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メールのトラウマ

メールのトラウマ

 メールが返ってきません。落ち込んでいます。なんでこんなことを気にしないといけないのか。やるべきことはあるでしょう。取りあえずは、寝ましょう。

 自分って、何なのか? また、宇宙に漂っている感覚です。人類って、何なのか? 何をあたふたしているのか。どうしても、存在に帰ってきます。

 パートナーでこういう感覚になるのは、割と好きかもしれない。この胸が張り裂けそうな、ネガティブな感覚は好きなのは確かです。ぶっ飛ぶことにしました。今週は、ケータイから始まった。そして、ケータイで終わるのか。パートナーの不安定さがすぐ、移ります。

 昔は、木の芽時は考えることに集中した。それと同じような時期になっている。今は、考える以外のことは何もしたくない。だから、道具も最低限にしました。ICレコーダーひとつにしましょう。

パートナーの問題意識

 パートナーは本当に、自分の問題意識をゆっくり説明できたのか?それが気になっています。押し切られてはいけない。そう言うと、プレッシャーになるから言いません。

 私の場合の問題意識は、あまりにもでかすぎて、それを受けるところがなかった。受けるのは歴史が受けます。生まれてきたものとして、存在の力で解決させるしかない。解決できなくてもいいけど、その時点では、存在していないけど、思いだけは残します。この世界があるかどうか分からないけど。

 なぜ、偶然を使わないのか。パートナーは、自分がそこに居ることで、小さなものが大きくなる、殻を破れるときなのに。

社会の位相化

 今週は本を少なくして、未唯空間の位相化に集中させます。人類は進化するしか道がないのに、なぜ、それをしないのか。他っておけばいい。

 社会を位相化することができるかどうか。それは仕掛けてはダメです。気づいて、それぞれが変わってくるものを方向付けていく。個人がいくつものから集まっているという認識も具体的なモノからやっていくしかない。

 世の中のハブ的な人間から変わっていかせる形です。私は動きません。2050年に歴史は変節点を向かえます。そうなった時に、私たちの存在も大きく変わります。

本来的な時間

 それは本来的な時間です。退屈している場合ではない、仕事している場合ではない。それが本来的な時間。

豊田市図書館の26冊

 三冊、積み残しで、26冊です。重たくても、4冊を持ってくるべきだった。ちょっと、読む力を戻しましょう。

 007.35『アップルの破壊的イノベーション』

 290.93『ロングステイ入門ガイド』

 016.25『どうか、お静かに』

 914.6『たとえ明日世界が滅びようとも』

 913.6『八八艦隊海戦譜 攻防篇1』

 913.6『リーガル・ハイSP』

 289.1『岩波茂雄』

 702.1『日本美を哲学する』

 159『完訳 7つの習慣』

 702.37『ルネサンス天才の素顔』

 490.4『医療の巨大転換を加速する』

 302.27『シリア・レバノンを知るための64章』

 342.1『「財政危機」超入門』

 410.2『無限をつかむ』

 596.65『パンケーキを焼く』

 589『暮らしを楽しくする道具BOOK』

 302.34『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』

 367.21『ママの世界はいつも戦争』

 368.71『関東連合』

 331.84『マーケットデザイン』

 319『「世界紛争地図」の読み方』

 361.83『となりの億万長者』

 597.5『自在力』

 402.9『ビーグル号航海記 上

 402.9『ビーグル号航海記 下

 493.8『なぜ感染症が人類最大の敵なのか?
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ハイデッガ--存在と時間をめぐる思索

『1日で学び直す哲学』より

時間という地平

 私たちは第四章でカントの認識論を扱った際、カテゴリーが機能して認識が成立するためには2つの条件が必要であることを確認しました。様々な情報を総合・統括する「私」の存在、そして時間の均質化でした。

 ハイデッガーは、カントが問題をここまで煮詰めていながら、さらにあと一歩考察を深めなかったことを、カントに対する敬意を払いつつ批判します。ハイデッガーにとって、時間こそが根源的なのです。

 それはつまり、「私」の存在も時間の均質化も、根源的な時間が人間において開けることで可能になる、ということです。

人間の存在=時間である

 時間の均質化に関して言えば、時間が均質化されるためには、均質化される前の時間(=根源的時間)があらかじめなければなりません。時間の均質化は、根源的な時間が人間において開かれることを前提にしています。

 また、「私」の存在も時間を前提にしています。人間が自分のことを「私」として意識するのは、自分から離れた超越的な視点を設定できるからでした。そして、この「超越的な視点の設定」も時間を前提にしています。

