼だ」というようなことしか言えない。そんなものは見れば分かるでしょう。それを言うなら、牛鍋丼はなくすことですね。
それにしても、テリたまのセットで630円とか650円なんですね。月見バーガーはもっと安かった。夕食でしか食べられない値段です。今後はワンコインの攻防戦になると思います。
世界は自分のなかにある
ゲームをやっている連中は、世界は自分の中にあると思っている。それに気付きました。私の概念はそれを実世界に適用しているだけです。決して、突飛ではない。
レジ袋問題は終わっていない
アピタの100円ショップで210円に対して、袋をよこすのに、スーパーで袋をよこさない理由が分からない。納豆とダノンという液状のものを買ったのに。液がこぼれた時の損害に対して、スーパーは保証する体制はあるのでしょうか。自分たちの商品に対して、責任は取れるのでしょうか。
銀河宇宙
銀河宇宙には何千億の銀河がある。我々の住む地球も一千億以上ある銀河の内の一つです。これは、天文学のロマンに過ぎない。
そう聞いても、私の中の内なる世界は変わらない。「私たちの住む天の川銀河」という言い方はかなり間違っている。同じところに住んでいると言う証拠はない。
サードプレイス
元町のスタバで将棋板を置いて、将棋を行っている男女。もっと色々なモノをスタバですればいい。
四人で麻雀をやることも可能。何しろ、サードプレイス。
テレビでマクドナルド戦略を放映していた。1500億円増えたことで、何が社会から減ったのか。16万人のアルバイトは幸せになれたのか。そのアルバイトの存在が社会に与えた影響をどこまで感じているのか。
大きなパティにすることで日本のエネルギーはどうなったのか。栄養はどうなったのか。
「業績を上げることが一番の目的」それでトップ企業は成り立つのか。エネルギー問題、環境問題、幸せの問題とか、本当に考えているのか。
OT38秒を30秒に縮めることで、人間とのつながりができるのか。アルバイトのモチベーションは効率だけになってしまう。スタバのバリスタは忙しそうにしながらも、話をしてくれるし、寄ってきてくれる。マクドナルドのコーヒーとの争いから生まれた、シュルツの答がサードプレイスに戻ることであった。
マクドナルドの環境で育った、16万人をどういう環境に持っていくのか、その社会的な責任の方が気になります。
パートナーの持っているもの
パートナーはあなたたちが持っていないものを持っている。それを知っているのは、私だけです。それを活かしていくのが私の役割です。
マクドナルドと吉野家は似ている
ロッテリアも単品で630円のバーガーを売り出している。高い商品を出したのはロッテリアの方が早かった。マクドナルドはそれを真似て、やってみるとうまくいくと、あたかも、自分のところがやったことで、社会が変わったと言う宣伝を行う。
吉野家は松屋などの戦略を真似ている。その点でよく似ている。吉野家の方向は見えなくなっています。ユーザーの好みの多様化を捉えられなくなっている。「これが牛丼だ」というようなことしか言えない。そんなものは見れば分かるでしょう。それを言うなら、牛鍋丼はなくすことですね。
それにしても、テリたまのセットで630円とか650円なんですね。月見バーガーはもっと安かった。夕食でしか食べられない値段です。今後はワンコインの攻防戦になると思います。
世界は自分のなかにある
ゲームをやっている連中は、世界は自分の中にあると思っている。それに気付きました。私の概念はそれを実世界に適用しているだけです。決して、突飛ではない。
レジ袋問題は終わっていない
アピタの100円ショップで210円に対して、袋をよこすのに、スーパーで袋をよこさない理由が分からない。納豆とダノンという液状のものを買ったのに。液がこぼれた時の損害に対して、スーパーは保証する体制はあるのでしょうか。自分たちの商品に対して、責任は取れるのでしょうか。
銀河宇宙
銀河宇宙には何千億の銀河がある。我々の住む地球も一千億以上ある銀河の内の一つです。これは、天文学のロマンに過ぎない。
そう聞いても、私の中の内なる世界は変わらない。「私たちの住む天の川銀河」という言い方はかなり間違っている。同じところに住んでいると言う証拠はない。
サードプレイス
元町のスタバで将棋板を置いて、将棋を行っている男女。もっと色々なモノをスタバですればいい。
四人で麻雀をやることも可能。何しろ、サードプレイス。
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アイルランド飢饉
『イギリスの歴史』より 中学校の教科書
(ここまでのことを書くんですね)
アイルランド飢饉
19世紀のアイルランドは、イングランドと同様に、イギリスのー部を構成していました。ロンドンにあるイギリス議会に対して、アイルランド選挙区から国会議員が選出されていました。イングランド人地主は、アイルランドにあるかれらの地所に大邸宅を建設しました。アイルランド人のほとんどは農民でした。ある程度の大きさの農場を持つ農民もいましたが、多くの人びとはきわめて小さな十地しか持っていませんでした。
アイルランドの人口は、1801年の520万人から1841年の820万人へと急速に増加しました。より多くの人びとが、従来と変わらぬ面積の上地に生活していたわけで、これは各世帯がしばしば4分の1エーカーかそれ以下の土地に頼って生き存えねばならないことを意味していました。ひとつの家族がいったいどのようにしたら4分の1エーカーの土地で食べていけたというのでしょうか。
この疑問に対する答えはひとつしかありませんでした。すなわち、ジャガイモを食べるということです。ジャガイモはアイルランドの気候のもとでよく育ちました。 Iエーカーの土地で、毎年6トンから8トンのジャガイモを生産することができました。ジャガイモは、耕作のための労働がほとんど必要とされない、いわゆる「怠け者の地層」と呼ばれた大地で育てられました。前年度の耕作跡のうえに土が集積し、毎年種を播くことができました。貧しいアイルランド人家族の多くは、ジャガイモとバターミルクに多少のベーコンとキャベツで風味をつけたもの以外に何も口にしていませんでした。
そうしたさなかに災難が起こったのです。1845年、ジャガイモの葉枯れ病がアイルランドにやってきました。畑のジャガイモは異臭を放ち、食べられないほどに腐ってしまいました。そんななかで貧しい人びとはどうして生き延びることができたのでしょうか。その年、かれらは食糧を購入するために持っている物をすべて売り払ってしまいました。 しかし、葉枯れ病は1846年に再びやってきて、1847年にも再度アイルランドを襲いました。ほとんどの人びとが売るべき物をすべて失っていました。種ジャガイモも食べ尽くされてしまいました。こうして人びとは、通りや家で餓死するようになりました。飢餓で弱った多くの人びとが、チフスやコレラのような病気で命を落としました。人びとが一文無しになって地代を払えなくなると、地主はかれらを強制的に家から退去させました。多くの人びとが地面に穴を掘って生活しました。亡くなったばかりの人間の身体を食べた人もいました。
だれが助けようとしたのか?
当時のイングランドにはアイルランド人に対する差別が根強く存在していました。アイルランド人は怠惰、飲んだくれ、暴力的な怠け者として描かれていました。イギリス政府は、食料の施しをおこなうべきではないと信じていまいた。イギリス政府は、アイルランド人は施しを受けるのではなく、購入しなければならないと考えていたのです。飢えた人びとは、たとえ多くの人びとが空腹で弱っていたとしても、たとえば道路建設などの仕事をしなければならないとされました。
慈善団体が事態に足を踏み入れたのは、このときでした。 とくにクエーカー教徒は活動的で、もっとも深刻な影響を受けた地域で給食施設を用意しました。西アイルランドの多くの町で、クエーカー教徒たちは来る日も来る日も人口の4分の3の人びとに食事を与え続けていました。
飢饉はいかなる結果をもたらしたか?
