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「中国の夢」とは何なのか

『現代中国』より 中国特色社会主義 中国独特の社会主義

中国特色社会主義の課題はやはり、人類の普遍的な価値を認めるかどうかにある。自由・民主・法治・人権といったものを人類共通の財産と見るか、それとも「腹いっぱいでやることがない外国人が、中国の欠点をあげつらう」ための問題なので中国には不要と捉えるかで、「中国の夢」は異なってくるのだ。二〇一三年の新年早々、「中国の夢」の解釈をめぐり、大きな騒動が起こった。広東省の週刊新聞『南方週末』の新年のあいさつが党の宣伝部によって書き換えられたのだ。はじめ「中国の夢、憲政の夢」と題し憲法によって中国が民主的に統治されることを願う内容であったものが、「我々はどんな時代より(中国の)夢に近づいている」と書き直され、現在の中国の発展を賛美する記事となったのである。この事件が世間に知れわたると、知識人や学生を中心に多くの市民が抗議活動をおこなった。また広東省だけでなく、北京やその他の地域の新聞も『南方週末』の記者たちを支援するメッセージを送った。

憲法のもと自由・民主・法治・人権を実現することが「中国の夢」と考える人たちに対し、中華民族の復興こそが「中国の夢」だと考える者もいる。中国人民銀行の金融政策学術委員も務めるデビッド・リー(李稲葵)はキッシンジャーらとの対談で、中華民族の復興のゴールは唐代の再現だと述べた。「私たちの目的地は、一五〇〇年前の偉大な帝国、唐の時代の復興です。このリバイバルとは、別に西側に対する仇討ではなく、世界の圧倒的覇権国家としての米国の成功を模倣しようということでもありません。それは平和的で、自信を持ち、包容力のある唐の帝国の文明を復興しようというものです」(『中国は二一世紀の覇者となるか?』)。もちろん、先に紹介した『盛世 中国二〇一三年』の著者・陳冠中のように「(党は)どこまでいけば復興の到達点なのか、明確にしない。おそらく、共産党自身も本当のところゴールなんて定めていない。復興へ導く共産党に感謝させ、求心力を保つスローガンだ」(『アエラ』 一三年一月一四日号)という推測も成り立つ。「憲政」と「復興」がせめぎ合うなかで、今後のキーワードとなるのが「小康」と「大同」だ。

どちらも中国古代の思想家が描いた理想社会だが、この言葉を使って中国の未来を描いた現代の政治家は小平と毛沢束である。一九七九年十二月、小平は訪中した日本の大平首相(当時)に「われわれが打ち出した四つの現代化の最低目標は、今世紀末までにまずまずの程度の社会(中国語原文は小康之家)にすることである」(小平『中国の特色をもつ社会主義を建設しよう』)と語った。一方、毛沢東は「西方のブルジョア文明、ブルジョア民主主義、ブルジョア共和国構想は、中国人民の心のなかでいっせいに破産してしまった。(中略)人民共和国をへて社会主義と共産主義に到達し、階級の消滅と世界の大同に到達する可能性がうまれた。康有為は『大同書』を書いたが、大同(社会)にたっする道をみつけだせなかった」(毛沢東『人民民主主義独裁について』)。つまり、小平は「小康」という言葉を使い、中国の生産力を発展させ国民の生活水準を上げようとしたのに対し、毛沢東は革命の成功を一気に推し進め、人類がまだ到達したことがない理想社会を「大同」という言葉で語ったのだ。経済成長を続ける中国は、二十一世紀前半には小平が語った「小康社会」を実現するものと思われるが、毛沢束の路線に戻り大躍進や文化大革命の時期のような「大同社会」へ歩む可能性はまずない。だが、「大同」や「小康」を使って、西欧近代の普遍的な価値観を否定していく可能性は十分にある。

しかしそれ以前に、「中国の夢」がもしアメリカン・ドリームのような高度な物質消費社会を実現することならば、地球の資源は枯渇し、もう一つ地球が必要となるであろう。人類の普遍的な価値を認め、中国が核拡散などの軍備管理、地球温暖化などの環境破壊問題、地球規模の飢餓と貧困、海洋資源などの海の共同開発、宇宙やサイバースペースなどの新たな領域……こうしたユニバーサルな課題を諸外国と協調して、国際的な管理のもと平和的に解決していく方向に進むかどうかは、全世界の行方をも左右する重大な問題だが、答えはまだ誰にも見えていない。
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国民国家の発明