 時間が人間において開けるということは、私たちが過去・現在・未来を区別するということです。過去とは「もはやないもの」であり、未来とは「まだないもの」で、いずれも現在とは異なるものです。このように、「もはやないもの」と「まだないもの」を「いまあるもの」と区別すること(=差異化)が、時間を開くということなのです。

 このように、「もはやない」過去や「まだない」未来を、目の前にある「いま」と区別することによって、私たちは自分がいまいる時点から自らの視点を引き離すことができます。過去を現在と区別しているということは、すでに過ぎ去った過去の時点に自分の視点を置くことができるということです。また、未来と現在を区別できるということは、いまだ到来していない未来の時点に想像的に自分の視点を置くことができるということです。

 このように「過去・現在・未来」という時間の地平が開けることで、人間は超越的な視点を設定して自己意識を獲得し、「私」の存在が成り立ちます。人間の存在は時間なのです。

言葉と時間

 翻って考えてみれば、言語も時間の地平が開けることで可能となることがわかります。

 言葉を聞いて理解するためには、次から次へと聞こえてきては消えていく言葉を、忘れずに記憶の中で保持することができなければなりません。

 慣れない外国語を聞き取るときのことを思い出してください。「いま」聞こえてくる音を聞き取るのに精一杯な場合は、過ぎ去ってしまった音や単語は記憶にとどまっていません。そのため一文を聞き終わったときに、その文の全体を再構成することができず、結局意味がわからなくなってしまうのです。

 言葉の理解のために必要なのは、過ぎ去った言葉の保持だけではありません。私たちは人の話を聞いているとき、漠然とあとに続く言葉を予測しながら聞いています。これも、外国語の場合と比較してみればよくわかるでしょう。外国語の場合は、語彙の不足や、慣用的な言い回しに習熟していないといった事情が重なって、次にくる言葉に対する身構えが不十分なのです。さらに、「いま」聞こえてくる音に全神経を集中させていると、次にくる言葉のほうに意識がなかなか向きません。

 過ぎ去った単語は忘却の彼方へと消えていき、新たにやってくる単語からは常に不意打ちを食らい、「いま」聞こえている音にしがみつくのがやっとI。このような状態では、言葉が理解されるはずもありません。
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ヘーゲル--作裂する存在

『1日で学び直す哲学』より

誰もが「私」

 以上のことは、「私」という言葉のあり方を考えてみてもわかります。ヘーゲルはこう言っています。

 「人間がはじめて自己を二重化し、普遍的なものが普遍的なものに対してあるようになる。これは人間が自己を『我』として知るときに最初に行われる。」(前掲書)

 自分のことを「私」と呼ぶ行為は、自分に「私」というレッテルを貼りつけることではありません。

 自分だけではなく、他人も自分のことを「私」と呼びます。「私」というのは決して自分のことではなく、自分を含めたすべての人間が「私」なのです。私たちは、自分という個別的な存在のことを「私」と言うのだと思い込んでいますが、実際には「私」というのは普遍的なものなのです。

 このことを理解してはじめて、人間は自分のことを「私」と呼ぶことができます。そうでなければ、私たちは他人が自分のことを「私」と呼ぶのを見て、混乱してしまうことでしょう。

 人間が自分のことを「私」とか「僕」とか呼べるようになるためには、自分や他人を俯瞰できる位置に視点を置いて、自分も他人も「私」なのだということを理解できなければならないのです。それゆえ、自分のことを「私」という一人称で呼べるようになったということは、自分のいる場所とは別の所に別の視点を設定できるようになったということ、言いかえれば、自己意識を獲得したということを意味します。「私」とは自己意識なのです。

他者からの承認

 ところで、ヘーゲルは『精神現象学』の中で、「自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する」と言っています。

 私たちはふつう、こう考えています。まず「私」や「あなた」が存在する。そして、この「私」や「あなた」が関係し合うのが人間関係である、と。「私」の肉体や「あなた」の肉体だけを見ている限り、このような考えが正しいように見えます。

 ですが、「私」というのは、「私」以外の人間と無関係に最初から存在しているのではなく、「私」以外の人間--父親や母親、妻、子ども、恋人、同僚、友人、上司--から認められる(承認される)ことによってのみ存在しえる。ヘーゲルはそう言っているのです。

 「私」の存在が他者による承認にもとづいていることを端的に示す感情が、不安です。

 親しかったはずの友人が、ある日突然、自分のことを無視しはじめたとしましょう。あるいは、愛し合っていたはずの恋人から、何の前触れもなく、急に音沙汰がなくなったとしましょう。そんなとき、人は不安になります。

