『グローバル経済の誕生』より ドラッグ文化の経済学
われわれは、朝食の時にコーヒーを飲んでから仕事に取りかかる。そして休憩時間に、また昼食をとった後にもコーヒーを飲む。コーヒーは、世界で取引される商品のなかで第二の地位を占めている。コーヒーが流通する以前の世界では考えられないほど、現代生活に不可欠なものとなった。しかし、コーヒーがわれわれのテーブルに届くまでに五〇〇年の歳月を要したのだ。その間、コーヒーは四つの大陸を通り抜け、様々な仮面を付けてようやくわれわれのもとに到着したのである。
羊飼いが、羊の群れを追っているうちに苦い木の実を見つけて食べたところ、興奮して跳ね回り、やがて乱心した。こうして羊飼いは、偶然、イエメンでコーヒーという木の実がなっていることを発見した、という話がエチオピア伝説のなかに出てくる。紅海を横断してコーヒーの実を輸送したアラブ人は、おそらく奴隷ハンターであり、コーヒーの実と奴隷を交換していたのかも知れない。こんな恐ろしい取引が四〇〇年間も続けられた。人類の創造主を思い浮かべることができるようになるまで長い時間瞑想に耽るアラブの神秘主義的なスーフィー派は、一五世紀半からコーヒーを愛飲するようになった。だが、イスラムの保守的な法学者は、コーヒーには毒素があり、この毒素は人間が崇高な精神に到達するのを妨げるものであるとして、コーヒーを飲むことを糾弾した。そして彼らは一五一一年に、メッカの街頭でコーヒー袋を燃やした。その後、オスマンートルコの皇帝は、コーヒーハウスを経営した者は、刑罰として鞭打ちの刑に処す旨の勅令を公布している。それでも懲りずコーヒーハウスを経営した場合には、罪人を革袋に入れてボスポラス海峡に投げ捨てることとした。
オスマン・トルコの支配者がコーヒーの普及に対して恐怖を抱いたのは正しかった。実際、カイロ、イスタンブール、ダマスカス、アルジェのコーヒーハウスは、政治的陰謀が練られるなど、淫らな空気が渦巻く根城となっていたからである。コーヒーが今日のように愛飲されるまで、精神を刺激する飲み物、また中毒性の飲み物、さらには破壊分子の飲み物等と、様々な評価を受けたが、オスマン・トルコだけではなく、それ以降、他の大陸においても同じような扱いを受けた。
ヨーロッパにおけるコーヒーに対する需要は、商業資本主義が台頭した一七世紀に高まった。中世には「中東で産出される豆」でしかなかったコーヒーは、一七世紀になると西洋の資本主義的産物へと変貌した。コーヒーをヨーロッパに持ち込んだ最初の商人はベネチア人であった。このベネチア人のお蔭で今日われわれは、エスプレッソやカプチーノを飲むことができるのだ。ところが、コーヒーを最初に調達したベネチアの商人は、それをただれ目、水腫、痛風、壊血病に効く医薬品だと信じていたのである。やがてロンドンの商人達は、商品取引所としての役割も兼ね備えていたコーヒーハウスで、一杯のコーヒーを飲むようになった。ジョナサンやギャラウェイも、四分の三世紀の間、イギリスのコーヒーハウスおよび主要証券取引所としての役目を果たした。バージニア・アンド・バルチックもコーヒーハウスと海運取引所を兼ねていた。そして、ロイズ・カフェは、世界最大の保険会社になった。コーヒーハウスは、オフィスビルとして、また最新のニュースを発信する「小さな大学」(知識と情報の宝庫)として、さらには最初の男性用クラブとして機能した。コーヒーは、ビジネスを刺激したが、薄暗くて騒がしいコーヒーハウスに入り浸りになってしまった夫たちに憤慨した妻たちは、コーヒーは「始末に負えないほど汚くて、悪臭を放ち、吐き気を催させる不潔な泥水のような飲み物」だと言い張り、しかもコーヒーが原因で、夫がインポテンツになってしまったと主張してコーヒーハウスに対する一斉攻撃を開始した。これに応えてチャールズ二世は、コーヒー依存者を抱える家族に対する同情というよりも、コーヒーハウスでの常連たちの政治的議論を懸念して、コーヒーハウスを閉鎖しようとしたが失敗した。イギリスが紅茶づくしの国になるためには、東インド会社の台頭とインドの植民地平定を待たなければならなかったのだ。
コーヒーは、ヨーロッパ大陸で新たに台頭した資本主義的繁栄を享受する有閑階級が集まるカフェ社会の象徴になった。