100万人が死亡しました。
100万人が移住しました。イギリスに移住する者もいましたが、多くがアメリカ合衆国や、オーストラリアやカナダなど大英帝国に移住しました。アイルランドは人っ子ひとりいない土地となりました。
長く続く苦しみだけが残りました。アイルランド移民は祖国を離れたいと思っていたわけではありませんでしたが、アイルランドでの生活はもはや絶望的に思われました。飢饉の救済に失敗したとして、イギリス政府に対する恨みだけがあとに残りました。
イースター蜂起のあとで何が起こったか?
パトリック・ピアースとかれの友人に1916年のイースター蜂起を決行させたのは、アイルランドの歴史においてイングランドが絶え間なくおこなった介入に対する怒りと、ここで見てきたようなアイルランド飢饉の記憶でした。蜂起を支持するアイルランド人は、はじめのうちはごく少数でした。しかし、それから立て続けに起こった出来事が、人びとの考えを一変させることになりました。イギリス政府は蜂起に参加した人びとを簡略裁判にかけ、ひとりずつ銃殺刑によって殺していきました。ジェームズ・コノリーという男性は、負傷によって死の淵にありながら、椅子で身体を支えられて銃殺刑に処されました。イースター蜂起に参加しなかった数百人ものナショナリストたちが逮捕され、投獄されました。
(ここまでのことを書くんですね)
アイルランド飢饉
19世紀のアイルランドは、イングランドと同様に、イギリスのー部を構成していました。ロンドンにあるイギリス議会に対して、アイルランド選挙区から国会議員が選出されていました。イングランド人地主は、アイルランドにあるかれらの地所に大邸宅を建設しました。アイルランド人のほとんどは農民でした。ある程度の大きさの農場を持つ農民もいましたが、多くの人びとはきわめて小さな十地しか持っていませんでした。
アイルランドの人口は、1801年の520万人から1841年の820万人へと急速に増加しました。より多くの人びとが、従来と変わらぬ面積の上地に生活していたわけで、これは各世帯がしばしば4分の1エーカーかそれ以下の土地に頼って生き存えねばならないことを意味していました。ひとつの家族がいったいどのようにしたら4分の1エーカーの土地で食べていけたというのでしょうか。
この疑問に対する答えはひとつしかありませんでした。すなわち、ジャガイモを食べるということです。ジャガイモはアイルランドの気候のもとでよく育ちました。 Iエーカーの土地で、毎年6トンから8トンのジャガイモを生産することができました。ジャガイモは、耕作のための労働がほとんど必要とされない、いわゆる「怠け者の地層」と呼ばれた大地で育てられました。前年度の耕作跡のうえに土が集積し、毎年種を播くことができました。貧しいアイルランド人家族の多くは、ジャガイモとバターミルクに多少のベーコンとキャベツで風味をつけたもの以外に何も口にしていませんでした。
そうしたさなかに災難が起こったのです。1845年、ジャガイモの葉枯れ病がアイルランドにやってきました。畑のジャガイモは異臭を放ち、食べられないほどに腐ってしまいました。そんななかで貧しい人びとはどうして生き延びることができたのでしょうか。その年、かれらは食糧を購入するために持っている物をすべて売り払ってしまいました。 しかし、葉枯れ病は1846年に再びやってきて、1847年にも再度アイルランドを襲いました。ほとんどの人びとが売るべき物をすべて失っていました。種ジャガイモも食べ尽くされてしまいました。こうして人びとは、通りや家で餓死するようになりました。飢餓で弱った多くの人びとが、チフスやコレラのような病気で命を落としました。人びとが一文無しになって地代を払えなくなると、地主はかれらを強制的に家から退去させました。多くの人びとが地面に穴を掘って生活しました。亡くなったばかりの人間の身体を食べた人もいました。
だれが助けようとしたのか?
当時のイングランドにはアイルランド人に対する差別が根強く存在していました。アイルランド人は怠惰、飲んだくれ、暴力的な怠け者として描かれていました。イギリス政府は、食料の施しをおこなうべきではないと信じていまいた。イギリス政府は、アイルランド人は施しを受けるのではなく、購入しなければならないと考えていたのです。飢えた人びとは、たとえ多くの人びとが空腹で弱っていたとしても、たとえば道路建設などの仕事をしなければならないとされました。
慈善団体が事態に足を踏み入れたのは、このときでした。 とくにクエーカー教徒は活動的で、もっとも深刻な影響を受けた地域で給食施設を用意しました。西アイルランドの多くの町で、クエーカー教徒たちは来る日も来る日も人口の4分の3の人びとに食事を与え続けていました。
飢饉はいかなる結果をもたらしたか?
100万人が死亡しました。
100万人が移住しました。イギリスに移住する者もいましたが、多くがアメリカ合衆国や、オーストラリアやカナダなど大英帝国に移住しました。アイルランドは人っ子ひとりいない土地となりました。
長く続く苦しみだけが残りました。アイルランド移民は祖国を離れたいと思っていたわけではありませんでしたが、アイルランドでの生活はもはや絶望的に思われました。飢饉の救済に失敗したとして、イギリス政府に対する恨みだけがあとに残りました。
イースター蜂起のあとで何が起こったか?
パトリック・ピアースとかれの友人に1916年のイースター蜂起を決行させたのは、アイルランドの歴史においてイングランドが絶え間なくおこなった介入に対する怒りと、ここで見てきたようなアイルランド飢饉の記憶でした。蜂起を支持するアイルランド人は、はじめのうちはごく少数でした。しかし、それから立て続けに起こった出来事が、人びとの考えを一変させることになりました。イギリス政府は蜂起に参加した人びとを簡略裁判にかけ、ひとりずつ銃殺刑によって殺していきました。ジェームズ・コノリーという男性は、負傷によって死の淵にありながら、椅子で身体を支えられて銃殺刑に処されました。イースター蜂起に参加しなかった数百人ものナショナリストたちが逮捕され、投獄されました。
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豊田市図書館で29冊
未唯へ
パートナーの靴が見えなくて、TMの靴が見えるのはなぜなのか。座っている位置とか前傾姿勢のためなのか。
銀河宇宙
宇宙銀河は、ニュートンらしく、イラストで書いているけど、あれは偽者です。宇宙は多層的です。闇でした。私の概念の方を優先しましょう。
ネットでの新刊書予約
新刊書で取りそこなったものは図書館サイトの新刊書で調べて、予約します。枠はあと、4冊残っています。
豊田市図書館を変えるには
この図書館を作った三浦さんに5階で会いました。私同様に、図書館のあり方に文句が言いたいということです。一市民の立場から考えている。だけど、自分の時代は終わったと言うことです。私とほぼ同じ年代だから、図書館を変えましょう!
