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図書館はありがたい

『蔵書の苦しみ』より 図書館があれば蔵書はいらない?

それは、図書館の利用術である。ここで「図書館」とは、以後、公立図書館を指すが、これをうまく使えば、特に古書に興味がない一般的な読書人にとって、ほぼ自分の蔵書など不要とも言える。つまり、寅さんふうに言うならば、「蔵書の苦しみ」において、「それを言っちやあ、おしまいよ」という話題なのだ。

物書きや研究者など、本を道具とするプロはそうはいかない。それが健全な家庭生活を圧迫するほど本を買い込んで溜める、ある種の防波堤になっている。「やっぱり資料となる本は、つねに手元へ置いておかないと」と言い張ることで、なんとか家人からの攻撃を防御している。しかし、その「手元」にあるはずの本が、けっきょく見当たらず、近隣の図書館へ借りにいく始末だ。あるとわかっていて見当たらない本を借りる。これが私の図書館利用術の極意だ。

なにしろ、架蔵さえチェックすれば、そこには、まちがいなくある、しかもすぐ出てくる。なんと図書館とは便利なんだろう。

そのほか、自分の蔵書では手薄なジャンルの本も、とりあえず必要なものだけ借りて重宝している。

いま、目の前にレシートタイプの「貸出期限表」が貼られているが、これは返却を忘れないための備忘措置である。現在は四冊。『シニアの読書生活』『埼玉鉄道物語』『埼玉県の歴史散歩』『市民の図書館 増補版』とタイトルと返却日がひと目でわかる。なにしろ、部屋中、本が山積、散乱しているので、ここにまぎれたら、雪崩で遭難した登山者を救助するような騒動になる。

借りてきた本は決まった場所に置いておき、この貸出票で確認して返すようにしている。私が借りるような本は、予約で待つ人が重なったりすることもないだろうが、期日までにちやんと返却するのがルールと心得ているからだ。そう言いながら、『市民の図書館 増補版』(日本図書館協会)を別の日に借りて、返却し忘れていることに気づいた。いかんいかん、明日、返しに行こう。

タイトルに「埼玉」がつく二冊は、「日本古書通信」誌に連載している古書店探訪記(「昨日も今日も古本さんぽ」)で、秩父へ行ったときのことを書くための参考資料だ。老川慶喜『埼玉鉄道物語』(日本経済評論社)は、秩父鉄道および西武秩父線についての記述を補完するのに、たいへん役に立った。税込み三千円弱する本なので、ほんの数行の記述のためにわざわざ買うのはもったいない。また、買って手元に置いても、そうそう縁く種類の本でもない。一時期拝借できる図書館というシステムは、非常にありかたい。

『市民の図書館 増補版』は、著者・関千枝子。図書館について書かれた名著で、副題が「ドキュメント 日野市立図書館の20年」。じつは、ここに登場する元日野市立図書館の創設メンバー前川恒雄が書いた『移動図書館ひまわり号』(筑摩書房)を、偶然見つけて読み、異常なほどの感動を覚えたのだ。その内容について詳述するのは、『蔵書の苦しみ』のテーマとははずれるので避けるが、それから、次々と図書館で図書館に関する本を借り出すようになる。そこで気づいたのは、図書館には、図書館に関する本が充実している、ということだった。

これはある意味、あたりまえかもしれない。図書館に置く本を選ぶのは図書館員であり、とくに日本図書館協会が発行する本は、一般性の少ない専門書が多いから、公立図書館が購入しないかぎり出版が成立しない。図書館の本が置かれているのは、日本十進分類法で「総記」。私は図書館を利用するが、図書館そのものに興味はなかったから、『移動図書館ひまわり号』の衝撃以前は、あまり立ち寄らなかった。日本でこれだけ図書館関連の本が多数出ていることは知るよしもなかったのだ。

いまは行く先々の公立図書館を訪れ、先日は、中央本線茅野駅(長野県)に隣接する茅野市民館内の図書室が、駅と市民館をつなぐスロープを活用した、陽がさんさんとふり注ぐ、ユニークな建築であることを知り、わざわざ訪ねていったほどだ。

借りるだけではない。こうなると図書館に関する本が次々と目につくようになり、たちまち十冊を超える図書館本を購入するようになった。当初は、図書館をうまく使えば、蔵書は減るというコンセプトで書き出した原稿だったが、話は逆だ。とくに小田光雄『図書館逍遥』(編書房)は、図書館にまつわるあらゆる本や文学作品を次々と紹介したみごとな読書エッセイで、絶対のおすすめ本。教えられることばかりで、すっかり堪能して図書館熱に拍車がかかった。おかげで、ここに紹介された室井光広の芥川賞受賞作『おどるでく』(講談社)や、モスタファーエル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』(中公新書)などを探して、またまた本が増えていく。古本屋で飯島朋子『図書館映画と映画文献』(日本図書刊行会)、冨渾良子『TOKYO図書館日和』(アスペクト)なんて本を見つけると、嬉々として買い上げる。これでは、どうにもしょうがない。
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なぜドイツだけが憎まれるのか