われわれは、朝食の時にコーヒーを飲んでから仕事に取りかかる。そして休憩時間に、また昼食をとった後にもコーヒーを飲む。コーヒーは、世界で取引される商品のなかで第二の地位を占めている。コーヒーが流通する以前の世界では考えられないほど、現代生活に不可欠なものとなった。しかし、コーヒーがわれわれのテーブルに届くまでに五〇〇年の歳月を要したのだ。その間、コーヒーは四つの大陸を通り抜け、様々な仮面を付けてようやくわれわれのもとに到着したのである。
羊飼いが、羊の群れを追っているうちに苦い木の実を見つけて食べたところ、興奮して跳ね回り、やがて乱心した。こうして羊飼いは、偶然、イエメンでコーヒーという木の実がなっていることを発見した、という話がエチオピア伝説のなかに出てくる。紅海を横断してコーヒーの実を輸送したアラブ人は、おそらく奴隷ハンターであり、コーヒーの実と奴隷を交換していたのかも知れない。こんな恐ろしい取引が四〇〇年間も続けられた。人類の創造主を思い浮かべることができるようになるまで長い時間瞑想に耽るアラブの神秘主義的なスーフィー派は、一五世紀半からコーヒーを愛飲するようになった。だが、イスラムの保守的な法学者は、コーヒーには毒素があり、この毒素は人間が崇高な精神に到達するのを妨げるものであるとして、コーヒーを飲むことを糾弾した。そして彼らは一五一一年に、メッカの街頭でコーヒー袋を燃やした。その後、オスマンートルコの皇帝は、コーヒーハウスを経営した者は、刑罰として鞭打ちの刑に処す旨の勅令を公布している。それでも懲りずコーヒーハウスを経営した場合には、罪人を革袋に入れてボスポラス海峡に投げ捨てることとした。
オスマン・トルコの支配者がコーヒーの普及に対して恐怖を抱いたのは正しかった。実際、カイロ、イスタンブール、ダマスカス、アルジェのコーヒーハウスは、政治的陰謀が練られるなど、淫らな空気が渦巻く根城となっていたからである。コーヒーが今日のように愛飲されるまで、精神を刺激する飲み物、また中毒性の飲み物、さらには破壊分子の飲み物等と、様々な評価を受けたが、オスマン・トルコだけではなく、それ以降、他の大陸においても同じような扱いを受けた。
ヨーロッパにおけるコーヒーに対する需要は、商業資本主義が台頭した一七世紀に高まった。中世には「中東で産出される豆」でしかなかったコーヒーは、一七世紀になると西洋の資本主義的産物へと変貌した。コーヒーをヨーロッパに持ち込んだ最初の商人はベネチア人であった。このベネチア人のお蔭で今日われわれは、エスプレッソやカプチーノを飲むことができるのだ。ところが、コーヒーを最初に調達したベネチアの商人は、それをただれ目、水腫、痛風、壊血病に効く医薬品だと信じていたのである。やがてロンドンの商人達は、商品取引所としての役割も兼ね備えていたコーヒーハウスで、一杯のコーヒーを飲むようになった。ジョナサンやギャラウェイも、四分の三世紀の間、イギリスのコーヒーハウスおよび主要証券取引所としての役目を果たした。バージニア・アンド・バルチックもコーヒーハウスと海運取引所を兼ねていた。そして、ロイズ・カフェは、世界最大の保険会社になった。コーヒーハウスは、オフィスビルとして、また最新のニュースを発信する「小さな大学」(知識と情報の宝庫)として、さらには最初の男性用クラブとして機能した。コーヒーは、ビジネスを刺激したが、薄暗くて騒がしいコーヒーハウスに入り浸りになってしまった夫たちに憤慨した妻たちは、コーヒーは「始末に負えないほど汚くて、悪臭を放ち、吐き気を催させる不潔な泥水のような飲み物」だと言い張り、しかもコーヒーが原因で、夫がインポテンツになってしまったと主張してコーヒーハウスに対する一斉攻撃を開始した。これに応えてチャールズ二世は、コーヒー依存者を抱える家族に対する同情というよりも、コーヒーハウスでの常連たちの政治的議論を懸念して、コーヒーハウスを閉鎖しようとしたが失敗した。イギリスが紅茶づくしの国になるためには、東インド会社の台頭とインドの植民地平定を待たなければならなかったのだ。
コーヒーは、ヨーロッパ大陸で新たに台頭した資本主義的繁栄を享受する有閑階級が集まるカフェ社会の象徴になった。