豊田市図書館は三浦さんが作ったときから、あまりにも変わっていない。職員はその意識さえない。どう変えたらいいのか分からないから、考えないのでしょう。その循環を変えないといけない。何をしたらいいのかは、世界に見に行けばいい。世界には考え、行動している人たちが多くいます。
それが難しいのであれば、国内の100館ぐらい見ていけば、ヒントが生まれます。私の思考のレベルは図書館単独から、市民の活性化に上がっています。
スタバのバリスタから先生に
駅前のスターバックスで長い間、馴染んできた女性が去っていきました。小学校の先生になる為の教育実習をしていると聞いていた。先週は新人の教育を行っていた。
この時期に、居たので、「いつまで」と聞いたら、「今日まで」とのこと。よりによって、最終日です。この辺のタイミングは私の場合は多いです。偶然がついています。
散歩の風景
午後からの散歩に出ました。土日の運動をしないと、メタボの危険が増します。
「営業日の変更のお知らせ」「営業日 毎月1日~15日、定休日 毎月16日~月末」一応、コーヒーショップらしい。
勝てないですね。
歴史のドラマ 「世界の歴史 50のドラマで見る」歴史はこんなものではなく、もっとドロドロしている。それと循環で見ていかないと、未来の歴史が見えてこない。
折角、個人と国家という対比を持ちながら、その関係がどうなっていくのかまで、言及していない。単なるドラマで終わっている。
豊田市図書館
なるべく早く、病院を終えて、図書館に行くために、8時半より、スタンバイ。単に薬を貰うだけなのに、9時40分になっていた。図書館に直行。第4金曜日は休館なので、土曜日の10時に新刊書が出ます。
10時に着けるとは思わなかった。諦めたはずなのに、なぜ、こんなに焦るのか。おかげで。29冊借りれました。先週借りた宇宙銀河は残したので、30冊満杯です。
375.33『世界の国々を調べる』
601.1『都市の地域ブランド戦略』地域経営の新しい視点
518.8『都市成長管理とゾーニングの経済分析』
007.35『デジタルコンテンツ法制』過去・現在・未来の課題
493.76『21世紀の新型うつ病』「非定型」うつ病との向かい合わせ方
392『2012年版世界軍事情勢』
141.5『アイデア・バイブル』創造性を解き放つ38の発想法
601.1『国土と未来』アジアの時代における国土整備プラン
209『50のドラマで知る世界の歴史』
312.1『この国はまだ大丈夫か』
913.6『碧海の玉座』
332.1『レジーム・チェンジ』
377.9『大学の思い出は就活です(苦笑)』大学生活50のお約束
361.7『ローカリズム原論』新しい共同体をデザインする
233.05『イギリスの歴史』イギリス中学校歴史教科書【帝国の衝撃】
104『100の思考実験』
369.36『原発避難論』
827.8『中国人が日本によく聞く100の質問』
492.9『ケアの根拠』看護の疑問に答える180のエビデンス
336.3『学習する組織』
210.7『昭和史の天皇3』
517シバ『水で世界を制する日本』
335.13『孫正義名言録 情熱編』
141.5『思考を鍛えるドリル』
335.2『世界のビジネス・アーカイブズ』企業価値の源泉
312.1『政治の混迷と憲法』政権交代を読む
133『世界を変えた哲学者たち』
361.1『夢よりも深い覚醒へ』
134.9『現代ドイツ思想講座』
パートナーの靴が見えなくて、TMの靴が見えるのはなぜなのか。座っている位置とか前傾姿勢のためなのか。
銀河宇宙
宇宙銀河は、ニュートンらしく、イラストで書いているけど、あれは偽者です。宇宙は多層的です。闇でした。私の概念の方を優先しましょう。
ネットでの新刊書予約
新刊書で取りそこなったものは図書館サイトの新刊書で調べて、予約します。枠はあと、4冊残っています。
豊田市図書館を変えるには
この図書館を作った三浦さんに5階で会いました。私同様に、図書館のあり方に文句が言いたいということです。一市民の立場から考えている。だけど、自分の時代は終わったと言うことです。私とほぼ同じ年代だから、図書館を変えましょう!
豊田市図書館は三浦さんが作ったときから、あまりにも変わっていない。職員はその意識さえない。どう変えたらいいのか分からないから、考えないのでしょう。その循環を変えないといけない。何をしたらいいのかは、世界に見に行けばいい。世界には考え、行動している人たちが多くいます。
それが難しいのであれば、国内の100館ぐらい見ていけば、ヒントが生まれます。私の思考のレベルは図書館単独から、市民の活性化に上がっています。
スタバのバリスタから先生に
駅前のスターバックスで長い間、馴染んできた女性が去っていきました。小学校の先生になる為の教育実習をしていると聞いていた。先週は新人の教育を行っていた。
この時期に、居たので、「いつまで」と聞いたら、「今日まで」とのこと。よりによって、最終日です。この辺のタイミングは私の場合は多いです。偶然がついています。
散歩の風景
午後からの散歩に出ました。土日の運動をしないと、メタボの危険が増します。
「営業日の変更のお知らせ」「営業日 毎月1日~15日、定休日 毎月16日~月末」一応、コーヒーショップらしい。
勝てないですね。
歴史のドラマ 「世界の歴史 50のドラマで見る」歴史はこんなものではなく、もっとドロドロしている。それと循環で見ていかないと、未来の歴史が見えてこない。
折角、個人と国家という対比を持ちながら、その関係がどうなっていくのかまで、言及していない。単なるドラマで終わっている。
豊田市図書館
なるべく早く、病院を終えて、図書館に行くために、8時半より、スタンバイ。単に薬を貰うだけなのに、9時40分になっていた。図書館に直行。第4金曜日は休館なので、土曜日の10時に新刊書が出ます。
10時に着けるとは思わなかった。諦めたはずなのに、なぜ、こんなに焦るのか。おかげで。29冊借りれました。先週借りた宇宙銀河は残したので、30冊満杯です。
375.33『世界の国々を調べる』
601.1『都市の地域ブランド戦略』地域経営の新しい視点
518.8『都市成長管理とゾーニングの経済分析』
007.35『デジタルコンテンツ法制』過去・現在・未来の課題
493.76『21世紀の新型うつ病』「非定型」うつ病との向かい合わせ方
392『2012年版世界軍事情勢』
141.5『アイデア・バイブル』創造性を解き放つ38の発想法
601.1『国土と未来』アジアの時代における国土整備プラン
209『50のドラマで知る世界の歴史』
312.1『この国はまだ大丈夫か』
913.6『碧海の玉座』
332.1『レジーム・チェンジ』
377.9『大学の思い出は就活です(苦笑)』大学生活50のお約束
361.7『ローカリズム原論』新しい共同体をデザインする
233.05『イギリスの歴史』イギリス中学校歴史教科書【帝国の衝撃】
104『100の思考実験』
369.36『原発避難論』
827.8『中国人が日本によく聞く100の質問』
492.9『ケアの根拠』看護の疑問に答える180のエビデンス
336.3『学習する組織』
210.7『昭和史の天皇3』
517シバ『水で世界を制する日本』
335.13『孫正義名言録 情熱編』
141.5『思考を鍛えるドリル』
335.2『世界のビジネス・アーカイブズ』企業価値の源泉
312.1『政治の混迷と憲法』政権交代を読む
133『世界を変えた哲学者たち』
361.1『夢よりも深い覚醒へ』
134.9『現代ドイツ思想講座』
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現代のギリシャ
『物語 近現代ギリシャの歴史』より
増大する国の借金