『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』より EUのドイツはアジアの日本の反面教師

納得できないのは、ギリシャをはじめとする財政破綻国の、ドイツ、それもメルケル首相に対する憎悪である。

メルケル氏にナチの制服を着せたカリカチュアがギリシャの雑誌に出回っていたが、逆恨みとはこのことだ。緊縮財政を求めているのは、別にメルケル首相だけではないし、ましてや、彼女が自分の権力を見せつけようと思ってやっているわけでもない。

借金国の言い分は、平たく言えば、「借金の後始末は全体責任としてドイツが負担、財政管理や予算の主権は各国が保持」ということ。皆でドイツを悪役にしている様子は、ハリウッド映画とよく似ている。こうなると、ユーロ圏を抜けたいのは、ドイツのほうだ。

彼らが借金国になってしまった原因は、ドイツではなく彼ら自身にある。二〇一〇年七月、ギリシャは一八二九年の建国以来、初めて公務員の人数を数えた。その結果、どうも勤労者の四人に一人が公務員らしいことがわかった。

公務員職は、何かのお礼にもらえたり、世襲であったり、また、お金で買えたりするらしい。それにしても信じがたいのは、この調査をするまで、ギリシャという国が、全就労者の二五%という莫大な比率の公務員に、どれだけの給料を支払っているのかを誰も知らなかったという事実だ。

さらにいえば、この国では、賄賂なしには何も進まない。自動車免許も手術の日程も、すべて袖の下次第という絶望的な国家体質になっている。

しかも、税金は頭の悪い者が払うものと皆が思っているのだから、これでは破綻するのも無理はない。たいていの店で領収証をくれないのは、消費税などの税金を払っていないからだ。

一部の大金持ちは、脱税したお金を外国の銀行に蓄えている。政治家もお金持ちの仲間なので、肝心要の構造改革には極めて消極的。

そして、破綻しそうになっているこの国の人々が何をしていたかというと、大がかりなデモに明け暮れていた。「年金カット反対」「給与カット反対」「税制改革反対」だ。

しかし、他の国だってお金が余っているわけではない。一生懸命働き、税金を払っている国の人間を憎むのはお門違いである。

ユー口共同債にしてもそうだ。ギリシャだけでなく、フランスもイタリアも、あたかもドイツがEUの共通の利益を妨害しているような責め立て方をするが、とんでもない。ドイツの国債は、現在、利子がなくとも買い手が付くのだ。ところが、ギリシャはもちろん、スペインもイタリアもフランスも、高い利子を付けてもなかなか国債が売れない。

ユーロ共同債が実現すれば、またまた大損をするのはドイツやオランダやフィンランドといった国々だ。他の国は濡れ手に粟の臨時収入を得ることになる。

ドイツがこれまで何もしていないなら、ユーロ共同債という援助の方法もあるだろう。しかし、ドイツはすでにとてつもない額を拠出している。だから、ューロ共同債の話はEUの財政規律をちゃんと定めてからにしましょう、と提案しているだけなのに、それをまた責められるとは、なんとも不公平な話である。

ドイツでは、当然のことながら、この底なしの援助に対する反発が高まっている。ギリシャ救済などすぐにでも止めたい、できることならEUなんて脱退したいと思っている人も少なくないはずだ。

それをメルケル首相が、「ヨーロッパを守らなければいけない。ギリシャが破綻したらEUは破綻する。そうしたら、ドイツも破綻する」という三段論法と、「救済する代わりに、ギリシャには緊縮財政を敷いて、できる限り節約してもらう」ということで、ドイツ国民を鼓舞したり、脅したり、宥めたりしながらここまでやってきた。

それだけではない。彼女は、政府に圧力をかけてくる金融界と果てしない駆け引きをし、「緊縮財政だけではギリシャを救うことはできない」などともっともらしい理屈で、足を引っ張る野党を牽制もした。

緊縮財政だけではギリシャを救えないというのは当たり前だが、さんざん我慢を強いられているドイツ国民に対し、メルケル首相が「救済だけでなく融資も」などといえばどうなるか。そうでなくても切れかけている堪忍袋の緒があっという間に切れてしまうだろう。

ドイツ国民は、この状況にほとほと嫌気がさしている。国民投票で決めたなら、ギリシャはとっくの昔に破産しているだろう。近年では無力感が先に立つらしく、議論好きのドイツ人がギリシャをあまり話題にしたがらないほどだ。