『経済と人類の一万年史から、21世紀世界を考える』より

国民国家の発明

 ヨーロッパは、「国民国家」という新たなモデルを発明した。国民国家は、これまでにあった二つのモデルの中間を行くものだ。一つは、古代アテネをはじめとする都市国家であり、その後にヅェネチアやフィレンツェ、ハンザ同盟都市などのモデルが登場した。もう一つは、古代ローマのような帝国モデルであり、これは強力なフィクションとしてヨーロッパ人の意識に長年にわたって維持された。たとえば、神聖ローマ帝国がこれに該当する(これは一八○六年にナポレオンにょって正式に廃止された)。その後、ヨーロッパでは帝国の秩序が再構築されることはなかった。山や海の向こう側に位置する他の国々と競争状態に置かれた各国は、自国領土内で生きる術を学ばなければならなかった。そのょうな絶え間ない緊張感こそが、ヨーロッパのダイナミズムの基盤の一つだった。ヨーロッパは、キリスト教信仰を通じた普遍的な帝国というアイデアと、各国ごとの特性を整合させる術を学ぶ必要があったのだ。

 人間中心主義と科学の思想が大きく開花するのは、まさにこうした軍事的緊張感と道徳的な緊張感が交叉する場においてであった。ガリレオ裁判により、イタリアの科学はしばらくの間停滞したが、彼の光明はニュートンのイギリスヘとスムーズに移行した。アイデアを長年にわたって封印しておくことはできない。革命的なアイデアであれば、なおさらだ。そうしたアイデアは、隣国に打ち勝とうとする王や王子の周辺に必ず届く。イタリアの都市国家の商業文化は、ジェノヅァからアントワープ、アムステルダム、ロンドンヘとスムーズに移行した。ジェノヴァ出身のクリストファー・コロンブスは、インド旅行の費用をまかなうために、ヨーロッパの都市をさまよい歩いたが、ことごとく支援を断わられた。最終的にコロンブスは、スベイン在住のユダヤ人から財産を没収したことによって財政上の余裕が生じたスペイン王室から旅費を工面した。

 また、ヨーロッパは、ヨーロッパ諸国間の軍事競争によって西インド諸島や束インドなどへの海外進出を果たす際に、決定的でより直接的な優位を手に入れた。戦闘能力の高い軍事力をもつヨーロッパの軍隊は、遠征中に遭遇する軍隊を難なく蹴散らし以。卓越した軍事力を確保し、科学的な革命があふれ出るアイデアを蓄積した西欧は、世界を征服しようとしたのである。

社会の分断/国民国家の病的解釈

 第一次大戦後になって、戦前の高度経済成長の時代に生じた社会的矛盾が顕在化した。一八七〇年から一九一三年にかけて、ドイツでは都市化が急速に進んだ。大都市の喧騒と個人主義に肺易し、多くの人々は、自然あふれる農村部において、ふたたび健康的で簡素に暮らしたいというノスタルジーを抱いた。都市部におけるモラルの荒廃を嘆く人々も多くいた。都市化によって社会が多様化したため、社会的に出世できるようになったが、社会的に没落するリスクも同時に増え、社会的な不安は増大した。国家を頼みの綱とする人々が増えたのである。

 ドイツ社会では、人々の移動性が高まり、人々の社会的地位も出自によらず多少は変化するようになった。だが、ドイツ社会は、他のヨーロッパ諸国よりも社会的地位によって分断化された硬直状態にあった。さらに、社会的階級の違い(ブルジョワジー・労働者・サラリーマン・職人)は、前近代の規範、つまり封建的秩序として根強く残っていた。戦前の他の西側ヨーロッパ諸国と同様に、貴族は特権階級を維持していた。だが、とくにドイツでは、貴族の政治的・社会的な地位は著しく高かった。エルベ川東岸のユンカーと呼ばれる地主貴族は、自分たちの領土において、封建領主としての特権を享受していた。彼らは、司法警察権をもち、教会と学校を自分たちの管理下に置いた。貴族は、相変わらず軍国的な君主制や官僚と密接に結びついていたので、権力システムにおいて命令を下す戦略的地位にあった。戦争までのドイツの歴代の首相は、全員が貴族だったし、ドイツ帝国の政務次官、プロイセン州やザクセン州の大臣も同じくほとんどが貴族だったのである。