パパソドレウ政権は、これらの政策を実行に移すための財源を、ECからの資金だけでなく、四方八方から借金することで賄っていた。PASOKの言う「特権なき人々」のための社会主義的政策とは、豊かな者の富を、貧しい者に配分するのではなく、すべてを借金によって賄おうとするものであった。一九八〇年に八・一%だった公共部門借入需要(PSBR)が、一九八五年には、一七%にまで上昇した。一九八九年には、ギリシャの国内総生産(GDP)の四・五%が、ECからの資金によるものだった。
非効率な公務員・官僚制度を改革することも、PASOKの掲げた政策のひとつだった。能力主義にもとづいた、平等に選抜された人材による、能率的で専門的な職場とすることが目指されなければならなかった。しかし、実際は、公務員職と国営企業こそが、PASOKと選挙民の間に「パトロン・クライアソト関係」を生じさせる最大の温床となった。PASOKが政権を掌握する以前にも、政治家が、選挙民にたいし、投票する見返りとして、公的機関や国営企業の職を与えるといった行為はみられた。しかし、それはあくまで政治家個人と選挙民との関係だった。PASOKは、それを政党レヴェルでおこなうようになったのである。公務員職や国営企業は、党に忠実な人々で満たされた。この共犯関係は、結果的には党と国そのものの首を絞めることになった。党は、次の選挙にむけて、選挙民の飽くことをしらない要求-賃上げ、労働時間短縮、福利厚生の充実などーを受け入れ続けなければならなかったからである。さらには、赤字国営企業の民営化といった産業構造改革への取り組みを遅らせ、ギリシャ経済の市場での競争力強化を怠ったのである。
悪化する財政に対して、一九八五年一〇月から約二年間にわたり、PASOKは国民経済相の陣頭指揮のもと、通貨ドラクマの一五%切り下げ、借入縮小、金融引き締めを実施した。その結果、賃金は著しく低下したものの、営業収益性は過去数年来初めて上昇した。GDPに占めるPSBRの割合は、八五年の一八%から八七年には一二%に、経常赤字も八%から二%に減少した。インフレ率も二〇%から一六%に低下した。しかし、PASOKの政策転換への人々の不満を察知したパパソドレウは、シミティスを罷免した。PASOKは再び、借金をして濫費する政策へと回帰したのである。
一九八〇年代末には、ギリシャはGDPで、EC加盟国のアイルランドとポルトガルを下回った。EC委員会や国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構(OECD)はギリシャに警告を発した。そのどれもが、ギリシャ経済は、低投資、成長不振、国庫補助金への依存、赤字財政、高インフレ、そして金融逼迫の悪循環から逃れられないでいると指摘していた。 一九九〇年から三年間は、NDが政権を担当した。だが、「特権なき人々」の政治と称して、国民に迎合したPASOK政権の負の遺産は容易には消え去らなかった。NDの政策が、独自色を出せなかったことにも問題があった。実際、PASOKとNDの政策に大きな違いはなかった。そのような状況において、人々にとって重要だったのは、どちらの政党が、自分たちをより「甘やかして」くれるかということだった。どちらの政党が、白分たちによりよい職場を、よりよい給与を、よりよい年金を与えてくれるか、税の徴収に厳格でないか、ということが大きな関心事となった。NDもPASOKの民衆迎合主義の前例に追従した。九三年、EUが成立する直前には、再びPASOKが政権をとった。選挙が終わり、政権が変わるたびに、公共部門の規模が拡大していった。
一九九六年、パパソドレウが死去した。国を借金漬けにし、晩年は女性スキャンダルで世間を騒がせたにもかかわらず、国民は、大きな悲しみをもって彼の死を迎えた。葬儀当日の模様はテレビ中継された。アソドレアスのカリスマ性は健在で、最後まで派手な人生だった。その二年後の九八年、カラマソリスは、静かに息をひきとった。
経済危機
かつて、パパソドレウに罷免されたシミティスが次に首相となった。ひとつひとつの問題に対して具体的な解決策を見出すという姿勢から、彼は「会計士」とあだ名されていた。彼は、PASOK内で決して人気が高かったわけではない。しかし、深まる財政危機を前に、彼以外に政権を任せられない状況になっていたのである。親EU派を自認するシミティスは、「変革」ではなく、「近代化」をかかげて、党内の反対意見を抑え込みつつ、欧州共通通貨ユーロ導入にむけて、国家財政の立て直しに取り組んだ。一九九三年には、GDPの一二%を占めた財政赤字が、二〇〇〇年には一%まで低下した。この数字を基準に、ギリシャは、他のEU加盟国から二年遅れの二〇〇一年一月、欧州単一通貨ユーロを導入した。この一%という数字が、じつは「粉飾」であることが、のちに明らかとなる。
二〇〇一年春、シミティスは、国の財政を圧迫していた年金制度の改革--減額と受給に必要とされる就労年数の増加-を提案した。四月二六日、アテネだけでなく多くの都市で、改革に反対するストライキがおこった。一九七四年の軍事政権崩壊以後、もっとも大規模なストライキだった。国民の反発の前に、シミティスの改革は挫折した。ユーロ圏に加盟したことで満足したのか、シミティスの改革への意志は消散してしまったかのようだった。○四年、シミティスはPASOK党首の座を辞した。アソドレアスの息子がそれを引き継いだ。
二〇〇四年三月の選挙では、NDが政権を奪回した。一九九七年からNDの党首をつとめていたカラマンリスの甥コスタスーアレクサソドロスーカラマソリスが首相の座に就いた。同年八月、アテネでオリソピックが開催された。一八九六年にアテネで第一回近代オリンピックがおこなわれてから、一〇八年の歳月が流れていた。
二〇〇九年一〇月、PASOKが政権を奪回した。その直後、首相。ペ(ソドレゥは、前政権NDがゥソをついていたことを公けにした。二〇〇九年の財政赤字の見通しをGDPの三・七%としていたのが、実際は、こ丁七%と見積もられることが明らかとなった。政府債務残高は、二〇一〇年には、対GDP比の一二I%にまで膨らむことになると発表された。
このギリシャの財政危機の表面化が、ューロ圏に経済危機をもたらしただけでなく、日本を含めた世界の経済の動向に大きな影を落としたのである。
増大する国の借金
パパソドレウ政権は、これらの政策を実行に移すための財源を、ECからの資金だけでなく、四方八方から借金することで賄っていた。PASOKの言う「特権なき人々」のための社会主義的政策とは、豊かな者の富を、貧しい者に配分するのではなく、すべてを借金によって賄おうとするものであった。一九八〇年に八・一%だった公共部門借入需要(PSBR)が、一九八五年には、一七%にまで上昇した。一九八九年には、ギリシャの国内総生産(GDP)の四・五%が、ECからの資金によるものだった。
非効率な公務員・官僚制度を改革することも、PASOKの掲げた政策のひとつだった。能力主義にもとづいた、平等に選抜された人材による、能率的で専門的な職場とすることが目指されなければならなかった。しかし、実際は、公務員職と国営企業こそが、PASOKと選挙民の間に「パトロン・クライアソト関係」を生じさせる最大の温床となった。PASOKが政権を掌握する以前にも、政治家が、選挙民にたいし、投票する見返りとして、公的機関や国営企業の職を与えるといった行為はみられた。しかし、それはあくまで政治家個人と選挙民との関係だった。PASOKは、それを政党レヴェルでおこなうようになったのである。公務員職や国営企業は、党に忠実な人々で満たされた。この共犯関係は、結果的には党と国そのものの首を絞めることになった。党は、次の選挙にむけて、選挙民の飽くことをしらない要求-賃上げ、労働時間短縮、福利厚生の充実などーを受け入れ続けなければならなかったからである。さらには、赤字国営企業の民営化といった産業構造改革への取り組みを遅らせ、ギリシャ経済の市場での競争力強化を怠ったのである。
