『命題コレクション 社会学』より
われわれが〈現実〉とよんでいるものは,実体的実在でも,先験的な所与でもない。それは多元的な領域からなる意味の秩序として主観的に構成されたものにすぎない。にもかかわらず,〈現実〉が客観的な拘束力をもつのは,それが主体に構造的に〈内在化〉されるからである。そして,そのような〈現実〉構築のプロセスは,本質的に社会的相互作用の場と切り離すことができない。
普段われわれは常識的に,われわれを取りまく〈現実〉や,それを作りなしている個々の対象が,それ自体として固有の性質をもった実体であるかのように信じている。外界を見まわして,たとえばそこに1本の木を認めたとしよう。その時,われわれは瞬間的にあたかもそこに「木の本質」を備えた固定した実体が存在しているかのように思ってしまう。しかし,そのように思うのは実は錯覚でしかない。というのは,ゲシュタルト心理学も指摘するように,われわれの知覚は必ずなんらかのフィルター(知覚の装置)を介して行われるのであって,決して「ありのまま」の対象がそのまま知覚されるのではないからである。より正確にいうなら,そもそも「ありのまま」の対象などというものは実在しないのであって,対象はフィルターが外界からの刺激を分節化する機能を通してはじめて現出するのである。ということだとすると,われわれが〈現実〉とか世界とかよんでいるものは,実際には,われわれが作り出した知覚の仕組みによって主観的に構成され,人工的な秩序のなかに組織されたものにすぎないということになる。
それでは,このようなフィルターの仕組みや〈現実〉の秩序はどのようにして作り出され,保持・修正されていくのか。さらには,もともと主観的な構成によって出現したはずの〈現実〉が,主観的作用から独立した「モノ」として,あたかもあるがままの実体的実在であるかのように現象し,独自の自動的メカニズムをもってわれわれを拘束する力をもってしまうのはどうしてなのか。
現在アメリカにおいて「現象学的社会学」あるいはそれに立脚した「現実構成主義」とよばれている立場の人びとは,このような観点から人間と社会の関係をとらえようとする。そして,そのことによってはじめて人間と社会の間の力動的な関係をとらえることができると考えるのである。
アメリカ社会学のなかに現象学的視点を導入することになったのは,A・シュッツであった。彼によれば,現象学はデカルト的懐疑という方法を徹底化することによって,世界の現実性に対するわれわれの暗黙の信念を停止することを教えてきた。これが現象学的エポケーとよばれる概念である。ところで,日常的世界のなかで生活している人びとの素朴な態度のなかにも,ある特殊なエポケーが含まれているとシュッツはいう。人びとは世界とその諸対象への信念を停止するのではなく,その反対に世界の存在に対する疑念を停止している。日常生活における人びとの自然的態度は,世界が見かけどおりではないのではないか,という疑いを括弧に入れることによって成立している。そこでは世界が経験されるとおりの形でそこにあることが素朴に信じられ,その存在根拠は問われることなく自明的に理解されている。シュッツはこれを自然的態度のエポケーとよんでいる。
一方,自然的態度に対して科学的態度とよばれるものが,このような自明的理解を克服したものであるかというと,必ずしもそうではない。確かに,科学は対象的世界め諸要素,諸状態,諸法則について精密に究明しようとするのだが,それが立ち向かおうとする現象(認識の対象となる事物)それ自体については実は初めから自明視されてしまっているのである。というのは,科学にとっても認識の対象またはそれを構成する基本的な事物は,われわれの日常生活におけると同じ知覚の仕組みによって対象化されざるをえないのであり,通常そのことが科学の内部で主題化されることはないからである。したがって,認識対象の自明的理解は必然的に認識主体や認識根拠に関する自明的理解を伴っている。その点では科学的態度もその根底において自然的態度の延長でしかありえず,いかに精密科学といえどもわれわれの日常的現実理解から完全に離れて成立するわけではない。
現象学は,自然的態度におけるあらゆる自明的理解をいったん括弧に入れ,意識に直接現れるがままの「事象そのもの」へ向かおうとする。この現象学的還元(エポケー)とよばれる操作によって,世界は素朴な実在であることを止め,純粋な意識的生の流れのなかに現れるがままの「現象」となる。主観はこの「現象」を経験や対象へとなんらかの仕方で織り上げる。世界にリアリティを与えるのは,この主観性の志向的な構成作用なのである。還元の方法とは,要するに,素朴実在論的な実体的世界像をいったん取り払い,疑うことのできない純粋意識から出発して,どのように「現象」から対象的世界が意識の中で作り出されているかを跡づけようというもくろみに他ならない。もはや,そこには伝統的認識論におけるような絶対的客観世界の存在は前提とされていない。これを前提とするかぎり,世界と一致する完全な認識は〈神〉でも想定しなければ不可能になってしまうからだ。したがって,ここでの認識の問題は,客観的世界から出発してその正しい認識はいかにして可能かを問うのではなく,意識の中に構成される世界を普遍的な仕方でありのままに記述することなのである。