 親友や恋人が自分のことを無視するということは、いままで友達や恋人だと認めてくれていたのに、いまは認めてくれなくなったということです。自分を認めてもらえなくなると、存在が不安定になり、不安を感じるようになります。それは、他者からの承認が「私」の存在をつくっていることの何よりの証なのです。

 もし、自分のことを知っているはずの人が、そろいもそろって急に「あなた、誰?」と言い出したら、私たちは自分が誰なのか、自信がもてなくなるでしょう。

「私」の存在が抱える爆弾

 「私」の存在というのは、お互いを認め合うという承認関係の糸が絡まり合ってできた結節点のようなものです。いわば、「私」の存在には、最初から他者の存在が食い込んでいるのです。これが、「私」の存在が抱える爆弾です。

 例えば、人間だけが年をとるとボケることがあります。自分の周りに家族がいても、自分が必要とされていない、自分の存在を認められていないと感じるようになると、自分の存在が不安定になり、場合によっては消滅してしまうのです。

 心を病むのも人間だけです。それはそもそも「私」の存在が、他人の承認によって成り立つという不安定な構造をもっているからなのです。
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カント--感性の形式としての空間と時間

『1日で学び直す哲学』より

カント流のカテゴリー論

 まずはカテゴリーの話からはじめましょう。

 すでに見たようにアリストテレスは、言葉の使用法を精査することで、存在の意味を分類しました。それがカテゴリーでした。

 カントも似たようなやり方で、主著『純粋理性批判』の中でカテゴリーを導き出しています。アリストテレスは「AはBである」という判断を、「ある」の意味の違いに着目して、可能な限り列挙するというやり方をとりました。それに対して、カントは判断そのものをまず分類します

  〔1 量の判断〕

   ①すべての人間は動物である。(全称判断)

   ②若干の人間は日本人である。(特称判断)

   ③この人間は大阪生まれである。(単称判断)

  〔2 質の判断〕

   ①彼は人間である。(肯定判断)

   ②彼は猿ではない。(否定判断)

   ③彼は非論理的である。(無限判断)

  〔3 関係の判断〕

   ①人間は理性的である。(定言判断)

   ②もし彼が人間であるなら、理性的である。(仮言判断)

   ③彼は日本人か、ドイツ人のどちらかである。(選言判断)

  〔4 判断の様相〕

   ①人間は理性的でありうる。(蓋然判断)

   ②人間は理性的である。(実然判断)

   ③人間は理性的でなければならない。(必然判断)

 〔量の判断〕というのは、主語の量(すべてか、一部か、ひとつか)によって判断を分類したものです。〔質の判断〕は、主語と述語の関係が肯定されるのか否かによって分類されています。〔関係の判断〕は、主語と述語の関係が条件つきか、あるいは無条件なのかによる分類、〔判断の様相〕は、主語と述語の結びつきの確実性による分類です。

 この判断の表から、カントは以下のようなカテゴリーを導き出してきます。

  〔1 量のカテゴリー〕  ①単一性 ②数多性 ③総体性

  〔2 質のカテゴリー〕  ①実在性 ②否定性 ③制限性

  〔3 関係のカテゴリー〕 ①実体と属性 ②因果性と依存性(原因と結果)         ③相互性(能動と受動の交互作用)

  〔4 様相のカテゴリー〕 ①可能性と不可能性②現実性と非存在 ③必然性と偶然性

カテゴリーの意味の変容

 アリストテレスのカテゴリーとの大きな違いは、カントのカテゴリー表には時間と場所がないことです。それは、カントにおいてカテゴリーが、アリストテレスの場合とはかなり異なる意味合いを与えられているからなのです。

 繰り返しますが、アリストテレスにおいてカテゴリーとは、存在(「ある」)の意味を分類したものでした。存在の意味を分類したということは、別の言い方をすれば、この世にあるありとあらゆるものは、このカテゴリーによって分類可能だということです。それゆえカテゴリーは「最高類概念」と呼ばれています。

 カントは、カテゴリーというアイデアをアリストテレスから受け継ぎながら、この銀杯にプラトン哲学という酒を注ぎ入れます。

 『パイドン』において展開された、「等しさ」をめぐる議論を思い出しましょう。あの議論が示していたのは、人間の認識のあり方でした。

 人間の認識というのは、カメラが映像をとらえるようなものではなく、ある枠組みが認識のシステムとして、あらかじめ私たちの中にあるのだ、ということでした。この「認識の枠組み」こそカテゴリーなのです。
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地域福祉のボランティア