悪化する財政に対して、一九八五年一〇月から約二年間にわたり、PASOKは国民経済相の陣頭指揮のもと、通貨ドラクマの一五%切り下げ、借入縮小、金融引き締めを実施した。その結果、賃金は著しく低下したものの、営業収益性は過去数年来初めて上昇した。GDPに占めるPSBRの割合は、八五年の一八%から八七年には一二%に、経常赤字も八%から二%に減少した。インフレ率も二〇%から一六%に低下した。しかし、PASOKの政策転換への人々の不満を察知したパパソドレウは、シミティスを罷免した。PASOKは再び、借金をして濫費する政策へと回帰したのである。
一九八〇年代末には、ギリシャはGDPで、EC加盟国のアイルランドとポルトガルを下回った。EC委員会や国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構(OECD)はギリシャに警告を発した。そのどれもが、ギリシャ経済は、低投資、成長不振、国庫補助金への依存、赤字財政、高インフレ、そして金融逼迫の悪循環から逃れられないでいると指摘していた。 一九九〇年から三年間は、NDが政権を担当した。だが、「特権なき人々」の政治と称して、国民に迎合したPASOK政権の負の遺産は容易には消え去らなかった。NDの政策が、独自色を出せなかったことにも問題があった。実際、PASOKとNDの政策に大きな違いはなかった。そのような状況において、人々にとって重要だったのは、どちらの政党が、自分たちをより「甘やかして」くれるかということだった。どちらの政党が、白分たちによりよい職場を、よりよい給与を、よりよい年金を与えてくれるか、税の徴収に厳格でないか、ということが大きな関心事となった。NDもPASOKの民衆迎合主義の前例に追従した。九三年、EUが成立する直前には、再びPASOKが政権をとった。選挙が終わり、政権が変わるたびに、公共部門の規模が拡大していった。
一九九六年、パパソドレウが死去した。国を借金漬けにし、晩年は女性スキャンダルで世間を騒がせたにもかかわらず、国民は、大きな悲しみをもって彼の死を迎えた。葬儀当日の模様はテレビ中継された。アソドレアスのカリスマ性は健在で、最後まで派手な人生だった。その二年後の九八年、カラマソリスは、静かに息をひきとった。
経済危機
かつて、パパソドレウに罷免されたシミティスが次に首相となった。ひとつひとつの問題に対して具体的な解決策を見出すという姿勢から、彼は「会計士」とあだ名されていた。彼は、PASOK内で決して人気が高かったわけではない。しかし、深まる財政危機を前に、彼以外に政権を任せられない状況になっていたのである。親EU派を自認するシミティスは、「変革」ではなく、「近代化」をかかげて、党内の反対意見を抑え込みつつ、欧州共通通貨ユーロ導入にむけて、国家財政の立て直しに取り組んだ。一九九三年には、GDPの一二%を占めた財政赤字が、二〇〇〇年には一%まで低下した。この数字を基準に、ギリシャは、他のEU加盟国から二年遅れの二〇〇一年一月、欧州単一通貨ユーロを導入した。この一%という数字が、じつは「粉飾」であることが、のちに明らかとなる。
二〇〇一年春、シミティスは、国の財政を圧迫していた年金制度の改革--減額と受給に必要とされる就労年数の増加-を提案した。四月二六日、アテネだけでなく多くの都市で、改革に反対するストライキがおこった。一九七四年の軍事政権崩壊以後、もっとも大規模なストライキだった。国民の反発の前に、シミティスの改革は挫折した。ユーロ圏に加盟したことで満足したのか、シミティスの改革への意志は消散してしまったかのようだった。○四年、シミティスはPASOK党首の座を辞した。アソドレアスの息子がそれを引き継いだ。
二〇〇四年三月の選挙では、NDが政権を奪回した。一九九七年からNDの党首をつとめていたカラマンリスの甥コスタスーアレクサソドロスーカラマソリスが首相の座に就いた。同年八月、アテネでオリソピックが開催された。一八九六年にアテネで第一回近代オリンピックがおこなわれてから、一〇八年の歳月が流れていた。
二〇〇九年一〇月、PASOKが政権を奪回した。その直後、首相。ペ(ソドレゥは、前政権NDがゥソをついていたことを公けにした。二〇〇九年の財政赤字の見通しをGDPの三・七%としていたのが、実際は、こ丁七%と見積もられることが明らかとなった。政府債務残高は、二〇一〇年には、対GDP比の一二I%にまで膨らむことになると発表された。
このギリシャの財政危機の表面化が、ューロ圏に経済危機をもたらしただけでなく、日本を含めた世界の経済の動向に大きな影を落としたのである。
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簡潔な表現で未唯「空間」
未唯へ
何となく、頭がもやっとしています。花粉の性なのでしょう。眠りが浅くて、夢が連続しています。
持ち物を本当に少ないですね。自分の全てが記述されているシートとカード型のICレコーダとペンだけです。時計として使っていたケータイとメモ帳はなくしました。
金曜日だから、趣を変えて、フレンチトーストとトールラテにしました。いつものバリスタが居なかったから、反応が薄かった。
本・図書館編の先
6.8は冴えないですね。ピンと来ません。焼き直しになっています。ライブラリが全てを支配するようなコンセプトにしましょう。
生活編の因数分解
生活編に入りました。言葉をさらに短くします。「他人の存在が信じられない」を「他人の存在」だけにします。自分のことだから、いくらでも圧縮できます。心の中の分析です。
「初恋の女性と夜汽車で寄り添う」はロマンチストにあります。ここも「夜汽車」だけです。それでイメージできます。イメージで展開していくしかない。
簡潔な表現の意味
簡潔すれば、するほど、人から見たら、分からないでしょうね。その代わりに空間が広がります。簡潔にした文字と論理を合わせると、人生の縮図です。ダイアログです。
例えば、「未唯」=「数学者」⇔「動物病院」→「未唯への手紙」を言葉にすると、「結婚前に未唯という名前に決め、数学者になった時に活動できるようにしようとした。だけど、彼女は動物病院の看護婦さんになってしまった。だから、私は未唯への手紙を分析することにした」
完全に暗号の世界です。これを広げていけばいい。記号一つでいくらでもバリエーションができる。ゲームとしては面白いですね。人が作ったゲームよりも自分のゲームをすればいいのに。そうすれば、自分が何を考えているかが分かってくる。
これだけ、文章を書いて、さまざまな表現を使ってくると、そう思いたくなります。「てにをは」とか順番はいくらでも変えられます。文章と言うのはそういうことです。ロジックが重要です。
ブログ作成が遅れている
明日、また本が入ってくるから、それまでに雑記帳の内容をブログにアップして置きます。全ては必要ない。観点があるものにします。ブログには敢えて、観点は書いていません。自分なら分かるから。
ブルバキは記号だらけ
大学に入った時に、フランスの数学集団のブルバキを知って、ビックリした。言葉を使わずに、数式と関係だけを使って、概念を表して、真理を探究しようとしていた。
ブルバキの「数学史」は3500円した。2日間のアルバイトをして、買い込んだ。数式で書くだけなら、世界共有です。これは真理とつながる。ベースとなる、イメージが異なれば、異なる答が出てくるのは、私のやり方はブルバキを超えている。
未唯「空間」を作る
単語にしておけば、単語でお題とつながります。お題で内容が記述できます。未唯「空間」の本当の意味は、空間を作り出すことです。7つのジャンルを超えた世界を作り出します。