ヨーロッパを一つにしようという意気込みで始まったEUは、いまや仲たがいの原因と化し、各国が自国の利益を守ろうと躍起だ。しかも、EUの経済状態は確実に悪化している。

そうするうちに、次第に反EUの機運が高まって来ている。こともあろうに、EUがヨーロッパをばらばらにするかもしれない。

こんな皮肉な展開を、いったい二〇年前には、誰が想像しただろうか。
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社会の位相化

社会の位相化

 本当に時間がない。未唯空間の位相化から社会の位相化のイメージを得ました。

 どうも、社会の位相化をしたいみたいです。というか、そのイメージを作ること。

 変化しか書いていないけど、それでいいのか。多様性である限りでは、そのまま、なることはありえない。その部分では検証できるが、それ以外はできない。ヘーゲルの「精神現象学」の実例になるかもしれない。

 社会の位相化まで、来ると、チャッターとお知らせとの違いみたいなものです。チャッターのプレーンな世界でどのようにやり取りするのか。ナレッジが必要です。

 社会のすべてを位相化で組み替える。目的に合わせた、人の配置。ハイアラキーを超えるカタチ。そのための知識と意識をどう、現実のものにしていくのか、拠点としてのコミュニティのあり方、行政の解体とその配分、あとは連携とカバーリングです。

会議室という名のトポロジー

 ムスリムは、中央集権を狙ったわけではない。そのために偶像支配もやめた。だけど、人間は弱いものです。頼ろうとします。権力に憧れます。それがムスリムの敵ではないこと。一神教が故のトリックなんでしょうね。

社会の位相化の可能性

 日本は新しい世界に持って行ける可能性を持っています。何しろ、頼るものがない。一神教に比べると一段階、逆の方を向いています。多くの人が幸せになるためには、社会の位相化が最適です。

 多ければ多いほど、分化レベルが高ければ、位相のチェーンがつながっていきます。その意味では、数学モデルとしては、完璧です。それを社会にどのように適応するのか。何しろ、人は点ではないから。

パートナーの拘り

 昨日は、パートナーの拘りが聴けて、楽しかった。本人は苦しんでいます。あそこまで、問題意識が固まっていれば、あとは皆に分かるようにするだけです。解決策はSと一緒に考えればいいです。Sは情報系システムに対する愛着は一番あるけど、一番ないかもしれない。持って行き方次第です。

 パートナーは年休だから、風景がさびしいです。家で、しっかりまとめておいてください。

今日も3時起き

 今日も、3時起きで、4時からOCRです。まあ、3時間も寝れただけいいんでしょう。

スタバのIさん

 10日以上、スタバのIさんに会っていません。どうしたのかな。まあ、人が足りているから、バックヤードに居るのかな。今日、居なかったら、呼んでもらいましょう。

 他のバリスタではダメですね。ここ2年で、色々な相談事もやってきました。Iさんの感情もよく分かります。

 スタバに行ったら、居ました。よかった。5分ぐらい、話し込んでしまった。先週、カウンターから呼ばれたけど、その時は冷蔵庫に首を突っ込んでいたので、聞こえなかったそうです。

 名古屋市科学館の「世界を変えた書物」展の切り抜きをもらいました。

概念

 ヘーゲル以降、概念は事物を外的に観念化したものでは、もはやなくなった。それが指し示すのは、事物が持つ創造と破壊の力。その内的な正のせいである。

 雑記帳#701の『哲学の犯罪計画』をキンドルの「哲学」にいれます。じっくりとこなしましょう。読み飛ばすのではもったいない。

民主主義の危機

 民主主義の二重の重大な危機。一つは多数決の専制であり、もう一つは、沈黙の民を黙殺し、圧殺してしまう危険性。多数者の専制は独最初の専制よりも深刻な事態である。ナチの全体主義は、レジスタンスの活動する余地があったけど、大衆による、全体主義にはそれがない。

 プラトンの『国家』を再読した方がよさそうですね。

 要するには、多数決では民主主義ではありえないということです。直接民主制にしても同じです。

議論の仕方

 多数決ではなく、議論の仕方を変えないといけない。そのためには、個人の分化が必要です。

 テーマごとのパーティとか、コミュニティ単位とかの工夫が必要です。グリーンのようにまとまり自体を変えてしまうことも必要です。

 その時に、民主主義の「民」とは誰かが問題です。決定権を持つ単位を、どう決めるかです。もっと小さな単位で、グループを決めるとか。その時に多数決はありえない。

 原発をその周辺の住民だけで決めるわけにはいかない。下手すると、利害関係者だけで、その時点で決めることは横暴です。それがどこまで影響を及ぼすのか。

 位相化の特徴は地域化です。もっと小さくして、そこから再構成していく。だから、位相化では、新しい民主主義に変わっていく。
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