『ビギナーズ地域福祉』より ボランティアとしての住民・当事者とコミュニティワーク

住民の絶大な力

 せち辛い今の世の中にあっても、昔ながらの人清味ある活動を続けている人はいるし、それを現代風にアレンジしようと試みる人もいる。たとえば、伝統的という意味では、ひとり暮らしのお年寄りを隣近所の人が気遣って、毎日おかずを届けるといった下町的な人付きあいは、都市部でも意外に残っている。また、近くに住むお年寄りたちを住民が気にかけ、郵便物が溜まったままになっていないかとか、毎日雨戸が開閉されているかなどと見守り、時には話し相手になったりしている。子育て中の親同士で、互いに子どもたちの面倒を見あうようなこともある。

 そのような活動は,まさに住民の自発注や公共意識,仲間意識などに根ざして実を結ぶものである。それらは制度や専門的規範から自由であり,ボランティアの住民たちは一様にいきいきと楽しそうにしている。何より,支えられる本人にとっても,自分に継続的に関わってくれて,体調変化などに気づいてくれる住民ボランティアはとても心強く、情緒的に満たしてくれる存在、いざというときには頼れる相手となる。

 このような担い手は「インフォーマル資源」と呼ばれ、行政や専門職・機関などの「フォーマル資源」と概念的に対となることを、説明した。フォーマル資源には専門知や高度な技術に裏づけられた支援、制度枠組みによる支援など、代替不可能な活動領域が与えられている反面、個々の住民に丁寧かつ継続的に関わり、まるで家族や友人のように接することはできない。インフォーマルな資源は、その上うな「非専門性」と称するべき独自領域でこそ力を発揮することができる。支える側の住民にとってはボランティアのつもりがなくても、支えられる本人からすればまさに命綱であり、その福祉的意義は絶大といえる。

ボランティアの多様性

 地域福祉という概念が登場することによって、地域という1つの生活基盤の中で、目に見えるボランティア活動のスタイルが定着してきた。施設や病院の中でのボランティアという従来の活動フィールドを飛び出して、在宅福祉の場で、あるいは障害者の作業所でボランティアをするとか、宅老所づくりにボランティアで関わるとか、バリアフリーのまちづくり運動に参加するといった積み重ねの中で、地域で活躍するボランティアの姿にあまり違和感がもたれなくなってきた。ひと昔前までは、ボランティアに対して周囲の人が、「せっかくの休みの日に、他人のために出かけていく奇特な人」という冷ややかな視線を送ることもあったが、現在では、人々が助けあったり支えあったりする意味で、ボランティアが市民社会づくりや福祉社会づくりにとって欠かせない人たちなのだということが社会全体の理解になってきた。また、職場とは異なり、自由意思で参加するボランティアは、活動者にとっても自分の才能を開花させ、成長できる場、つまり「自己実現」の場なのだという考え方も浸透してきた。

 伝統的な住民活動の延長線上にある現代的な取組みは、仕事や趣味・関心に基づくテーマを掲げたり、活動を組織的・継続的にしたりしながら、幅広い住民層にマッチする活動形態を模索しつつ活躍の場を広げている。演芸をたしなむ人が癒しのためのボランティアをする、音楽家がミュージック・セラピーのようなボランティアをする、大工職人がバリアフリー建築の場でボランティアで助言するなど、仕事や趣味の延長線上で何か貢献をしたいというパターンはその筆頭といえる。専門分野や得意分野を活かしたボランティアなので、活動者の負担は少なくて済むし、サービスのクオリティも高い(逆を考えればわかりやすい。たとえば運動音痴を自認する人に少年野球のコーチを頼むのはもってのほかだろう)。担い手も受け手も楽しみながら、社会をよくしていけるのがポイントといえる。

 さらに、国内ではなくて外国でボランティアをするとか、災害ボランティア、防災ボランティア、人権のためのボランティア、あるいは里山を守るボランティアとか森林を守るためのボランティア、防犯でいうとが--ディアン・エンジェルスのように、若者の事件が起きないようにボランティアでパトロールするという新しいスタイルもある。近隣住民の孤独死に心を痛めた人たちが、集合住宅全体の運動として孤独死防止に取り組む例も知られている。若者が商店街の空き店舗を借り、お洒落なカフェやギャラリーにして、地元の魅力を再発見しつつ、文化・情報の発信基地にしているケースも増えてきた。例をあげるときりがないほど、形態が多様化してきている。
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