これだけの空間を理解させるには、更なる技術が必要です。これをまとめていきます。プレゼンで一部分だけ分かった気になるのでなく、全体の空間から入れるようにしておきましょう。
文章を単純にした時の良さは言い切りです。割り切りです。そこからイメージを作り出します。
入試問題で、以下の単語を使って、歴史的な事実を述べよ、そんな感じですね。完璧に教科書の文章を覚えるには限界があります。歴史を論理とか、因果関係で掴まえる人が高得点です。答は百人いたら。百通りあります。
Lispを使っていた
研究開発部署で、人工知能を行っていた時は、Lispとかフレームとかチェーンを使っていた。これらも考えたい。
LispはECUの挙動解析で使いました。その時には中野さんがいたので、頼みました。色々なアイデアを出してくれた。期待に応えてくれた。原因と結果をつなぎ合わせることを行ってもらった。システム部署にLispのエキスパートがいたので、フレームを頼みました。
最終的に人工知能で、未唯空間の解析を行えることもありかなと思います。
時差ぼけ
奥さんはハワイから帰ったら、そのまま、九州のおばさんの所に行くみたいです。時差ぼけしている暇はないと言ってました。
私は飛行機の中では寝ることはありません。だから、現地でも、日本でも時差ぼけはしません。アテネに行った時は、姪夫婦に案内してもらって、夜遅くにアテネの夜景が見える丘を登りました。完全に睡眠不足で動けなかった。姪の旦那に手伝って、頂上に着いたが、ほとんど寝ていた。
何となく、頭がもやっとしています。花粉の性なのでしょう。眠りが浅くて、夢が連続しています。
持ち物を本当に少ないですね。自分の全てが記述されているシートとカード型のICレコーダとペンだけです。時計として使っていたケータイとメモ帳はなくしました。
金曜日だから、趣を変えて、フレンチトーストとトールラテにしました。いつものバリスタが居なかったから、反応が薄かった。
本・図書館編の先
6.8は冴えないですね。ピンと来ません。焼き直しになっています。ライブラリが全てを支配するようなコンセプトにしましょう。
生活編の因数分解
生活編に入りました。言葉をさらに短くします。「他人の存在が信じられない」を「他人の存在」だけにします。自分のことだから、いくらでも圧縮できます。心の中の分析です。
「初恋の女性と夜汽車で寄り添う」はロマンチストにあります。ここも「夜汽車」だけです。それでイメージできます。イメージで展開していくしかない。
簡潔な表現の意味
簡潔すれば、するほど、人から見たら、分からないでしょうね。その代わりに空間が広がります。簡潔にした文字と論理を合わせると、人生の縮図です。ダイアログです。
例えば、「未唯」=「数学者」⇔「動物病院」→「未唯への手紙」を言葉にすると、「結婚前に未唯という名前に決め、数学者になった時に活動できるようにしようとした。だけど、彼女は動物病院の看護婦さんになってしまった。だから、私は未唯への手紙を分析することにした」
完全に暗号の世界です。これを広げていけばいい。記号一つでいくらでもバリエーションができる。ゲームとしては面白いですね。人が作ったゲームよりも自分のゲームをすればいいのに。そうすれば、自分が何を考えているかが分かってくる。
これだけ、文章を書いて、さまざまな表現を使ってくると、そう思いたくなります。「てにをは」とか順番はいくらでも変えられます。文章と言うのはそういうことです。ロジックが重要です。
ブログ作成が遅れている
明日、また本が入ってくるから、それまでに雑記帳の内容をブログにアップして置きます。全ては必要ない。観点があるものにします。ブログには敢えて、観点は書いていません。自分なら分かるから。
ブルバキは記号だらけ
大学に入った時に、フランスの数学集団のブルバキを知って、ビックリした。言葉を使わずに、数式と関係だけを使って、概念を表して、真理を探究しようとしていた。
ブルバキの「数学史」は3500円した。2日間のアルバイトをして、買い込んだ。数式で書くだけなら、世界共有です。これは真理とつながる。ベースとなる、イメージが異なれば、異なる答が出てくるのは、私のやり方はブルバキを超えている。
未唯「空間」を作る
単語にしておけば、単語でお題とつながります。お題で内容が記述できます。未唯「空間」の本当の意味は、空間を作り出すことです。7つのジャンルを超えた世界を作り出します。
これだけの空間を理解させるには、更なる技術が必要です。これをまとめていきます。プレゼンで一部分だけ分かった気になるのでなく、全体の空間から入れるようにしておきましょう。
文章を単純にした時の良さは言い切りです。割り切りです。そこからイメージを作り出します。
入試問題で、以下の単語を使って、歴史的な事実を述べよ、そんな感じですね。完璧に教科書の文章を覚えるには限界があります。歴史を論理とか、因果関係で掴まえる人が高得点です。答は百人いたら。百通りあります。
Lispを使っていた
研究開発部署で、人工知能を行っていた時は、Lispとかフレームとかチェーンを使っていた。これらも考えたい。
LispはECUの挙動解析で使いました。その時には中野さんがいたので、頼みました。色々なアイデアを出してくれた。期待に応えてくれた。原因と結果をつなぎ合わせることを行ってもらった。システム部署にLispのエキスパートがいたので、フレームを頼みました。
最終的に人工知能で、未唯空間の解析を行えることもありかなと思います。
時差ぼけ
奥さんはハワイから帰ったら、そのまま、九州のおばさんの所に行くみたいです。時差ぼけしている暇はないと言ってました。
私は飛行機の中では寝ることはありません。だから、現地でも、日本でも時差ぼけはしません。アテネに行った時は、姪夫婦に案内してもらって、夜遅くにアテネの夜景が見える丘を登りました。完全に睡眠不足で動けなかった。姪の旦那に手伝って、頂上に着いたが、ほとんど寝ていた。
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蹂躙されるギリシャ
『物語 近現代ギリシャの歴史』より
蹂躙されるギリシャ
ギリシャヘの攻撃は、一九四一年四月六日に開始された。ギリシャ軍と、援軍のイギリス軍は、ドイツ軍の攻撃の前に手も足もでなかった。四月二七日、ドイツ軍はアテネに入城した。アクロポリスの丘のギリシャ国旗が降ろされ、ナチ党のハーケンクロイツの旗が掲げられた。ギリシャ領内で最後まで持ちこたえていたクレタ島も、ドイツ軍のパラシュート部隊によって、六月の初めには陥落した。
ギリシャ全土は、枢軸国--ドイツ、イタリア、ブルガリア--によって分割・占領された。ブルガリアは、自国領の南に広がる東マケドニアと西トラキアを得た。ドイツは、戦略的に最も重要な地域--ギリシャ第二の都市テッサロニキを含む西マケドニア、トルコ国境に接する部分のトラキア、トルコ沿岸部に近いエーゲ海の島々、クレタ島西部--を支配下においた。イタリアは、アルバニア国境の南に広がるイピロス、テッサリア、ステレア・エラダ、ペロポネソス半島、エーゲ海のキクラデス諸島を含め、ドイツが獲得した島以外を手にした。首都アテネは、ドイツ、イタリア、ブルガリア三国による共同占領とされたが、実質的にはドイツの統制下に置かれた。
国王ゲオルギオスニ世とエマヌエルーッデロス首相率いる政府、そしてギリシャ軍の一部は、クレタ島に避難した。クレタ島がドイッ軍の手に落ちると、政府と国王はロンドンに亡命し、一九四三年三月以降はエジプトに拠点を置いた。ギリシャでは、ッォラコグル将軍を首班とする傀儡政権が樹立された。この政府は、ギリシャ・ファシスト党やギリシャ民族同盟、ギリシャ国家社会主義政治組織といった極右政党によって支持された。