 プロイセンの官僚的軍事国家は、社会に深く浸透していた。哲学者ヘーゲルや社会学者マックス・ヴェーバーによると、ドイツでは、国家は「それ自体が目的であり、理性の化身」だった。官僚とは、議会制に好ましくないすべてのもの、つまり「市場の矛盾した利益の大混乱に立ち向かう共通の善」と見なされた。

 ドイツ社会では、信仰も断絶していた。ドイツ人口の三分の一はカトリック教徒であり、彼らは中道政党であるゼンタラムの支持基盤だった。国民の多数が属するプロテスタント教会は、国家と太いパイプを維持していたが、戦争の直前では、宗教というよりは、厳格な倫理になっていた。宗教の影響力が弱まったため、その代用となる神学が探し求められた。それは、政治という信仰だった。

 ユダヤ人の人口がドイツ社会に占める割合は、ごくわずか(全人口の〇・六%)だったにもかかわらず、ユダヤ人のドイツ革命への参加ならびに政治運動が、ドイツの第一次大戦敗戦の原因だと吹聴された。ヒトラーはユダヤ人の責任を問う急先鋒だった。ユダヤ人は、資本主義と社会主義革命という矛盾したものをともに推し進めており、「資本主義とボルシェヴィキ主義という二つの物質主義によって、地球征服をもくろんでいる」として糾弾された。

 ドイツは、第一次大戦以前の経済的成功にもかかわらず、国民国家というヨーロッパ・モデルを病的に解釈した。(神聖)ローマ帝国の伝説は、他のどこの国よりも、ドイツでは長く生きつづけた。宗教の分裂は、ドイツに深い傷跡を残した。ドイツとオーストリアという二大勢力間の二重性は解消されず、戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したため、国の統一問題が再燃した。最後に、正式な議会制の採用は、一九二八年の敗戦後になってからだったが、議会制はすぐに弱体化した。
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トルコ--エスニックな紐帯と東西の「架け橋

『現代アフガニスタン史』より

トルコとアフガニスタンの強いつながりの基礎には、「イスラームとしての連帯」があり、その関係は前で述べたように、20世紀以降の歴史を見ても政治、経済、軍事、文化と広い範囲にわたる。また、地球儀上で確認すればわかるように両国の地理的距離は近く、トルコ人と同じく中央アジアを祖先の土地とするトルコ系のウズベク人と呼ばれる人々がアフガニスタン領域内に多く住んでいる。

さらに、「アラブの春」の流れの中で中東諸国の「民主化」が議論された中で、1920年代には議会制民主主義を取り入れていたトルコは目指すべきモデルとされたように、20世紀初頭のアフガニスタンにとっても、いち早く西欧的「近代国家」となったイスラームの同胞トルコは、新たな「アフガニスタン」という国家を造り上げるための具体的な目標でもあった。そしてトルコ側もそのようなアフガニスタンヘの援助を惜しまず、独立当初から、軍隊の創設、教育制度の構築などを支援するため、多くの専門家を派遣しか。

欧米、日本とは異なる文脈で深い関係を有する両国は、9・11以降もその関係が保たれ、また強化されている。9・11の報復としてのアフガニスタンヘの軍事行動は米と英だけで実施されたが、同年12月にタリバーン後の国内の治安維持のために組織されたISAFには、英国、フランス、ドイツとともにトルコは最初の派遣国の一つとして参加した。元トルコ外相、国会議長であり初代のNATOの文民代表も務めた、ヒクメト・チェティンは、「トルコの参加はNATOの一員という理由の他に、アフガニスタン側を剌激しないためイスラーム国からの参加を希望したNATO側の思惑、さらに歴史的、民族的につながりが深いトルコとアフガニスタン関係から、トルコ政府自身が参加に前向きであった」からと述べている。先に述べたドイツあるいは日本のように、アフガニスタンヘの派兵について国内で賛否両論の議論が巻き起こる場合と異なり、「トルコがアフガニスタンの復興を助けるのは当然」との雰囲気が当初からあったという。