われわれが〈現実〉とよんでいるものは,実体的実在でも,先験的な所与でもない。それは多元的な領域からなる意味の秩序として主観的に構成されたものにすぎない。にもかかわらず,〈現実〉が客観的な拘束力をもつのは,それが主体に構造的に〈内在化〉されるからである。そして,そのような〈現実〉構築のプロセスは,本質的に社会的相互作用の場と切り離すことができない。
普段われわれは常識的に,われわれを取りまく〈現実〉や,それを作りなしている個々の対象が,それ自体として固有の性質をもった実体であるかのように信じている。外界を見まわして,たとえばそこに1本の木を認めたとしよう。その時,われわれは瞬間的にあたかもそこに「木の本質」を備えた固定した実体が存在しているかのように思ってしまう。しかし,そのように思うのは実は錯覚でしかない。というのは,ゲシュタルト心理学も指摘するように,われわれの知覚は必ずなんらかのフィルター(知覚の装置)を介して行われるのであって,決して「ありのまま」の対象がそのまま知覚されるのではないからである。より正確にいうなら,そもそも「ありのまま」の対象などというものは実在しないのであって,対象はフィルターが外界からの刺激を分節化する機能を通してはじめて現出するのである。ということだとすると,われわれが〈現実〉とか世界とかよんでいるものは,実際には,われわれが作り出した知覚の仕組みによって主観的に構成され,人工的な秩序のなかに組織されたものにすぎないということになる。
それでは,このようなフィルターの仕組みや〈現実〉の秩序はどのようにして作り出され,保持・修正されていくのか。さらには,もともと主観的な構成によって出現したはずの〈現実〉が,主観的作用から独立した「モノ」として,あたかもあるがままの実体的実在であるかのように現象し,独自の自動的メカニズムをもってわれわれを拘束する力をもってしまうのはどうしてなのか。
現在アメリカにおいて「現象学的社会学」あるいはそれに立脚した「現実構成主義」とよばれている立場の人びとは,このような観点から人間と社会の関係をとらえようとする。そして,そのことによってはじめて人間と社会の間の力動的な関係をとらえることができると考えるのである。
アメリカ社会学のなかに現象学的視点を導入することになったのは,A・シュッツであった。彼によれば,現象学はデカルト的懐疑という方法を徹底化することによって,世界の現実性に対するわれわれの暗黙の信念を停止することを教えてきた。これが現象学的エポケーとよばれる概念である。ところで,日常的世界のなかで生活している人びとの素朴な態度のなかにも,ある特殊なエポケーが含まれているとシュッツはいう。人びとは世界とその諸対象への信念を停止するのではなく,その反対に世界の存在に対する疑念を停止している。日常生活における人びとの自然的態度は,世界が見かけどおりではないのではないか,という疑いを括弧に入れることによって成立している。そこでは世界が経験されるとおりの形でそこにあることが素朴に信じられ,その存在根拠は問われることなく自明的に理解されている。シュッツはこれを自然的態度のエポケーとよんでいる。
一方,自然的態度に対して科学的態度とよばれるものが,このような自明的理解を克服したものであるかというと,必ずしもそうではない。確かに,科学は対象的世界め諸要素,諸状態,諸法則について精密に究明しようとするのだが,それが立ち向かおうとする現象(認識の対象となる事物)それ自体については実は初めから自明視されてしまっているのである。というのは,科学にとっても認識の対象またはそれを構成する基本的な事物は,われわれの日常生活におけると同じ知覚の仕組みによって対象化されざるをえないのであり,通常そのことが科学の内部で主題化されることはないからである。したがって,認識対象の自明的理解は必然的に認識主体や認識根拠に関する自明的理解を伴っている。その点では科学的態度もその根底において自然的態度の延長でしかありえず,いかに精密科学といえどもわれわれの日常的現実理解から完全に離れて成立するわけではない。
現象学は,自然的態度におけるあらゆる自明的理解をいったん括弧に入れ,意識に直接現れるがままの「事象そのもの」へ向かおうとする。この現象学的還元(エポケー)とよばれる操作によって,世界は素朴な実在であることを止め,純粋な意識的生の流れのなかに現れるがままの「現象」となる。主観はこの「現象」を経験や対象へとなんらかの仕方で織り上げる。世界にリアリティを与えるのは,この主観性の志向的な構成作用なのである。還元の方法とは,要するに,素朴実在論的な実体的世界像をいったん取り払い,疑うことのできない純粋意識から出発して,どのように「現象」から対象的世界が意識の中で作り出されているかを跡づけようというもくろみに他ならない。もはや,そこには伝統的認識論におけるような絶対的客観世界の存在は前提とされていない。これを前提とするかぎり,世界と一致する完全な認識は〈神〉でも想定しなければ不可能になってしまうからだ。したがって,ここでの認識の問題は,客観的世界から出発してその正しい認識はいかにして可能かを問うのではなく,意識の中に構成される世界を普遍的な仕方でありのままに記述することなのである。