ドイツ軍は、苛酷な占領体制をしいて、ギリシャ経済を徹底的に破壊した。ボーキサイトなどの鉱物資源を奪取し、小麦、オリーヴ、ヮイソ、柑橘類といった農作物を、占領軍のために徴発した。ギリシャの人々は、ドイツ軍の占領経費の肩代わりも要求された。そのような容赦のないやり方に、同盟国イタリアのムッソリーニですら、不満を口にした。「ドイツ人は、ギリシャ人から靴ひもすら奪っている。それなのに、今となって、ギリシャの経済状況が悪化したのは、われわれイタリア人の責任であるかのように装っている」。
ドイツ軍による占奪は、一九四一年から四二年の冬に、厳しい食糧難をもたらした。ギリシャ人と結婚してアテネに住んでいた、あるイギリス人女性は、一九四二年二月二四日の日記に、こう記した。太陽が顔を出して、穏やかな日。春が近づいている。でも、ますます多くの人々が飢えのために死にかけている。一日平均五〇〇人が命を落としているらしい。外では、舗道に死体が横たわっているのをよく目にする。死体をまたいで歩くのにだんだん慣れてきた。ヨルゴス[夫]によると、市の手押し車が、夜明けに死体を収集しているということだ。
街頭に横たわる死体は、アテネの日常の風景の一部となっていた。この冬、ギリシャ全土で、およそ二〇万から三〇万の人々が、飢えのために命を落とした。捨て子の数も増えた。貧しさのために子どもを養うことができなくなった親たちが、裕福なギリシャ人家庭や赤十字施設の玄関先に、子どもを置き去りにした。
「自由を取り戻せ!」
超インフレが、食糧不足につづいた。日用品の値段は急騰し、ギリシャ経済は壊滅的状況に陥った。パンの価格は、一九四三年には戦前の二二○○倍、一九四四年には三四〇万倍、チーズの価格は、一九四三年には二〇〇〇倍、一九四四年には一億九三〇〇万倍にまで跳ね上がった。闇市が繁盛し、悪徳業者と対敵協力者が利益をむさぼった。多くのギリシャ人にとって、毎日を生き延びることが戦いだった。
ギリシャ人が愛してやまない自由が失われた。彼らがなすべきことはなにか。それはもちろん、枢軸国軍に抵抗し、彼らをギリシャの地から追い出し、自由を再び手にすることだった。ギリシャ人は、占領軍に頭を垂れて従っているだけではなかった。ドイツ人は、ギリシャ人を故意に飢えさせることによって、彼らを自分たちに隷属させることを目論んだ。しかし、占領軍による収奪の残酷さと、一九四一年から四二年にかけての食糧難は、正反対の行動へと、ギリシャ人を向かわせたのである。ドイツの国家秘密警察ゲシュタポの報告によると、ギリシャ人は、フランス人やチェコ人よりも、あからさまに反ナチズムの態度を示したという。
蹂躙されるギリシャ
ギリシャヘの攻撃は、一九四一年四月六日に開始された。ギリシャ軍と、援軍のイギリス軍は、ドイツ軍の攻撃の前に手も足もでなかった。四月二七日、ドイツ軍はアテネに入城した。アクロポリスの丘のギリシャ国旗が降ろされ、ナチ党のハーケンクロイツの旗が掲げられた。ギリシャ領内で最後まで持ちこたえていたクレタ島も、ドイツ軍のパラシュート部隊によって、六月の初めには陥落した。
ギリシャ全土は、枢軸国--ドイツ、イタリア、ブルガリア--によって分割・占領された。ブルガリアは、自国領の南に広がる東マケドニアと西トラキアを得た。ドイツは、戦略的に最も重要な地域--ギリシャ第二の都市テッサロニキを含む西マケドニア、トルコ国境に接する部分のトラキア、トルコ沿岸部に近いエーゲ海の島々、クレタ島西部--を支配下においた。イタリアは、アルバニア国境の南に広がるイピロス、テッサリア、ステレア・エラダ、ペロポネソス半島、エーゲ海のキクラデス諸島を含め、ドイツが獲得した島以外を手にした。首都アテネは、ドイツ、イタリア、ブルガリア三国による共同占領とされたが、実質的にはドイツの統制下に置かれた。
国王ゲオルギオスニ世とエマヌエルーッデロス首相率いる政府、そしてギリシャ軍の一部は、クレタ島に避難した。クレタ島がドイッ軍の手に落ちると、政府と国王はロンドンに亡命し、一九四三年三月以降はエジプトに拠点を置いた。ギリシャでは、ッォラコグル将軍を首班とする傀儡政権が樹立された。この政府は、ギリシャ・ファシスト党やギリシャ民族同盟、ギリシャ国家社会主義政治組織といった極右政党によって支持された。
ドイツ軍は、苛酷な占領体制をしいて、ギリシャ経済を徹底的に破壊した。ボーキサイトなどの鉱物資源を奪取し、小麦、オリーヴ、ヮイソ、柑橘類といった農作物を、占領軍のために徴発した。ギリシャの人々は、ドイツ軍の占領経費の肩代わりも要求された。そのような容赦のないやり方に、同盟国イタリアのムッソリーニですら、不満を口にした。「ドイツ人は、ギリシャ人から靴ひもすら奪っている。それなのに、今となって、ギリシャの経済状況が悪化したのは、われわれイタリア人の責任であるかのように装っている」。
ドイツ軍による占奪は、一九四一年から四二年の冬に、厳しい食糧難をもたらした。ギリシャ人と結婚してアテネに住んでいた、あるイギリス人女性は、一九四二年二月二四日の日記に、こう記した。太陽が顔を出して、穏やかな日。春が近づいている。でも、ますます多くの人々が飢えのために死にかけている。一日平均五〇〇人が命を落としているらしい。外では、舗道に死体が横たわっているのをよく目にする。死体をまたいで歩くのにだんだん慣れてきた。ヨルゴス[夫]によると、市の手押し車が、夜明けに死体を収集しているということだ。
街頭に横たわる死体は、アテネの日常の風景の一部となっていた。この冬、ギリシャ全土で、およそ二〇万から三〇万の人々が、飢えのために命を落とした。捨て子の数も増えた。貧しさのために子どもを養うことができなくなった親たちが、裕福なギリシャ人家庭や赤十字施設の玄関先に、子どもを置き去りにした。
「自由を取り戻せ!」
超インフレが、食糧不足につづいた。日用品の値段は急騰し、ギリシャ経済は壊滅的状況に陥った。パンの価格は、一九四三年には戦前の二二○○倍、一九四四年には三四〇万倍、チーズの価格は、一九四三年には二〇〇〇倍、一九四四年には一億九三〇〇万倍にまで跳ね上がった。闇市が繁盛し、悪徳業者と対敵協力者が利益をむさぼった。多くのギリシャ人にとって、毎日を生き延びることが戦いだった。
ギリシャ人が愛してやまない自由が失われた。彼らがなすべきことはなにか。それはもちろん、枢軸国軍に抵抗し、彼らをギリシャの地から追い出し、自由を再び手にすることだった。ギリシャ人は、占領軍に頭を垂れて従っているだけではなかった。ドイツ人は、ギリシャ人を故意に飢えさせることによって、彼らを自分たちに隷属させることを目論んだ。しかし、占領軍による収奪の残酷さと、一九四一年から四二年にかけての食糧難は、正反対の行動へと、ギリシャ人を向かわせたのである。ドイツの国家秘密警察ゲシュタポの報告によると、ギリシャ人は、フランス人やチェコ人よりも、あからさまに反ナチズムの態度を示したという。
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地球温暖化対策はこう進める
『歴史学者経営の難問を解く』より
二律背反を克服する唯一の方法=省エネ
地球温暖化対策の実施にとっての最大のネックは、それが取り組み方によっては、「豊かさ」を求める人間の欲求と矛盾することになりかねないという問題である。そのようなケースでは、いわば「豊かさ」と「地球救済」がトレードオフの関係になる構図が成立するわけであり、この構図を突き破らない限り地球温暖化対策の本格的な進展は期待することができない。京都議定書が定めた温室効果ガス排出量削減目標の国別設定の枠組みに中国やインドなどの新興国が参加しなかったのも、目標設定が自国における「豊かさ」の実現をm害することを恐れたからであった。
「豊かさ」と「地球救済」とのトレードオフを解消する唯一の道は、省エネルギーの推進にある。そのことは、世界の主要国・地域のGDP(国内総生産)単位当たりの1次エネルギー消費量を、2007年時点のIEA、国際エネルギー機関)のデータにもとづいて比較してみるとよくわかる。