ただISAFへの参加に際して、「戦闘行為は行わない」という条件がトルコ政府から付けられ、それに従って最初のISAFへの派遣は非軍事要員のみであった。また他の諸国からの圧力があったにもかかわらず、トルコ軍は対テロ戦争である「不朽の自由作戦」には参加していない。これは、ムスリム間での戦いを避けるという心情的な理由に加え、万が一アフガニスタンにおいてトルコ軍が加わる戦闘で犠牲を出すような事態が起こった場合、米国の戦争に加担した政権への、トルコ国内における保守層から批判が起こることを防ぐという政治的な意味合いもあったと考えられる。

トルコ政府のアフガニスタン支援での軍事的な色合いを薄める努力は、例えばそのPRTの活動に現れている。トルコはカブールの西隣のワルダック州(2006年から)と北部のジャウズジャン州(2010年から)を担当し、それぞれ100名程度の規模(80名が国軍、20名が警察、残りが外務省、援助機関職員等)で道路、学校、病院の建設・補修、農業指導といった支援を行った。

前述の通りPRTは米国をはじめ20カ国以上が派遣しているが、トルコのPRTには次のような特徴がある。「軍民協力」の例とも言われるPRTであるが、その基本は地方部の治安維持を任務とする軍中心の単位である。そのような中、トルコPRTの隊長は非軍人(トルコ外務省の外交官)が務めており、通常、軍の任務となる警備はトルコ警察が担い、軍は非常時に備えて待機をしている。そしてパトロールの回数を極力減らす、車両の銃座に兵士を乗せないといったことで可能な限り軍の色合いを薄め、さらに相手に恐怖感を与えないためサングラスはかけないといった細かな配慮がなされている。北部のトルコ系住民との間ならトルコ語による直接的な意思疎通も可能であり、もちろん同じムスリムであることで、他の欧米諸国の軍がしばしば起こす、宗教に関する無知、無関心から生じる住民の反感を買うような言動をとる危険性は想定しなくともよい。

以上のような、現地の事情に精通した上での支援は、2001年以降、アフガニスタンにおいて戦闘や襲撃でのトルコ人関係者の犠牲者が出ていないという事実とともに、一般民衆レペルでの「信頼」も獲得している証拠であると言える。

また、パキスタンの建国の父ジンナーがトルコをパキスタンという「国家」のモデルとしようとしたとも言われるように、トルコはパキスタンとの関係も深い。アフガニスタンをめぐる問題は、「アフ・パク問題)とも呼ばれ、隣国パキスタンとの関係の中で捉えることが必要とされてきた。その双方とも関係が深いトルコは、アフガニスタンとその周辺地域の安定化のために、例えば2007年から通称「アンカラ・プロセス」と呼ばれる、アフガニスタンとパキスタンの首脳同士の対話機会の提供や、アフガニスタンを中心とする地域協力について話し合う「イスタンブール・プロセス」を推進してきた。

1991年から2003年にかけて、タリバーン政権下での現地駐在も経験し、トルコのアフガニスタン問題特別調整官を務めたアイデミル・エルマンは、「9・11以降の卜ルコのアフガニスタンヘの関与は、明らかに意識的なソフトパワーの投影であると述べているように、トルコはNATOの一員かつ欧米諸国と近い関係にあるとともに、対アフガニスタンとの関係においては、両国の歴史的、文化的関係も背景に支援を行ってきた。それは、超大国である米国、あるいはその他の諸国は真似ができない点であり、限られたしかし独自の「資源」を有効に活用する外交政策の一例であると言える。

そして、以上見てきたような、文化、歴史、宗教、そして民族といったエスニックな原理に基づく紐帯の強さは、逆に言えば、現地での活動において「人心収攬」という標語を掲げながらも、戦闘等による多くの犠牲者を出している欧米諸国にとって、異文化環境の中での戦いと支援の困難を再認識させるものでもある。
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神出鬼没のパートナー

未唯空間の位相化

 未唯空間のキーワードを抽出して、それをインバリアントにします。

神出鬼没のパートナー

 パートナーは用心していない時に来ます。予測している時には、絶対来ないけど。

存在の力

 存在の力で変えるしかないでしょう

他人の視線が気にならない

 マルクスもエンゲルスも近視だった。これは一つのヒントです。他人のことが気にならない脳。
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