具体的には、国・地域ごとに石油換算した1次エネルギー消費量を、米ドル換算したGDPで除し、各国・各地域の数値を算出してみる。そうすると、省エネルギーがかなり進んでいるはずのEU(欧州連合)でも、同一規模のGDPを生み出すのに日本のI・8倍のエネルギーを消費していることがわかる。
この倍率は、アメリカでは2・1倍、韓国とカナダでは3倍強、タイと中東では6倍強に及び、インドネシア・中国・インドでは8倍前後に達する。ロシアにいたっては、日本の16・8倍のエネルギーを使用しているのである(世界平均でもその数値は、3・1倍に達する)。
この事実は、世界各国・各地域が日本並みの省エネルギー水準に到達すれば、「豊かさ」を維持・拡大しながら、エネルギー消費量を大幅に減らす(そのことは、温室効果ガス排出量の大幅削減をも意味する)ことができることを、雄弁に物語っている。省エネルギーの推進こそ、「豊かさ」と「地球救済」とのトレードオフを解消する唯一の道なのである。
日本で25%削減しても世界では1%強しか減らない
ここで問題にしたいのは、そもそも、鳩山元首相が掲げたように日本が国内で温室効果ガス排出量を1990年度に比べて25%削減したとしても、地球温暖化をストップするうえでの貢献度はそれほど高くないという点である。
それは、国別目標を掲げて温室効果ガス排出量を削減しようとする方式(いわゆる「国別アプローチ」)の限界とでも言うべき問題である。
温室効果ガス排出量の大きな部分(世界では62%、日本では89%)を占めるのは子不ルギー起源のCO2排出量であるが、そのエネルギー起源CO2排出量の国(ないし地域)別構成比を、2007年について示したものである。この図表からわかるように、日本のCO2排出量は世界のそれの4%強を占めるにすぎない(2007年の世界のCO2排出量は290億トン、日本のCO2排出量は12億トン)。
つまり、日本が2020年までにCO2排出量削減の25%目標を達成したとしても、それだけでは世界のCO2排出量は1%強(4%強×25%=1%強)しか減らないわけである。日本が25%目標を達成したとしても、「地球温暖化をストップするうえでの貢献度はそれほど高くない」といった理由は、ここにある。
海外でCO2を削減すれば日本はストップ温暖化の主役になれる
それでは日本は、地球温暖化をストップするうえで、主導的な役割を果たせないのだろうか。答えは断じて「否」である。すなわち、わが国は適切なやり方を採用しさえすれば、ストップ温暖化の国際的主役ともなりうるのである。
わが国がとるべき「適切なやり方」とは何か。本章で強調してきたように、それは、①トップランナー方式、②セクター別アプローチ、③LCAの考え方、という3つの切り札を世界に向けて発信し、海外でCO2排出量を削減することである。
温室効果ガスの削減にとってトップランナー方式は、民生部門や業務部門で有効性が高い。一方、セクター別アプローチは、産業部門・発電部門(エネルギー転換部門)・運輸部門でとくに威力を発揮する。LCAは、これらすべての部門に深くかかわり合っている。ストップ温暖化を真剣に推進するためには、これら3つの切り札を行使することがきわめて重要であり、これらを行使することによってわが国は、ストップ温暖化の国際的主役となりうるのである。
二律背反を克服する唯一の方法=省エネ
地球温暖化対策の実施にとっての最大のネックは、それが取り組み方によっては、「豊かさ」を求める人間の欲求と矛盾することになりかねないという問題である。そのようなケースでは、いわば「豊かさ」と「地球救済」がトレードオフの関係になる構図が成立するわけであり、この構図を突き破らない限り地球温暖化対策の本格的な進展は期待することができない。京都議定書が定めた温室効果ガス排出量削減目標の国別設定の枠組みに中国やインドなどの新興国が参加しなかったのも、目標設定が自国における「豊かさ」の実現をm害することを恐れたからであった。
「豊かさ」と「地球救済」とのトレードオフを解消する唯一の道は、省エネルギーの推進にある。そのことは、世界の主要国・地域のGDP(国内総生産)単位当たりの1次エネルギー消費量を、2007年時点のIEA、国際エネルギー機関)のデータにもとづいて比較してみるとよくわかる。
具体的には、国・地域ごとに石油換算した1次エネルギー消費量を、米ドル換算したGDPで除し、各国・各地域の数値を算出してみる。そうすると、省エネルギーがかなり進んでいるはずのEU(欧州連合)でも、同一規模のGDPを生み出すのに日本のI・8倍のエネルギーを消費していることがわかる。
この倍率は、アメリカでは2・1倍、韓国とカナダでは3倍強、タイと中東では6倍強に及び、インドネシア・中国・インドでは8倍前後に達する。ロシアにいたっては、日本の16・8倍のエネルギーを使用しているのである(世界平均でもその数値は、3・1倍に達する)。
この事実は、世界各国・各地域が日本並みの省エネルギー水準に到達すれば、「豊かさ」を維持・拡大しながら、エネルギー消費量を大幅に減らす(そのことは、温室効果ガス排出量の大幅削減をも意味する)ことができることを、雄弁に物語っている。省エネルギーの推進こそ、「豊かさ」と「地球救済」とのトレードオフを解消する唯一の道なのである。
日本で25%削減しても世界では1%強しか減らない
ここで問題にしたいのは、そもそも、鳩山元首相が掲げたように日本が国内で温室効果ガス排出量を1990年度に比べて25%削減したとしても、地球温暖化をストップするうえでの貢献度はそれほど高くないという点である。
それは、国別目標を掲げて温室効果ガス排出量を削減しようとする方式(いわゆる「国別アプローチ」)の限界とでも言うべき問題である。
温室効果ガス排出量の大きな部分(世界では62%、日本では89%)を占めるのは子不ルギー起源のCO2排出量であるが、そのエネルギー起源CO2排出量の国(ないし地域)別構成比を、2007年について示したものである。この図表からわかるように、日本のCO2排出量は世界のそれの4%強を占めるにすぎない(2007年の世界のCO2排出量は290億トン、日本のCO2排出量は12億トン)。
つまり、日本が2020年までにCO2排出量削減の25%目標を達成したとしても、それだけでは世界のCO2排出量は1%強(4%強×25%=1%強)しか減らないわけである。日本が25%目標を達成したとしても、「地球温暖化をストップするうえでの貢献度はそれほど高くない」といった理由は、ここにある。
海外でCO2を削減すれば日本はストップ温暖化の主役になれる
それでは日本は、地球温暖化をストップするうえで、主導的な役割を果たせないのだろうか。答えは断じて「否」である。すなわち、わが国は適切なやり方を採用しさえすれば、ストップ温暖化の国際的主役ともなりうるのである。
わが国がとるべき「適切なやり方」とは何か。本章で強調してきたように、それは、①トップランナー方式、②セクター別アプローチ、③LCAの考え方、という3つの切り札を世界に向けて発信し、海外でCO2排出量を削減することである。
温室効果ガスの削減にとってトップランナー方式は、民生部門や業務部門で有効性が高い。一方、セクター別アプローチは、産業部門・発電部門(エネルギー転換部門)・運輸部門でとくに威力を発揮する。LCAは、これらすべての部門に深くかかわり合っている。ストップ温暖化を真剣に推進するためには、これら3つの切り札を行使することがきわめて重要であり、これらを行使することによってわが国は、ストップ温暖化の国際的主役となりうるのである。
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